評論文解説『「である」ことと「する」こと』丸山真男著 その1~権利の上にねむる者~


スポンサーリンク


こんにちは、文LABOの松村瞳です。

今回からは政治学者である、丸山真男さんの「日本の思想」から抜粋されている、恐らく高校現代文で最も難しいであろう評論文

『「である」ことと「する」こと』

を取り上げます。

独裁者はどのような経緯で生まれるのでしょうか

 

【権利の上にねむる者】

まず、有名な冒頭の解説です。

政治学者である著者の丸山さんの学生時代の話から、教科書の抜粋は始まっています。

民法の授業で、「時効」の制度について説明された時のことです。

法律の現場。とくに、民法上の裁判では、理不尽なことが良く起きている。

お金を借りて、「返してくれ!」と言われない事を良いことに、全く返そうとしない人間。出来れば、このまま返さずに済ますことが出来たら良いなぁ~と、思っている人間がいたとして、悪いのはお金を借りて返さない不心得者のはずですし、罰されるのは当然だと思いたいのは、人間として当たり前の感覚でしょう。

けれど、民法では、むしろ悪いのはお金を貸したのに、「返してくれ!」と要求を出さない人の方だ、と言うのです。損をしても、当然だと。

この規定の根拠には、権利の上に長くねむっている者は民法の保護に値しないという趣旨も含まれている、というお話だったのです。(本文より)

民法の保護、というのは、法律に守られている存在、と言う事です。

つまり、お金を貸して、課した相手に対して、「返してくれ!」と要求をし続けている人間だけが、民法に守られている存在である。要求を出し続けていないと、「時効」は切れて、お金を返してほしいと要求する資格すら失って損をする、という事です。

行動する人間だけが、権利を有することが出来る。

権利の上に眠る、という事は、権利を持っているという立場に安住してしまい、安心し、行動しなくなってしまうので、いつの間にかその権利をなくしてしまうまで眠っている、呆けている、と言う事です。

いま考えてみると、請求する行為によって時効を中断しない限り、たんに自分は債権者であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというロジックのなかには、一民法の法理にとどまらないきわめて重大な意味がひそんでいるように思われます。(本文より)

【「する行為」が「である位置」を保たせてくれる】

解りやすい例示を挙げましょう。

例えば、貴方がピアニストだったとしましょう。スポーツ選手でも構いません。

超一流の技術を持っていると仮定して、その技術。毎日の練習無しに、技術を保つことは可能でしょうか? 良いパフォーマンスを出し続けるためには、超一流だと評価されて、良い気になって練習を怠ったとしたならば……

どうなるかは、想像しなくても解ると思います。

常に超一流で居続けるためには、練習をする行為が不可欠であり、それを怠り、安住してしまったなら、その場所から転落してしまう。技術を喪失してしまう、という事です。

これは、成績や様々な能力にも喩えることが出来ます。

ピアニストの練習で有名な言葉があります。

1日休んだら、戻るのに3日かかる。

3日休んだら、1か月。

1か月休んだら、もう一生元には戻らない。

技術や立場と言うのは、常にその行為をし続けることによってのみ、確保される。要するに、頭の良い状態を保っている人。トップを保ち続けている人というのは、その立場に安住しているのではなく、常に努力をし続けている。する行為をし続けているからこそ、そこに居ることが出来る、と言っているのです。




スポンサーリンク



【日本国憲法第十二条】

そこには「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない。」と記されています。この規定は基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるという憲法第九十七条の宣言と対応しておりまして、自由獲得の歴史的なプロセスを、いわば将来に向かって投射したものだといえるのですが、そこにさきほどの「時効」について見たものと、著しく共通する精神を読みとることは、それほど無理でも困難でもないでしょう。(本文より)

「時効」と、日本国憲法に書いてある「自由と権利」に共通する精神がある、と言っています。

どこが共通するのか。

「時効」は、請求する行為によって、保ち続けられる。
それと憲法の「自由と権利」に、同じ部分が存在する。
つまり、自由であろうとする行為。権利を持ち続けようとする行為によって、自由と権利は保ち続けられる、といっています。

する行為によって、その状況を保てる。共通する部分は、ここです。

つまり、この憲法の規定を若干読みかえてみますと、「国民はいまや主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その権利の行為を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ。」という警告になっているわけなのです。(本文より)

自由と権利を、主権者で言いかえています。

【歴史的教訓】

これは大げさな威嚇でもなければ、空疎な説教でもありません。それこそナポレオン三世のクーデターからヒットラーの権力掌握に至るまで、最近百年の西欧民主主義の血塗られた道程がさし示している歴史的教訓にほかならないのです。(本文より)

主権者でいる、というのは、実はとても面倒なことです。

誰だって、政治の問題や法律や、刑法の問題は、頭の痛い問題です。どちらを優先しても、いつも小さな問題は常に存在している。

選挙で議員を選ぶ時も、誰に入れるのかを考えるために、様々なことを考えなければなりません。

めんどくさい。誰か、有能な人が一番良いように選んでくれないかな。そうしたら、面倒なことから解放されるのに……

そう考えてしまうと、共和制から帝政に逆戻りしたナポレオン三世のフランスのように。

共和制の社会から、ヒトラーという独裁者を選挙で選んでしまったドイツのように、民衆がサボりがちになったり、自分の主権を保とうと努力をしなくなった時に、主権は簡単に奪われてしまう。もしかすると、歴史的に実際にあったように、民衆が自ら手放してしまう事態も、起こりうる。

金を貸して、「返してくれ」と要求しない、権利の上にねむっている債権者のように。

そう、この部分で警告をしているのです。

 

続きはまた明日。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。






スポンサーリンク


コメントを残す