なんとなく、まだ鎌倉時代に心が奪われている状態です(笑)
話は戻って……
吾妻鏡の続きですが、泰時に対するデマが鎌倉では流れていた、という書かれ方ですが、これが本当なのかどうかはあやしいと言われております。
何故かというと、承久の乱の総大将は泰時です。
東大教授の本郷先生によれば、武家社会はやくざやヤンキー社会と非情によく似ていて、強いものが正義であり、強いものに従うという心理が満ちています。
それこそ誰も成し遂げたことのない、天皇家をさばき、その戦を執り仕切った泰時を貶めるような噂は、あったとしても誰も信じないようなレベルか、政村側が怯えた結果。先手として噂を流したか……
真偽のほどは分かりませんが、吾妻鏡では「そんな大げさなことではないよ」と笑うおおらかな泰時の姿が描かれています。
逆に言えば、それだけ義時が邪魔な人間を陥れ、排除してきた恐怖政治が浸透していたことの表れなのかもしれませんね。
それでは、今年一年本当にありがとうございました。
また、来年もよろしくお願いいたします。
コメント
貞應三年六月小二十八日甲午。泰時は初めて政子の屋敷へ参上しました。義時の死の憚りは無いという判断でした。時房が泰時の軍営の後見人となり、武家の政を執行すべきという旨が政子が仰ったということです。しかし泰時は先々のことを考えいかがなものかと大江殿に相談しました。何回も何回も繰り返し話し合いました。
大江殿は、延び延びになり今日まで来てしまったけれど、遅すぎるぐらいです。世の中が落ち着かないから人々は疑心を持ちます。治るべきは早く政を執り行うべきです、と言ったそうです。
義時が亡くなった後、世間はデマが溢れかえりました。
泰時は弟達を討ち滅ぼそうと、京都を出て鎌倉に下向したというデマがあったために、四郎政村の周辺は慌ただしくなりました。伊賀式部じょう光宗兄弟は、政村の母の実家の家系だということで、秘密裏に執権泰時を狙っていました。
義時の後妻は(伊賀守朝光の娘)、娘婿の宰相中将實雅卿を推薦して、将軍に仕立て上げ、息子政村を執権として後見させ、武家の政を光宗兄弟に任すべきだと密かに陰謀を巡らしました。既に相談されて、味方する者たちもいました。しかしそのうちに分裂して志しある者たちもバラバラになっていきました。泰時の味方の人々はザックリとした話を聞いて泰時に報告しましたが、泰時は不確かなことだと、あえて騒ぎ立てませんでした。その上、政を担当する中心となる者たち以外は御所に入ってばならないと制限を加え、平三郎左衛門尉盛綱、尾藤左近将監、関盛大夫将監、安藤左衛門尉、万年右馬允、南條七郎らだけで政を担当しました。御所はとても静かであったそうです。
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明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
いよいよ今夜から家康。
鎌倉殿は今までになくロスです。
実家の母が転んで胸骨を骨折して、年始も病院に付き添ったり様子を見に行ったりとバタバタしていまして、「阿吽」全く読めていませんm(_ _)m しばらくお借りします。
では明日、よろしくお願いいたします。
こちらこそ、今年もよろしくお願いいたします。
平家物語を読みながら、鎌倉殿の隙間を埋めていきたい所存です。
ほんとうに、ぽっかり穴が開くくらい、良い物語でしたよね。
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・泰時は初めて政子の屋敷へ参上しました。➡「泰時は、義時が亡くなり、京から戻って初めて政子の屋敷を参内しました。」
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このシーンも、映像でも見たいなぁと思わずにはいられないですね。。。