小説読解法 中島敦「山月記」解説 その2~人の心を動かすものとは~


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こんにちは、文LABOの松村瞳です。

「山月記」その2。人の心を動かすものの根幹とは何なのかについてお話します。

これは、小説にも言えることですが、芸術全般。創作をする人たちにすべて通じる真理です。それを物語の中で浮き彫りにした中島敦は、本当に稀有な小説家で、彼がもっと生きる時間を与えられていたのならば、もっとたくさんの素晴らしい作品を生み出したことでしょう。

この真理は小説の読解だけに役立つものではなく、それを理解し、自分の小論文や自己推薦文、エントリーシートなどに応用することが出来れば、あなたの書く文章は格段にレベルアップするでしょう。

それ以外にも、自分の心も含め、人の心が何に反応するのかを理解し知ることは、その後の人生を生きる上で、大きな糧を得ることにもなります。

人の心を揺り動かすものがなんなのか

 

【詩人を目指した勉学の天才】

李徴はとても頭が良かった人物として描かれています。難関な官僚試験の科挙をクリアし、産まれたときから自分の望みが叶わなかったことなどなかったのでしょう。プライドも高く、人から使われるばかりの役人の生活で一生を終えることに、我慢がならなかった。

頭が良すぎることは良いことのように思えるかもしれませんが、頭が良いからこそ、周りが馬鹿に思えてしまったのでしょう。そして、試験にはとても強かった分、万能感が李徴にはありました。

「自分の望んだことは、すべて上手くいく。上手くいかない事など、ない」

挫折したことが無い人間は、すべてが望み通りに行くことばかり、けれ池として積み上げます。試験で何も困らなかった李徴は、自分が思い通りにいかない事など何もないと、人に使われることではなく、誰の命令も聞く必要が無い。それでいて、役人よりも名声が高い詩人になろうと、職をあっさりとやめてしまいます。

英語のことわざにもありますね。

Easy come, Easy go.

容易く手に入ったものは、容易く手を離れていく。

李徴にとって、学力も科挙試験合格も。そして、官僚という身分も、容易いものであり、当たり前のように手に入れることが出来たものだからこそ、興味も未練もなかった。

そして、より難しいものへと彼は手を出していきます。それは、詩の創作でした。

ところが、この詩人としての名声は、全くと言っていいほど挙がって行きません。

日々、生活は苦しくなり、そして詩作をするために閉じこもるのが限界になってしまった李徴は、また地方の役人に職を得ます。李徴にとって、人生初の屈辱でした。

更に彼にとって我慢がならなかったのは、自分が無能だと見下していた人間達は、彼が詩作に耽っていた間。順調に出世を重ね、組織の上層部にいるようになっています。その無能な人間達の命令を聞かなければいけない。自分の方が優秀なのにと思っていても、すでに身分が違います。

詩人としての才能は自分にはなかった。そのことに絶望し、更に生きるために得た職でも屈辱を味わうことになる。李徴の辛い状況は、手に取るように伝わってきます。

自業自得だという生徒もいますが、なまじ産まれたときから能力が高かった分、自分の能力を過信してしまったのかも、知れません。

【虎になった李徴に起きた奇跡】

ところが、この後発狂し、虎になってしまった李徴が、偶然唯一の友と呼べる袁傪に出会います。そして、袁傪とひとしきり話した後。李徴は自分の作品を書き取ってくれないかと、頼みます。

そうして、人間であった頃。創った作品を書きとめてもらうのですが、袁傪は奇妙なことに気が付きます。

才能は確かにある。上手いは上手いし、技術もある。知性も感じられる。けれど、本当に微妙な何かが、この詩には欠けている。その欠けているものが何かは解らないけれど、何かが足りない。それだけは解る、と袁傪は李徴の詩を聞きながら思うのです。

けれど、すべてを書き終わった後。李徴はふと、「今、ふと即興で詩が浮かんだ。最期の機会かもしれない。書き取ってくれ」と、即興で詩を創ります。

その漢詩が、その場にいた人々の心を動かし、李徴の運命の悲しみと薄幸を嘆きます。

そう。足りないと言っていた「何か」が、この即興の詩にはあった。人の心を惹きつけてやまないものが、確かに存在したのです。

【李徴がどうして詩人として目が出なかったのか】

そもそも李徴が詩人を目指したのは、100年後。1000年後も自身の名前を残したいからです。つまり、名声。名誉を得るために、詩を創った。

詩を創りたい。何かを詠いたいと思って、詩を書いたわけではなく、その目的は名声を得るためです。

目的は皆からの称賛を浴びたい。詩は、その目的を達成するための単なる手段です。




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だからこそ、李徴の詩は魅力も何もなかった。これは大きなポイントです。

更に、李徴は人間であった時。周囲を見下していました。

誰も自分と同じレベルに居ない。みんな、遥か後ろを必死に歩いている。自分にとってはそんなところ、簡単に走れた場所を、必死に足掻いて無様な姿をさらしている。そんな人間に、能力のない人間に、自分の気持ちなど解るだろうか。

むしろ、理解などされたくなかったのが、李徴の本音です。

「お前らなどに俺の気持ちが解ってたまるものか」

そんな風に考えながら、詩を創っていたのでしょう。

知識だけを単純に問う試験ならば、それで良かったのかも知れません。けれど、知識があったからと言って、素晴らしい詩が書けるかと言われると、そうでもないのが真実です。知識は確かにあれば良いものかもしれませんが、万能ではない。

けれど、試験ですべて勝ちを得てきた李徴にとって、知識が満たされていれば成功出来るはずだと思い込み、また、李徴の人生においての勝ちパターンはすべてこれでした。

だから、人の気持ちを理解したり、自分の気持ちを伝えようと努力したりすることは全く経験が無く、むしろ「どうせ、君たちには解らないだろうね」と、周囲を見下しながら創作をしていた人間の作品が、魅力的に映るでしょうか。何かを人に伝えることが、出来るでしょうか。

けれど、虎になったことで、李徴は本当の意味での、孤独を知ります。

虎は百獣の王。

王たるものは、孤独です。なぜなら、圧倒的な力を持ちすぎているので、傍に誰も寄れないのです。そして、人から虎になった人間など居ない。更には、袁傪と話したように誰かと心を通わせようとしても、目の前を兎が通り過ぎれば、李徴の人間としての意識は吹っ飛んでしまいます。

そして、次に人間の意識が戻ってくるのは、自分の口が血にまみれ、目の前には先ほど目にした兎が無残な死体となって転がっている光景です。しかも、日々虎の意識の方が強くなっていき、人間の意識に戻れる時間が少なくなっていく。自分の人間としての意識が少しずつ少しずつ、消えていく感覚は恐ろしい以外の何物でもない。自分が自分でなくなっていく恐怖。そして、誰も自分と同じ状況になったことが無い環境。

それは、真実の孤独を李徴にもたらします。

そうして、孤独になって初めて、彼はこう思うのです。

「誰かにこの自分の気持ちを解ってほしい!!」

誰にも理解などされたくないと思っていた男が、本当の孤独と自分が消えていく恐怖と焦燥。そして、この悲しみを解ってくれる人など居ないと解っているけれども、せめて伝えたい。不可能だと解っているけれども、伝えたい。

その強烈な飢餓が、李徴の詩を、本物へと押し上げたのです。

【あなたが人に伝えたいものは、何ですか】

人は、何に惹かれるのでしょう。

地位や名声を得たいという野心でしょうか。それとも、とてつもない才能を秘めている天才に、惹かれるのでしょうか。

中島敦は、明確に違うとこの作品の中で語っています。

人の、人間の魅力はそんなものではない。そんな程度で、私たちの心は動かされない。

天才の李徴。人間が欲しいと思うすべての能力。頭の良さや容姿、そして実行に移せる行動力。努力を彼は、すべて持っています。

けれども、冒頭の語り口では、どうにも魅力的な人物だとは思えない。ただの、嫌味な奴で、詩人として目が出なかった事実を受け止めきれず、発狂した愚か者、ぐらいに受け取ってしまう生徒も居ます。

能力や出来ることに、人間は惹かれないのです。自己推薦文を多く読んでいると、自分のできることを必死にアピールするために並べ立てる人が居ますが、それは人の心を全く動かさず、あなたの魅力をむしろ下げてしまう方向になることを書いておきます。

それがなぜなのか。李徴を知ったあなたなら、もう解りますよね。

明日もまだ続きます。

ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。






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