いつも言葉が人を動かす、と偉そうに書いていますが、こうやって振り返ってみると、私自身も人の言葉で動いていますね。テレビの向こう側の人でも、それが文字でも、ネットを通していても、届く言葉はちゃんと人の胸に響く。そんなものを毎日扱っているんだなと思うと、一言一言が妙に愛おしく感じます。
こんにちは、文LABOの松村瞳です。
数学シリーズ第四段。苦手克服シリーズ、と、とって頂いてもいいです。人生、ずっと順風満帆でいけばいいけれど、そんなに上手くはいかないことは、高校生にも成ると解ってくること。人によって、解るタイミングは様々です。解る子は、中学や小学生でも知っているかもしれません。大人であっても、何かにぶつかって、どこかしらで立ち止まる時が来た時に、またこうやって足掻くんだろうなと思いながら、今これを書いています。
これから足掻くかもしれない人。今、足掻いている人。過去、足掻いて諦めた人。色んな人がいます。
すっぱり綺麗に諦めて、思い出しもしない、と言うのなら、構わない。けど、心のどっかに引っかき傷みたいに残っているのならば、違うやり方でチャレンジしてみたら、変わる可能性もちゃんと残っている。未来の手づかずの時間は、ちゃんとあなたの手の平に残っている。
諦めるのも、一つの選択かもしれない。もう見たくない気持ちも、自分には無理なんだって言い切って、見ないようにするのも、あなたの自由かもしれない。
けど、工夫をしたら何かが変わって見える可能性も、ちゃんとある。
最下位だった私が、色んな事を見えた様に。
【数学に対する固定観念を変えてくれた一冊の本】
人生の岐路、って程大げさなことじゃないかもしれないけど、でも、間違いなく、数学に関してはこの本が私の救世主でした。
振り返ってみれば、数学を数や方程式で説明しているものばかりなんですよね。教科書や参考書って。当たり前といえば当たり前なのですが、解らないものを解らない知識で説明されても、理解できるはずがありません。
国語。特に古典を教えていると解るのですが、見た目って本当に重要です。解りやすさって、真実、人の興味を引く為に必要なことです。古文や漢文の見た目だと、拒絶反応を示してそっぽを向く子でも、思いっ切り現代風に訳したり、日常の生活の例示に落とし込んだりして説明すると、一発で内容を覚えます。そうして、ヒントを散りばめた中で文章を読ませると、集中力が違う。多少解らないことがあったとしても、興味関心が勝つのでしょう。最後まで読み切って、解らないとちゃんと辞書を引きます。知りたいと、きちんと自分で調べて、解るようにする。
けれど、しょっぱなの一行目から解らない。もう無理だと思ってしまうと、読む気も無くすし、何より苦痛です。心の痛みは目に見えない、と言いますが、解らないものに向き合っている時も、同じように心は傷付けられています。
ああ、これ、俺には解らせないんだ……
私、読める能力無いんだ……
って、皆の目が曇る瞬間を何度も見てきています。その同じ子が、ある程度の知識とヒントを手に、同じ文を読むと、楽しそうに読んでいく。勿論、劇的にスピードがあがるわけではありません。けれど、一つ一つを理解しようと踏ん張り、「ああ、そういう事か」と納得しながら読めると、先に進もうと思えるものです。
アレですね。「すさまじきもの」と聞くと、「はっ?」と首を傾げたくなるけど、「芸人さんのコントショーでさ、なんかのお題に沿って色んな例示だしてく、『あるあるネタ』ってあるじゃない? それの、『気に食わない物(超個人的意見)』って但し書きが付いている、女芸人さんのコントショーだと思って」とか、想像しやすい様にイメージを先に言ったり、「ここ最近でムカついたこととか、嫌だなぁって思ったことを端から言ってって」と、実際に自分達に照らし合わせて会話をさせたりした後に読ませると、見た目は同じ古典でも結構読めるものです。
どうやったら生徒が解りやすくなるかなと考え、思考錯誤を繰り返した後だからなのか。きっと数学にも、そうやって説明してくれている本が何処かにある筈だと確信めいたものがあり、探しました。
思えば高校時代。こうやって、自分の解るものを探すことすら、していなかった。工夫を全くせず、兎に角やっていれば何かが変わる、としか思っていなかったんです。
【大切なのは、最初の一歩 それをどれだけ簡単にするかで、結果が変わる】
その本の何が良かったのか。
文章がとても解り易かった、というのも一つなのですが、『文系の為の』と銘打っている通り、冒頭に載っていたのは、数学でも何でもなく、センター国語の過去問。評論文の問題でした。
超数学的に国語の問題を解いてみる、という冒頭から入ってくれていたので、すんなりと読めたんです。勿論、読んだことのある文章でしたし、解説も何回もしていたものなので、手に取る様に解答は解ります。寧ろ、国語の指導解説書を読んでいる様な気分で読み進め、考え方はとてもシンプルで頭の中に入ってきやすく、そのままの流れで一気に読み終えることが出来ました。
数学のランクや難度は私には解りませんが、例示として挙げられているのは、身の毛もよだつ嫌いな方程式ばかりだったのに(詳しく覚えていないはず、というか、覚えられなかったもののはずなのに、嫌いっ!! という感情だけはしっかりと覚えているんですよね)、文章で書いてあると本当にすらすらと解ける。何せ解らなくても、文章で書いてあるものです。解らなければ、もう一度読めば良い。今は解らずとも、三度読めば解るものも出てきます。
自分に解りやすい、納得、確認のしやすい「文」という形に変えて貰えたからこそ、疑問なく読むことが出来、「そんなに簡単なことだったの?」と思うぐらいの分野もあったほどです。
【現役時代は大っ嫌いだった集合・命題・条件】
A∧B∧C、A∨B∨C、ド・モルガンの法則、P⇒Q、P⇔Q、真、偽、反例、逆、対偶、裏、背理法…………
やったことがある方なら解ると思いますが、なんだ、これ……の固まりですよね。計算ならまだ何とかついていけても、この集合と命題で、記号も解らなければ問題の意味すら解らず、また種類の多さにも根を上げて、見るのも嫌だと顔を横に向けていたのですが、この条件って日常生活にとっても使い勝手のいい考え方なのです。例示を上げてもらえると、すんなり頭の中に入る。確かにこれは、便利な考え方だ。というよりも、よく自分も使っている。それを記号化しただけなのだと、解るように。
所謂、一般的な言葉の細かい違いでは無く、数学的な言葉の使い方を、私は知ろうとしなかったのです。言葉に対しての自信が、自分の理解を止めていたなんて、気がついたときは愕然としました。そのせいで、あんなに苦しんだのにと。
自分の言葉の感覚を信じて、その思い込みで違いを正そうとせず、ただ闇雲に問題を解いていたからこんがらがったんだと、例示を示しながら説明されると、頭の中で論理が整理されていきます。
そうして、一つ解ると、希望が生まれます。ちいさいちいさい、吹けば飛ぶような火。けれど、初めて抱いた大っ嫌いな数学に対する、明るいイメージ。
もしかしたら、あれだけ苦労した問題を、解けるかもしれない。解らない物が、解る様に。解けるように、成るかもしれない。
いや、そんな簡単にはいかないだろうと言う、現実を伝える声も、確かに頭の中にはありました。
たかが一冊読んだだけで、そんな簡単にいくんだったら、あの三年間の苦しみはなんだったんだと思う感情も確かにあります。おかしな感覚なのですが、そんなに簡単に解りたくも無い、という物も、確かにありました。こんなに単純に解ってしまったら、あの苦しみは本当になんだったんだと、自分の高校生活の苦しみが意味の無いようなものに思えてきてしまうのも、悔しかった。
でも、誘惑には勝てませんでした。
もしかしたら、解けるかもしれない。いけるかもしれない。
ふと、職場で山の様に積まれ、びっしりと並べられている参考書の本棚の前に立ち、高校卒業以来、決して視界に入れてこようとしなかった数学の参考書。一般に青チャートと呼ばれている数研出版の参考書を手に取りました。吐き気がするほど、嫌いだったものです。
ゆうに500ページ以上もの厚みがある、ずっしりとした重みのあるその冊子を開き、基本問題と銘打っている問題に目を走らせます。勿論、分野は『命題と証明』
定理を確認し、頭の中で問題を解きます。これは、真。これは、偽。これは、解なし。恐る恐る、下の解答欄を見ると……
「あってる……」
高校の、入学式直後のテストから初めて。
記憶でも無く、教科書をただ写しただけのものでもない。ましてや、適当でも山カンでもない。
自力で、自分の思考で、数学の問題が解けた瞬間でした。
続きはまた明日。
ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。
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