人は善悪どちらの性質なのか 性善・性悪説 その3~漢文解説「孟子」(告子章句上)~「性猶湍水也」

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こんにちは、文LABOの松村瞳です。

氏か育ちか。血筋か環境か。

人となりを決定づけるのは、どちらであるのか。

ずっと昔から論議されていた疑問ですが、その元となったのは古典の思想家たちです。

今回は孟子の性善説を強く表している、もうひとつの部分を解説します。これは、孟子の論敵であった、告子の発言に対する反論です。

この時期の思想家は、自然現象などから理屈を見出し、それを人間に当てはめる形の論説を取ります。

観察し、根拠を見つけ出して、誰が見ても変わらない定理を見つけ、それを応用する。現代の論文の書き方の基本が詰まっているような論の進め方です。

是非、漢文を勉強する時に、その論の進め方をまねて自分の文を書く参考にしてみてください。数千年残ってきた文章の基本形です。ただ、テストの為に覚えるだけではもったいない。論旨の進め方を学ぶ貴重な機会にしてください。

水は必ず高いところから低いところへ落ちるもの

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【「性猶湍水也」~告子曰く、性は猶ほ湍水のごときなり~】

~白文~その1

告子曰、「性猶湍水也。決東方東流、決諸西方、則西流。人性之無分於善不善也、猶水之無分於東西也。」

~書き下し文~その1

告子曰く、「性は猶ほ湍水のごときなり。諸(これ)を東方に決すれば、則(すなわ)ち東流し、諸を西方に決すれば、則ち西流す。人性の善不善を分かつ無きは、猶ほ水の東西を分かつ無きがごときなり」と。

~訳文~その1

告子が言うことには、「人の本性は、渦巻く水の流れのようなものである。水の流れ自体には東も西も無いが、東に堰を切り開けば、水は東に流れ、西に堰を切れば、水は西に流れてしまう。人の本性を善不善に分けられないのは、水の流れ自体に東西の区別が無いのと同様である」と。

~解説~その1

まず、この部分は、孟子が生きていた当時、彼と論を戦わせていた告子の言葉から始まっています。

告子が言う事には、人の本性というものは、水のようなものである、と。人間の性質は、水の特性と似ている、と言ったのです。

川の流れをみれば、それが解る。水の流れ自体には、どっちに進もうという意志は全くないが、東に流れる場所があれば、東に流れていこうとするし、西に流れやすい場所があれば、そこに流れようとしてしまう。

これと同じように、人の本性が善や善でない、という事を論議するのは、無駄なことだ。善も悪も、分かれ目など無い。水が流れの中で分かれることが出来ないと同じで、そちらに進む道があったならば、流れてしまうのが人間の本質である。

時々によって、水の流れが東西に分かれてしまうように、人も、その時に進める道に進んでしまっているだけで、その時に開かれている場所によって、善、悪が決まってしまう。人間は善、悪、どちらの性質も持っていて、状況や環境次第で、どっちにでも転がってしまうものなのだと、主張しています。

状況次第でどのようにでもなってしまう。環境や状況に余裕があれば、人は善をおこなえるけれども、それが一旦窮してしまえば悪行を為してしまう。

だから、善も悪も、私たちは両方持っているのだ、と主張した告子。

これに、孟子は真っ向反対します。

~白文~その2

孟子曰、「水無分於東西、無分於上下乎。人性之善也、猶水之就也。人無有不善、水無有不。今而躍之、可使過、激而之、可使在山。是豈水之性哉。其勢則然也。人之可使為不善、其性亦猶也。」

~書き下し文~その2

孟子曰く、「水は信(まこと)に東西を分かつ無きも、上下を分かつ無からんや。人性の善なるは、猶ほ水の下(ひく)きに就くがごときなり。人善ならざること有る無く、水下(くだ)らざる有る無し。今夫(そ)れ水は、搏(う)ちて之を躍らせば、顙(ひたい)を過ごさしむべく、激して之を行(や)れば、山に在らしむべし。是れ豈に水の性ならんや。其の勢則ち然るなり。人の不善を為さしむべきは、其の性も亦た猶ほ是(か)くのごとければなり」と。

~訳文~その2

対して、孟子が言うことには、「なるほど、確かに水流の方向に東西の区別はないが、どうして上下の区別が無いだろうか。(いや、ある)人の本性が善であることは、水が低い方に流れるようなものである。人の本性が善でないことはなく、水が低い方に流れない事はない。そもそも水は、もし手で打ってこれを躍り上がらせれば、跳ねて額を越えさせることも可能であり、堰き止めておいて勢いをつけて流せば、山の上にのぼらせることもできる。しかしどうしてこれが水の本性といえようか。水は外から加えられた圧力によってこのように出来るのである。人に不善をさせることが出来るのも、その本性が外からの影響を受けてのことである」と。

~解説~その2

孟子の反論です。

善、悪の性質の分け目など無い、と主張した告子に対し、「いいや、人間の本質は、善である!」と同じ水の流れを例にとって、説明したのです。

相手の出した例題と同じ素材を使って、見事に自分の主張を成し遂げています。頭の回転が速い人の言い争いって、レベル高いなぁ、と思ってしまう瞬間ですね。

確かに、横の流れ(東西どちらに流れるか)は、違いなど無いかもしれないけど、けれども、水って絶対に上から下に流れ落ちますよね。これは、否定できないよね、と孟子は切り返します。

だから、人間の性質が善であるのも、この水が上から下に落ちることが絶対であるのと同じくらい、自然の事。

たまに、この上下の法則を破って下から上に動く時があるけれども、(水面を水で打ったり、堰き止めて山の上におし上げたり) それは、外から力が加わったときだけで、自然に任せていれば、水は必ず上から下に流れ落ちる。

人間の性質が本来善で、悪を人間に行わさせてしまうのは、単に外から加わった力がそうさせているだけであり、外部からの圧力に影響されて行ってしまうだけなのだと。

【性善説・まとめ】

孟子はこのほかにも様々な論旨を残していますが、共通するのは人の本質が善であり、君主が仁徳に基ずいた王道政治を敷けば、戦乱を好む人間などいないのだから、君主にすすんで使えるようになり、善政が敷かれるのだというもの。

良いことをしたら、良いことを返したくなる。

それは、人間の性質が善であるから当然のことで、そこに付け入るような行動をしてしまう人間は、何かしらの環境の影響を受けてそうせざるを得なくなってしまうのである、と説いているわけです。

それを四端の説や、王道政治、性善説、人の性質は水で喩えられると、様々な切り口で語っています。

信じられたければ、先ず相手を信じよう。

親切にされたいのならば、先ず相手に親切にしよう。

人間の可能性に希望を込めて、孔子の考えを発展させた孟子。

さて、ではその反対。明日は、人間の本質は悪であると説いた、孟子の後継者。荀子の性悪説を取り上げます。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

 

 

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