評論文解説『「である」ことと「する」こと』丸山真男著 その2~真実の自由とは~


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こんにちは、文LABOの松村瞳です。

「権利の上にねむる者」は、民法の保護に値しない。

この一言は、法律上の話ではなく、多くの場面で適応する真理だと解説しました。成績上位の状態でありたいのなら、その状態を保たせているのは常日頃の勉強をする行為がささえ、常に考える行動のみがその状態を保たせてくれている。

する=行動
である=状態

状態を支えるのは、行動のみ。

筆者、丸山さんはそう言いたいわけです。

自由とは拘束されていない状態、ということは……?

【自由という状態も行動によって支えられる】

アメリカのある社会学者が「自由を祝福することはやさしい。それに比べて自由を擁護することは困難である。しかし、自由を擁護することに比べて、自由を市民が日々行使することはさらに困難である。」といっておりますが、ここにも基本的に同じ発想があるのです。(本文より)

学者の言葉って、解りにくいですよね。ほんとに。

なんとなーくカッコ良さそうなので、雰囲気で流されてしまいそうですが、こういうのが結構評論文で落とし穴です。

分かりにくい言葉は解りやすい言葉に置き換える。地味だけど、大事なことです。

自由を祝福するとは、自由が良いものだな~、と思う事。
自由を擁護するとは、自由を害するものから戦い守り、かばう事。
自由を行使するとは、自由な行動を常にとり続ける事。

下に行くほど、困難である、と言っています。

例えば、

成績がトップって良いよな~、きっと気分いいんだろうなぁ~と思うだけは、とっても簡単。
けれど、成績がトップと言う事は、常に誰かと争っている事だから、その誰かとライバルで戦い、競い合う事は、少し難しくなる。
更に、成績トップで居続けるためには、日々、勉強をし続ける体力が必要。継続がなければ、その状態を確保することはより難しい。

自由も同じだと言っているのです。

【自由とは】

私たちの社会が自由だ自由だといって、自由であることを祝福している間に、いつの間にかその自由の実質はカラッポになっていないとも限らない。自由は置物のようにそこにあるのではなく、現実の行使によって守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由であり得るということなのです。(本文より)

自由と逆の状態ってどんな状態でしょうか?

自由の対義語は、良い意味で考えると、統制がとれている。規則、ルールがあり、一糸乱れず動いている事。

悪い意味でとるならば、束縛、拘束。どこかに繋がれていて、行動が制限されている事です。

つまり、自由という状態は、常にその反対。束縛されているという状態を経験しないと、「自由になりたい!」等とは思わない物なのです。

中学での校則の厳しさを体験しているからこそ、「あーっ、自由になりたい!」と思い、「高校になったら色んな事するんだ!」という気持ちも、色々なことを禁止されているから、湧き上がってくるのものです。

禁止されると、人って1.5倍やりたくなり、実際行動すると2倍それをやってしまうもの。束縛されればされるほど、人は自由になりたいと願います。

人類の歴史は、自由の獲得の過程といってもいい。それは、殆どの民衆が束縛、拘束され、虐げられている過程を経て、自由を欲したから自由・平等を掲げた近代民主主義が始まり、それが現代に繋がっています。

日々、自由になろう。自由であり続けようと努力し続ける姿勢が、自由という状態を保ってくれている。

自由が、束縛からの解放である限り、束縛されている事が前提です。最初から自由な感覚など、あり得ない。

束縛されている感覚を知っているものだけが自由を欲するし、自由を欲しようとしている存在のみが自由という状態を保てるのです。

【近代社会は民衆にとって厄介なもの】

その意味では近代社会の自由とか権利とかいうものは、どうやら生活の惰性を好む者、毎日の生活さえ何とか安全に過ごせたら、物事の判断などはひとにあずけてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ち上がるよりもそれに深々とよりかかっていたい気性の持ち主などにとっては、はなはだもって荷厄介なしろ物だといえましょう。(本文より)

ここで警告が筆者から発せられています。

近代社会は、それまで虐げられていた民衆が自由と平等、そして権利を勝ち取った時代です。




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それ以前の生活とは全く違う権利を享受できる、素晴らしい時代と言えるのかも、知れません。けれど、その状態に慣れると言う事は、拘束され、虐げられた感覚を忘れると言う事。

そして、拘束の感覚を知らない、という事は、自由に対する願望も薄れるということです。自由を満喫することで、逆に自由になりたいという気持ちも、無くなってしまう。

そして、人は、民衆は楽をしたいと思うものです。自由でありたいならば、自由であり続けるために行動をし続けなければなりません。けれど、行動することは「面倒」な事です。

その面倒なことを続けなければ、自由ではありつづられない。

何時の日か、楽に慣れた民衆の手から、自由と権利は奪われて、空っぽになってしまっているかもしれない。

そんな危険が潜んでいるのが、近代社会です。

 

【民主主義は怠けものにとって諸刃の剣】

物事、というものには、二面性が必ずあるものです。

長所だけの存在は、あり得ません。物事には短所もきちんと存在します。

長所の部分が大きければ大きいだけ、欠点も大きくなるものです。「自由」という状態の長所や、人々が追い求めたものであればあるほど、その裏に隠れている「責任」や求められる面倒な「行動」の比率も、大きくなるのが当然の結果です。

だからこそ、長所だけを享受し、その欠点や短所である責任を果たさない民衆には、「自由」というものは荷物として重いものになってしまう可能性がある。

その重さを投げ出して、良いところだけを貪ろうとすれば、ヒトラーのような独裁者が民主主義から生まれ、気が付いたら自由と権利を奪われてしまう可能性が常に潜んでいる。

民主主義とは、そんな諸刃の剣。うかつに扱えば、こちらも危ないものである、と書いてあるのです。

良い物にも、悪い面は必ずある。

自由や民主主義は良いものだと思われがちです。けれども、その内実を知らずに良いものだと思い込むには、あまりにも危険で大きすぎるものだと。

この冒頭の部分の認識が、この評論文を読み解く、カギとなります。

今日はここまで。

続きはまた明日。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

 






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