小説読解 ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」その9~残酷な結末~

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こんにちは、文LABOの松村瞳です。

この「少年の日の思い出」に限らず、悲劇的な結末の小説というのは、とっても多いです。「山月記」や「故郷」、名作である「こころ」も「舞姫」も。そして、古典での名作である「源氏物語」も、基本的に報われない話です。

誰も幸せになどなっていない。むしろ、誰もが不幸になっていく。

このお話で言うのならば、主人公はもちろんのこと、エーミールも苦しんでいます。

こうやって小説を並べていくと、人間の一生というのは苦しみとの向き合いなのかもしれない。その苦しみとどう付き合い、そして乗り越えていくかが、生きると言うことの課題なのかも知れないなと、ふと思う時があります。

完璧な存在など、ありません。誰もが不完全で、誰もが罪を犯しうる。些細なきっかけで、誰かを傷付けてしまうかもしれず、それが取り返しのつかない事になってしまうかもしれない。

その取り返しのつかないという、残酷な現実を、主人公は痛みを伴って思い知ることになります。

エーミールからの軽蔑と、断罪の視線によって。

蝶を見ているだけで幸せだった。それだけで満足できていたならば……

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【怒りと憎悪の裏側】

何となく嫌だなと思う相手は、実は自分が心の中で何かを羨ましいと思っている相手である事は、小説読解 ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」その4~主人公と対立する人間の意味~で解説しましたが、怒りや恨みは、身近な存在に感じることが殆どです。

むしろ、以前はとても仲が良かったのに、人が変わってしまったように避けたり、憎み合うようになってしまったりすることは、珍しくありません。

直接の兄弟や両親などに憎しみや怒りを抱くことも、とても多いです。子どもを精神的、肉体的、経済的に苦しめることで自身の立場を確立しようとする毒親の存在も一般化されるようになりましたが、それら身近な存在。本来であるのならば、安らぎを感じる相手に対して怒りや憎しみを抱いてしまうのは、一体何故なのか。

それは昨日のエントリーでも書きましたが、無自覚に相手に期待をしてしまっているからです。

エーミールが、主人公は性格的に合わない部分があったとしても、蝶を愛する人間として、決して蝶を傷付けることが無いはずだと、疑いすら抱かなかったように。

【怒りの裏側に潜んでいるのは期待】

彼ならば、大丈夫だろう。

先生なんだから、これぐらいはしてくれるだろう。

人間だったら、これぐらいは最低限守れるだろう。

親だったら、そんな言葉は言わないはずだ。

私たちは、それぞれ思い込みの主観、という一人称の世界で生きています。どんなに脳科学が発達しても、どんなに心理学が発達しても、相手の考えていることをそのまま全て丸ごと理解することは、不可能です。分かりあえたと思っても、それは単なる一部分にすぎず、多くは想像上の思い込みであることが、現実です。

だからこそ、人間が誰かに抱く一方的な期待、というのは多くは自分がそう思い込んでいるだけの産物で、相手はさほどあなたが何を考えているかを気にもしておらず、あなたの期待に応える義務など本来は無いはずなのです。

けれども、人はそこで期待をしてしまう。あの人だったら、これぐらいしてくれるはずだ。または、彼だったら絶対にそんなことはしないはずだ、と。

その期待に応えられなかったことを、人は裏切りと捉えます。何故、自分の期待に応えてくれなかったのかと。

だからこそ、怒りを抱き、自分の期待に応えなかった相手を恨み、軽蔑し、蔑みます。自分の意見で足りないのならば、常識や正義、一般論を持ち出して相手を糾弾する。

そうやって、自分の期待に応えてくれなかった相手を断罪しようとします。

それをすることで、裏切られたという悲しみを誤魔化すように、相手を憎み、軽蔑する。

そう。怒りの裏側には、強烈な痛みや悲しみが潜んでいるものです。

その悲しみが強ければ強いほど。傷付いた痛みが痛ければ痛いほど、相手に対する怒りや軽蔑は強くなります。

【エーミールの軽蔑の強さ】

主人公はエーミールに対し、壊してしまった蝶のお返しに、自分の持っているおもちゃを何でもやる、と言いました。

この発言が、エーミールの怒りに更に火をつけた事に、主人公は気がついてもいません。

主人公は必死だったのでしょう。そして、他の友達ならば、それで許してもらった過去がもしかしたらあるのかもしれません。自分が代償とし差し出せるものは、それぐらいしか思いつかなかった。自分なりに、最大限の償いをしているつもりだった。

けれど、エーミールの絶望は論点が違います。

蝶の代わりが、おもちゃでどうにかなると思っている。主人公にとって、エーミールが愛してやまない蝶は、金を出せば手に入るおもちゃと等価であると言っているようなものです。

エーミールは、大事な蝶を壊されただけではありません。大事な宝物を失ったと同時に、自分が仲間だと思っていた相手は、蝶を失ったことを悲しんでいるのではなく、自分に許しを請うことで、自分の罪を軽くしてもらうことばかりを気にしている。

あまつさえ、蝶とおもちゃが等価であると、言いだしている。そんなもので、代わりが務まると思っている。

エーミールには、そうやって言いだした主人公の卑屈な態度が、手に取るように分かったのでしょう。しかも、主人公。言葉にして、謝罪を告げてすらいません。

そして、更にエーミールの怒りの炎に油を注ぎます。

おもちゃでエーミールの反応が変わらなかったので、主人公は蝶を差し出そうとします。自分の、収集を全てやると。

それが、エーミールの怒りを跳ね上げたのです。

自分の蝶を物々交換のように差し出せる。

それは、主人公にとって、自分の罪の軽減と保身の為に、差し出せるものである。無くなってもいいと思っているものである、という事です。

要するに、主人公にとって大事だったのは、自分が悪漢だと決めつけられない事。そのためには、おもちゃも蝶も差し出せるものであったという事実です。だからこそ、エーミールは主人公を心の底から、軽蔑した。

怒鳴りすらしなかった。罵りも、恨みごとも、何一つ言わなかった。

何を言っても、君にはきっと通じないと、絶望していたからです。

ああ、君にとって蝶は、たったそれだけの存在だったのかと。

そう考えると、次のエーミールの言葉は、どう受け取れるでしょうか。

「けっこうだよ。僕は君の集めたやつはもう知っている。そのうえ、今日また、君がチョウをどんなに取り扱っているか、ということを見ることが出来たさ。」と言った。(本文)

この、蝶の取り扱いについて。主人公が受け取ったように、盗み、壊してしまう乱暴な取り扱いをする下劣な人物、と解釈することもできますが、エーミールの立場で考えるのならば、「君は、蝶を交渉材料に扱える人間なのだ。君が大事なのは蝶ではなく、自分自身なのだね。蝶は、そのための道具でしかないんだね」と解釈することができます。

「僕は悪漢だということに決まってしまい、エーミールはまるで世界のおきてを代表するかのように、冷淡に、正義を盾に、侮るように、僕の前に立っていた。彼は罵りさえしなかった。ただ僕を眺めて、軽蔑していた。」(本文)

この、一段高いところから主人公を見降ろし、見下して、軽蔑している表現。当たり前でしょう。主人公とは、違う論点で彼は話しているのだから。

同じ目線に立てるはずもありません。

言いわけを聞き入れない、エーミールの冷徹な部分を主人公は責めたいでしょう。けれど、言いわけの裏側に隠れているのは、事情を理解し、共感を期待し、納得してもらい、仕方がなかった。僕が悪かったわけではないのだという、罪を正面から受け止めようとしない醜い姿です。

罵りや批判。つまり、喧嘩は、対等な相手としか、成り立ちません。

罵りさえしなかったのは、罵る価値。たとえ罵ったとしても、彼には何一つ通じないだろうとエーミールが悟っていたからです。

彼は蝶を好きなわけではない。彼が愛しているのは、蝶を保持しているという自分自身だ、と。

【罪の代償】

「そのとき初めて僕は、一度起きたことは、もう償いの出来ないものだということを悟った。」(本文)

複数盆に返らず。こぼしたミルクを歎いても、仕方がないことだ。様々な慣用句が存在しますが、主人公はこの体験を通して、許されない行為も存在することを学びます。

どれだけ謝罪をしたとしても、許されない事があるのだと言う事を。

逆にいえば、今までは全て許される世界に居たのでしょう。だからこそ、代償を支払えば、必ず自分の罪は許されるのだと思っていた。

その思い込みを打ち砕かれる瞬間でした。

自分は許されない事をしてしまった。消えない罪を背負ってしまった。

その自分を責めさいなむ気持ちは、集めていた蝶の収集へと向かいます。

自分に蝶を収集する資格はない。そして、蝶を見るたびに感じていた、あの高揚した気分に浸ることは二度とできない。なぜなら、蝶はその高揚感と同時に、自分の罪を象徴するものとなってしまったのだから。

蝶を見るたびに思い出してしまう、エーミールの軽蔑の瞳。自分は下劣な奴なのだという残酷な指摘を同時に思い出してしまう。

それに耐えられず、主人公は蝶を潰した。自分の指で一つ一つ。まるで。エーミールが罰しないのならば、自分で自分に罰を与えるかのように。

 

明日は、まとめと、仮にエーミールが許すとしたならば、主人公はどういった行動をとれば良かったのだろうか、という事を解説します。

ぜひとも、明日までに考えてみてください。

どうすれば、主人公はこの罪を犯してしまった後に、エーミールと分かり合う事が出来たのか。エーミールが共感を示すのは、どんな状況なのか。

ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。

コメント

  1. 坂元智子 より:

    主様の解釈の奥深さ、いつも感心して読ませていただいています。ありがとうございます。

    私は中学で国語を教えています。3年生、1年生の二学年。

    故郷での解釈、についても奥深く勉強中させていただきました。

    さてこの「少年の日の思い出」私も大好きな教材です。

    主人公の「僕」の幼い考え、実際に中1の段階では、その幼さがなかなか読み取れず、主人公寄りの物の見方が多いです。エーミール擁護派は、ほとんど無し笑

    だからこそ、エーミールの立場で授業を行うと、生徒側に新しい視点を伝えることができるだろうなあと思いました。

    ただ、主人公12歳の幼さ、大人になりきれてない部分、間違いから学ぶ大切さ等も確認し、一緒に考えたいので、「僕」も「エーミール」も平等に、、、笑

    とりとめもなく書いてしまいました。批判等ではありません。

    私は主様のような解釈は難しいので、またブログを読ませてくださいね。

    一方的で勝手な感想、お許しください。

    • 文LABO 文LABO より:

      丁寧な感想、ありがとうございます。
      この作品は、本当に今大人になって読んでも、
      色々考えさせられる作品で、私も大好きなお話です。
      叶わない事とは解っていても、大人になったエーミールと
      主人公が出会って話したならば、どんな会話になるんだろうなと
      考えずにはいられません。
      また、感想をお聞かせください。
      待っています。

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