評論文解説『「である」ことと「する」こと』丸山真男著 その3~近代社会における制度の考え方~


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こんにちは、文LBAOの松村瞳です。

「である」ことと「する」ことの三回目。

であること=状態。

すること=行動。

状態は、つねに行動することによって支えられている。それは、民法、政治、自由においてそうである、という解説をしてきました。今日はその続きです。

信じることはとても尊い、けれども……

【自由人の落とし穴】

自由人という言葉がしばしば用いられています。しかし自分は自由であると信じている人間はかえって、不断に自分の思考や行動を点検したり吟味したりすることを怠りがちになるために、実は自分自身のなかに巣食う偏見からもっとも自由でないことがまれではないのです。(本文より)

自分は自由だー!! と思い込んでいる人。もしくは、そう主張している人は、最も自由ではないと、言いきっております。

結構残酷な真実ですよね。

これを頭の良さと置き換えると、ちょっとわかりやすくなります。

自分で自分のことを「頭が良い」と思いこんでいる。または、勘違いしている人間は、大概遊びます。なぜなら、何もしなくとも、自分は頭が良いはずだと思い込み、何もしなくなってしまうのです。

けれど、「自分は頭が悪い」と自覚している人は、「頑張らなければ皆に置いてかれてしまう」という恐怖感や、サボったらすぐに点数が下がる事を分かっているので、常に努力を怠りません。「出来ない」という意識が、自分を努力させる原動力になるので、結果。努力を続け、結果的に良い成績を取るようになる。

そう考えると、筆者の言いたいことが解ってきます。

自由だ!! と思い込んでしまうと、自分の考えが本当に自由なのか。自分の存在は自由と言えるのかと、チェックすることが無くなってしまう。それは、逆に言うのならば、自分の頭の中にある思考を他者と比べ、点検したりチェックしたりしなくなるという事なので、自分の思考に囚われていることと同じ事。それが最も自由でない状態だと、筆者は言っています。

【信じる=思考停止】

逆に、自分が「捉われている」ことを痛切に意識し、自分の「偏向」性をいつも見つめている者は、何とかして、ヨリ自由に物事を認識し判断したいという努力をすることによって、相対的に自由になり得るチャンスに恵まれていることになります。(本文より)

そうすると、次の文がとても良く解ります。

人は、捉われていると思えば思うほど、きちんとそこから自由になりたいと、常にチェックと努力を怠らなくなる。偏見に満ちていないか。違う考え方は出来ないか。相手の価値観はどうなのかと、常に独善に陥らないかと危険視しながら物事を見ることによって、「相対的に」自由になる、と言っています。

相対、とは比べるという事。

つまり、自由だと思い込んでいる人よりは、自由になれるチャンスをつかめる。その可能性が出てくると言っているのです。

それぐらい、自由になるのは難しい。自分の偏向性から逃れることと言うのは、難しい事なのでしょう。

誰もが、自分の考えが正しいと思ってしまうし、間違っていることを認めるのは、大人であったとしても難しく、むしろ子どもよりも大人の方がこの価値観や先入観から脱せない時の方が多いでしょう。

信じるというのは、良い言葉のように思えますが、その実、考えていないということと同義語です。

無条件に信じる。疑わない、と言う事は、考えていないという事と、同じなのです。

そして、自分の思考や先入観という物は、目に見えない分、捉われているという意識そのものが働かない。だからこそ、思い込みというのは怖いのです。

【結論よりもプロセス重視の政治】

民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化――物神化――を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものとなり得るのです。それは民主主義という名の制度自体になによりあてはまる。(本文より)

物神化。物を神だと思う事。

つまり、絶対の存在とみなすことです。

民主主義は、これを徹底的に警戒しなければならない。何物をも、神としてはならない。絶対視してはならない、というのです。

これはとても難しいですよね。どうしても、人間は能力の高い人がいたら、その人に完璧を求めてしまう。制度も同じです。完璧なものを求めてしまうけれど、民主主義はそもそも、完璧な存在など無いということから、始まっている。

全ては不完全で、けれどもそれを皆が解って、完璧を目指す為に、チェックや改正、訂正、新規に作りだしたり、吟味をしたりを、皆でし続ける。その努力の上に成り立つものだと言っています。




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だからこそ、民主主義という制度は、結果ではなく、その過程。プロセスを重視し、皆で作り上げる、努力の結晶のような性質を持っているのだと。

話し合い、と言うのは、そのものズバリ、過程を大事にする作業です。

意見の異なる相手を話し合いで説得し、説明し、理解を求め、その提示された中で不完全だけれどもまだ良いと思える政策を常に選び続けていく。

より民主的に。より平等であるようにと、人民が何か絶対的な力にすがるのではなく、面倒な話し合いをするという行動を通して、作り上げていく面倒なものが、民主主義なのだと。

【様々なものに適応する考え方】

人はいったん出来あがってしまったものには、変わらないでほしいと願う性質があります。

そして、人間は基本的にサボりがちです。楽が出来るのならば。天才が全てやってくれるのならば、それに頼りたくなるものです。

けれど、それをすると、苦労して得た筈の権利や自由も奪われてしまい、いつの間にか奴隷になってしまう可能性もはらんでいる。

つねに、自分は自由であるのか。民主的なのか。平等なのかと考え続け、チェックし、吟味することそのものが、相対的に自由を確保するし、平等でも居られる、と言うのです。

不自由だと思わなければ、誰も自由など求めない。

お金を貸しているんだ。返してくれと声高に主張しなければ、お金をかした状態も確保されない、という民法の話から始まった論旨は、制度や政治、自由という精神的な物に至るまで、大きく話を広げてきました。

この話は、哲学にまでこの論理は通用する、と連続していきます。

今日はここまで。

続きはまた明日です。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

 






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