評論文解説 「暴力の神話」山極寿一著 その3~対比は絶対に抑える~

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こんにちは、文LABOの松村瞳です。

今回は、対比を見抜く。と言うよりも、意識して落とさない事が大事ということを解説します。

人は何事も相対で意識していることが多いです。

相対とは、比べることです。「良いものが欲しい」「美味しいものが食べたい」これら全て、何かしらの基準があって、「一定以上の優れたもの」を私たちは欲しがります。

無意識に様々な物を比べているのですね。

「あー、上手いなぁ。」「あー、素敵だなぁ」という感嘆の声は、やはり自分の中にある何かと明確に比べているのです。

悲しみがあるからこそ、幸福も感じられる。

評論文を理解するには、この対比構造は必ず見抜かなければなりません。

何故ならば、この対比に、筆者の主張が表れているからです。評論家は無意味なものを比べはしません。比べる必要があるから、書いているのです。そして、全体を通して、この対比は論旨に直結しています。対比が見えたら必ず抜き出してまとめるぐらいの注意を払うべきものです。

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【狩猟と人間同士のけんかの違い】

段落番号6

そもそも、狩猟は人間どうしの戦いとは性質が違う。狩りは食物を効率よく取得する目的で行われるが、仲間との戦いは相手に自分を理解させ、平和を作り出す目的で行使される。(本文)

ここで、大きな対比がされています。

狩りと喧嘩の違いです。

両方とも、暴力。つまり、相手を攻撃する性質を持っているところは共通ですが、明確に違う部分があると。

狩りは、食物をとるために行われる作業。だから、食物がそれ以外の方法で手に入るのならば、基本暴力を使用する必要はありません。

狩りはあくまでも食事をとるために、必要な行動だった。

それは理解できます。難しいのは、ここからです。

なら、喧嘩は? 特に、人間どうし、仲間同士の喧嘩はどんな意味があるのか。ここでは、狩猟採集民族における喧嘩の意味ですが、相手との理解を図り、平和を作り出す目的で、喧嘩をするのです。

そんな少年漫画チックな論旨……あるわけないっ……(少年漫画にお約束の、最初は敵だったけど戦いを通して相手を理解し、最後には仲間になる展開。結構良く見ますよね。)って思いますが、まさしく此処を筆者は強調したいのでしょう。

【狩りの方法を仲間に向けることはない狩猟採集民族】

その喧嘩の時にも、決して狩りで得た方法。つまり、獲物をしとめる、殺傷能力を使って立ち向かう事は、ほぼ皆無だというのです。

何故なら、相手を殺す為ではなく、分かり合うために喧嘩をしているのだから、分かり合えたなら目的達成です。それ以上、争う事はない。

もちろん、殺す必要もありません。なぜなら、仲間は食料ではないので。

食べる目的でのみ、彼らは狩りをします。人間以外の霊長類もそうです。仲間は分かり合う相手なので、自分の面子が保てれば、喧嘩をする必要すらなく、あっさり引き下がるというのです。

狩りと仲間との争いは、全くの別。

むしろ、平和を保つために、喧嘩をしていた。相手を殺したり、傷付けることは滅多にないという、事実。

それを知ると、当然の疑問がわいてきます。

なら、同種の人間。仲間をお互いに戦争で殺し合っている私たち現代人は、一体どうしてこうなってしまったのか。

人間の祖は猿だと言い切ったのは、ダーウィンです。だからこそ、獣の性質が私たちにあると想定してきた学者たち。けれども、実際に霊長類や、現在でも狩猟の生活を守り続けているアフリカの部族を研究すると、全く予想とは違った生活形態が見えてくる。

私たちを凶暴にしてしまったのは、何なのか。

少し短いですが、切りが良いので今日はここまで。

明日は、私たち現代人を凶暴にした原因と、まとめです。

ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。

 

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