アイオワの玉葱 論理国語 解説

アイオワの玉葱

筑摩書房の論理国語から、長田弘著「アイオワの玉葱」を解説します。

タイトルの「アイオワの玉葱」は、「アイオワで見た玉葱」という意味です。これは、植物の品種的には同じ「玉葱」でも、アイオワで採れる玉葱はきっと日本で採れる玉葱とは同じものではなく、さらに言うのならば料理での使われ方も違うのでしょう。(アイオワ州の料理をあまり知らないので、明確には書けませんが(-_-;))

同じ「名前」、同じ「もの」を指す言葉だから、きっと同じような感覚で使っているのだろうと思うと、全く違うものを指し示していたり、全く違う意味をもつことを指し示していたりする場合が外国語を勉強すると本当にたくさん出会います。

私たちは言語は完璧にトランスレイションできるものと安易に思いがちですが、それは違うのだということを詩人で翻訳家でもある筆者が指摘しています。

その文章の中には、単に「言葉の違い」だけでなく、人と分かり合うためには何が必要なのか。普遍的に私たち人間が抱えている問題(というか、怠け?)を提示してくれている内容を、読んでいきましょう。

この感覚は、これから海外に出ていく人たちには本当に必要なものですし、私たちは言葉も含めて生まれ育った土地や風土、環境、文化の上に立っているからこそ、相手の後ろ側にも自分と同じだけの背景を持っているはずだという認知が必要になるのだと筆者は指摘しています。

「違うから仕方がない」と諦めるのではなく、「わかるはずだろう」と怠惰になるのではなく、「伝える」「理解し合う」ためには、何が必要なのか。それは無意識に私たちが犯してしまっている間違いに気づかせてくれる、非常に素晴らしい評論文です。

ただ、抽象化の文章が多いので、そこを具体化するのが課題となります。

それでは、本文を読んでいきましょう。

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本文解説

第1~4段落

外国で暮らすということ

異国で突然一人で暮らす羽目になったら、色々思いもかけない難題にでくわすことになったが、やはりまず第一にいやおうなく直面したのは、言葉の問題だった。(本文 第1段落)

冒頭の一文。

異国の空の下でたった一人生活するとしたら、やはり直面するのは言葉の問題です。何せ生きていこうと思うのならば、喋らなきゃ始まりません。いやとかどうとか言ってられないし、どれだけ苦手でも話すしかない。けれども、話すことで違う困難も発生してくるのだから、不思議なものです。

この言葉の困難は二重に憂鬱なものだった。(本文 第1段落)

小さい小問にもなっているので、説明しておきます。

二重に、と言っているので、ただでさえ大変なのに、それに上乗せして、という事なので、基本的な困難の上にプラスして、もう一つの困難がのせられている構造をイメージします。

基本的な困難は、母国語以外の言語で生活をしなければならないという困難。これは理解しやすいし、イメージもしやすいと思います。

ポイントは、もう一つ。

英語こそが世界の共通語だと純粋に信じているアメリカ人と話すことが、苦痛だと筆者は述べています。

これはどういうことかというと、後半の読解のキーポイントにもなるのですが、アメリカが世界の中心だと信じている人と話すということは、相手は世界の中心なわけなので(そう思い込んでいるのです。無邪気に、悪気なく😅)譲らないわけです。こちら(中心)に合わせて当たり前だろうと当然のように思い込んでいる。

譲らないし、わからないこちらを「なんで? なんで知らないの? これって当たり前でしょう?」とずっと問いかけ続ける毎日を想像してください。

食事で例えるとわかりやすいかな。

アメリカの食事が世界共通でスタンダードだと仮定すると、毎日朝はシリアル、昼はハンバーガー+ポテト、夜はピザ+ポテトorステーキ+ポテト、になるわけです。これが毎日です。数日なら耐えられますが、一週間、一ヶ月、一年続いたら日本人だと「あー、ご飯とお味噌汁食べたい!!」って思うんじゃないかな? と想像しませんか😅(ちなみに私はなりました笑 素うどんが食べたくなって仕方がなかった)

で、それを相手に訴えても「え? なんで? アメリカではこれが普通だよ?」って言われたら、「そりゃそうだけど・・・・」って気持ちになりませんか?

世界の中心だと信じて疑わない相手と時間を過ごすのは、こちらが一方的に合わせるしかない。その土地に来たんだし、郷に行っては郷に従えの精神で耐えるしかないけど、筆者はそれがきつい、と嘆いているんですね。ただでさえ言葉が通じなくて辛いのに、生活様式とかもっと進んだ思考の問題とかのズレになってくると、絶対に譲らない相手と話していたら自分の根幹がおかしいのか? とすら思ってしまう苦しさです。(「野菜が食べたい!!」と訴えても、大概出てくるのは茹でたグリーンピースの山盛りかフライドポテトですから😅 本当に日本食ってバリエーション豊かで野菜に彩られた美しい食文化なのだと思います。だからこその問題もあるんですけどね)

しんに厄介な困難

けれども、しんに厄介な困難は、生活の手つづきとしての言葉のすぐそのさきに、言葉というものがわたしたちの現実にかかわるかかわりかたであり、現実を了解する了解のしかたであり、現実を切りぬく切りぬきかたであることをいやおうなく実現してしまうところから、みえはじめてきた。(本文第2段落)

はい、抽象表現オンパレード文章です。

大概こういうものが来ると、

「なんか重要そうなのはわかるだけと、よく分からん。」

という生徒がほとんどですが、複雑そうなら単純化すれば良いんです。わからないなら、わかるところから埋めていく。放り出すのではなくて、出来ることを積み上げましょう。

まず、この手の長い文章を理解しようと思ったら、主語と述語を抜き出します。

そして、見つけ方は、述語が先。主語が後です。なぜなら、述語の方が単純でわかりやすいから。あくまでも、簡単なところから積み上げます。難しいところからやらない。問題を解くときの鉄則です。

述語→みえはじめてきた。

主語→しんに厄介な困難は、

これを繋げると、「しんに厄介な困難は、みえはじめてきた。」となります。この文章を読むと、「何が見え始めたの?」と思いますよね。それをさらに探して足します。目的語ですね。

これは中身の文章を要約して足します。すると、

「しんに厄介な困難は、『言葉というものが現実を了解したり切り抜いたりするやり方である』と、みえはじめてきた。」

となります。余計なものがなくなると、すっきりしますよね。

異国で生活すると、言葉にまず苦労するけど、まぁ、それでも人間だからなんとか生活はできる。それは手順だし、方法だからなんとか身につけることはできるけど、それ以上にもっと厄介で困ったことは、生活そのものではなくて、言葉の先にあるものだと、筆者は言いたいわけです。

その言葉が現実を了解したり切り抜いたりすること、とはどういうことなのか。

先を読み進めてみましょう。

言葉のもつ概念・イメージ

言葉を使って話し、かんがえるということは、わたしたちがわたしたちのもっているさまざまな概念を、イメージを、ニュアンスをとおして言葉をつかい、話し、かんがえているということである。(本文第3段落)

何を当然のことを・・・・と思うかもしれませんが、確認は大事なことです。

私たちは「言葉」で考え、「言葉」を使って、その考えを相手に伝えますが、「言葉」には実は色んなものがくっついています。

例えば、「宿題」という言葉があるとします。

ちょうどこの記事を書いているときは夏休みの開始時なのですが、この「宿題」というものには、皆様どんなイメージがついているか、ちょっと「考えて」みてください。

まぁ、誰もが思うのが、「いやだなぁ・・・」というイメージじゃないでしょうか? その次は、「めんどくさい」少し前向きになって、「さっさと終わらせよう」「楽勝!」まかり間違っても「宿題楽しみー!!」っていうイメージを抱く人は、少ないんじゃないかと思うのですが、いかがでしょう?

これがアメリカになってくると、Homework という単語の持つイメージはかなり違います。加瀬9年によっても違いますが、そのほとんどが5分から10分程度で終わるものが多く、日本のように何時間もかけて毎日取り組まなければならないものは、どちらかというとassignmentで表現されることが多い印象です。

その日米の認識や学校から出される宿題の感覚の違いを理解せずに「宿題大変だよね」という内容の会話をしたとしたら、認識のずれが会話の中で生じるとは思いませんか?

言葉の持つイメージは、どうしても母国語から私たちは学び取ります。だから、母国語のイメージのままで違う言語を勉強すると、どうしてもズレが生じてくるし、感覚の違いやニュアンスの違いを日々感じるようになっていきます。

現実に対する一つの命名のしかた

言語は、本質的に命名である。そして、一つの母語とは、現実にたいする一つの命名のしかたなのだ。(本文第4段落)

言葉は、現実があって、それに人間が勝手に名付けて分類しているものです。

なので、現実が先にあり、その現実から抱くイメージを言葉はどうしても背負うことになります。

例えば、地震。

地が震え、揺れ動く現象は世界中から見ると頻発している土地はとても珍しいです。世界基準で考えれば、一度も地震を体験せずに一生を終える人など、ザラにいるでしょう。けれども、日本人ならば「あって当たり前のもの」「恐ろしいもの」「備えなければならないもの」「いつ来てもおかしくないもの」なんてイメージを抱くのではないでしょうか? それは、誰もが何度も何度も体験し、被災している現状があり、そこから復興してきている現実があっての「地震」。日本人が地震という言葉に抱くイメージは、特に異質なものであるでしょう。

「水」という言葉に対しても、海に囲まれた日本人の感覚と、灼熱の砂漠の民であるアラブ人が持つイメージは、違って当たり前です。

言葉は現実を命名するものですが、その根幹にある現実も違えば、現実の切り取り方も言語ごとに違ってきます。だとすると、翻訳上では同じものを指し示している「言葉」であったとしても、それは本当に「同じ物」だと言えるのでしょうか。

そのズレや隙間が、筆者は「避けがたいものである」と書いています。

第5~10段落

アイオワで買った玉葱

アイオワの玉葱はいつもゴムボールのように丸くておおきいか、あるいはゴルフ・ボールのように小さくてまるい。(本文第6段落)

さて、タイトル回収のエピソードです。

母国とは違う国に住んでいると、スーパーマーケット自体がとても訪れるのが楽しい場所になります。

何せ、見たこともないものがたくさん並んでいるからです。野菜も、同じ品種のものなのに形や色が全く違うし、売っている量も桁違いです。トマトバケツ一杯分とか、ジャガイモ5キロとか、とにかくスケールが桁違い。牛乳も、リットルなんて単位で売ってなくて、ガロン(1ガロン=3.785リットル)です。要するに、日本の一リットルの牛乳パック4本分が、1番小さいロットなわけです。

色も形も、大きさも何もかもが違う。同じものを探す方が難しいけれど、翻訳をすればこれは胡瓜だし、玉ねぎだし、人参だし、キャベツだし、とか対応している言葉ではあるんですが、日本人がその言葉から頭の中で浮かぶイメージ像とは目の前の映像がずれているわけです。

目に見える野菜でも、ここまで違う。

目に見えない部分は、一体どれだけ違うんでしょうか。

 

国語辞典と英語辞書の表記の微妙なちがい

ここでそれぞれの辞書で「玉葱」をひいてみると、その表記の違いが微妙に違って、とても面白いです。

国語辞典はユリ科の植物であるという植物学上の分類がまず第一に書かれています。そして、「まりを押しつぶしたような」形の説明。けれども、英語の辞書だと刺激味という味の詳細と食用であるかどうか。栽培できるのかどうかが、とても重要視されている書き方です。

日本語と英語を比べてみると、その説明の仕方も「まり」がなんであるのかがわからなければ理解はできないでしょうし、それぞれ重要視していることが違うからこその、表記の違いであることがわかります。

現実の切り抜き方の背景にある、文化

たかが「玉葱」されど「玉葱」です。

玉葱が重要なのではなく、日常に馴染んでいる野菜ですら、こんなにも細かい微妙なずれや違いがある。そのズレは一体どこからくるのか。

それを筆者は重視しているわけです。

一つの母語が現実から切りぬくとき、その切りぬきかたには、生活といってもいいし文化といってもいいが、そうしたものの総体がいやおうなしに関与してしまう。(本文第9段落)

私たちは思っている以上に文化に支配されています。言葉もそうであり、言葉が持つイメージも文化的な考え方や概念が影響を及ぼしている。当たり前だと、切って捨てるかもしれません。そんなズレは些細なことなのだろうと、問題にしない人も気にしない人もいることでしょう。けれども、その影響されている土台や文化や概念という目に見えない自分たちの立つ土壌を、どれだけ私たちは理解しているのでしょうか。

その理解が浅い時。または、意識していないが故に、招いてしまう困難があります。

母語の概念の押し付け合い

わたしたちは「言葉や習俗はちがっても人間はおなじ人間」というかんがえにたやすくあまえて、じつは、それぞれの母語の概念をたがいに押しつけあっている、ということはないか、どうなのか。(本文第10段落)

この筆者の指摘は、読んでいてどきりとしました。

言葉が違う。文化が違う。育ってきた環境や、習慣が違う。けれども、

同じ人間だから分かり合えないはずはないよね。

私たちは何の根拠もなく、そう考えてしまいます。

一見、耳あたりが良さそうに聞こえます。けれども、それは「きっと分かり合えるはず。だって、同じ人間なんだから」と、それだけを頑なに信じこみ、相手の違和感や感覚の違いなどに全て気が付かず、気がついても些細なことだろうと問題視しないことを指しています。

そして、その差異を明らかにすることなく「きっと分かり合えるよ!」と、安易にわかりやすい考えに飛び付いて、それが相手に自分達の習慣を押し付けていることに気がつきもしない。

そんな状態を「相手のことを理解した」「相手と分かり合っている」と呼ぶのでしょうか。

筆者はそれを、「母語の概念の押し付け合い」と表現しました。

わたしたちがあまえているもの

人間は「違うこと」よりも、「同じこと」を探してしまう存在です。なぜなら明確な違いをくっきりと線を引いて意識するよりも、同意できることや共感してもらえることに喜びと安心を感じるからです。

だから「同じ人間だから、きっと分かり合えるよ」「きっとまだこちらの生活に慣れていないだけで、慣れたら大丈夫だよ」というのは、それは「わかりあう行為」でもなんでもなく、相手がこちらに一方的に合わせてくれることを期待して、こちらが相手に寄り添う努力を全くせず、「同じ人間なのだから」という曖昧な信念に甘えて、実は自分が自分の価値観を相手に押し付けていることすら気がついていない状態なのだと筆者は指摘します。

ちょうど、筆者がアイオワで暮らしていた時に、英語が世界の共通語であると信じて疑わないアメリカ人と話す時に感じた困難さと同じように、無自覚な価値観の押し付けというのは

「君が背負っている文化的背景とか、僕には全く関係ないからこっちの考えに合わせてよ。だって、こっちは共通語なんだから」

という傲慢さが滲み出ている行為、ということになります。

そんな大袈裟な、と感じる人もいるでしょう。母国ではないのだから、ある程度合わせるのも必要なのではと思いたくなるのもわかります。

筆者は、だからと言って相手に全て合わせろとは書いていません。それはそれで自分の文化的背景を放棄してしまうことになりますからね。

そうではなく、無自覚に「同じだ」ということに甘えて、自分の価値観や概念を相手に押し付けてないか。押し付け合いで疲弊していないか。今一度、振り返って、あなたも一緒に考えくださいと書いているのです。

第11~13段落

言葉が「絶対」でない理由

わたしの言葉は、他の誰にとっても絶対ではない。そのように、他の誰の言葉もまた、わたしにとって絶対でない。言葉は絶対ということはできない。(本文第11段落)

これはとても大事なことです。

絶対、という言葉が何度も出てきますが、では絶対とはどういう意味合いでしょうか。

絶対とは、他と比べようもないゆるぎない状態であるさまのこと 集団の中で上位だ、下位だという位置づけにより評価するのでなく、固定した基準によって評価することです。

けれども、言葉はこの「絶対的意味合い」というものはありません。

意味が固定していないんです。

社会が変わり、時代が変われば、今賞賛を受けているものがもしかしたら価値観がひっくり返って、どうでもいいものに転落することは十分に考えられます。逆に、社会から無意味なものだと思われていた存在が、社会の中で存在感を増してきたり、認められることもあるでしょう。

それぐらい、言葉の意味やイメージというのは、とても流動的で変わりやすく、固定化などありえないものなのです。日本語で考えれば、平安時代の言葉と現在と、同じ言語だとは思えないくらい変わっていますし、古今意義語なんてたくさんあります。「恥ずかしい」なんてその典型ですね。(平安時代は、「恥ずかし=相手の身分が高い、という意味があります。古典弱い人は要復習)

そして、そこに異なる言語との比較が入れば、相手の言語もまた流動的であり、変化があるとしたら、認識のずれは至る所で起きてしまいます。

外国語の言葉を相対化で理解する必要性

わたしにとってはごく自明とおもえた概念すら、他の母語にであうときには、ときにはおもいもよらないようなしかたで、相対化されざるをえないというごく単純な事実に、あらためて深く気づかされたのだ。(本文 第11段落)

筆者は異国の小さな町に暮らし、アメリカ人に囲まれて暮らすという経験を通して、自分の持っている言葉の概念は、どれだけ自分で当然のものであったとしても、英語を使うアメリカ人の概念と触れ合うと、日本語の概念と比べて、「ああ、違うんだ」と認識することがとても多かったし、今まで気づけなかった概念の違いに色んな意味で気付かされる貴重な経験をしたと、語っています。

相対化とは、何かと比べて自分の位置を知ることです。

英語という言語と日本語を比べて、いろんな意味で違う部分がたくさんあるし、自分の概念は日本語の言葉のイメージによって作られたものであり、それは英語では通用しない部分や、全く違う概念になる場合もあるのだと、驚きと共に筆者はその経験を語っています。

詩人という職業柄、私たちの何倍も言葉に関しての感性や感覚が優れている筆者が何を感じ、なにに気付いたのか。詳しく書いてほしい気もしますが、具体的に書いたら果てしないのでその例示は「玉ねぎ」に代表されているのでしょうね。

言葉の限界を知ることで、理解できるもの

言葉の意味に絶対がないように、言葉は限界があります。全てに当てはまるものではないし、人間は言葉では全てを表すことができないから、絵や音楽で表現することを見つけ出したのではないでしょうか。

そして言葉の限界を知っていると、話し合い相手。特に違う言語を母語とする相手との会話で、理解の限界やずれ、隙間ができたとしても、それほど焦らなくなります。

むしろ上手く伝わらないなと思う時が訪れた瞬間が、相手を理解するチャンスでもあり、それを教えてくれるのが言葉の本質的な力なのではないか、と筆者は書いています。

だがわたしたちは、それゆえに母語のちがいというものは、たがいの限界を、ちがいを、ずれを、隙間を、それらをとおして他者を、まっすぐにみとめることこそ言葉の持つ本質的な力なのだということを、わたしたちに語りかけてくるもののようにおもわれた。(本文 第12段落)

言葉は、現実の命名です。

ならば、「名付けられていない現実」というのは必ずあります。それが違う言語同士なら、背負っている背景や習慣、文化が同じではないのですから言葉が対応するはずがないのです。

例えば、畳。障子。囲炉裏、筆など、英語に対応する言葉は存在するでしょうか。豆腐や、例えば「土用の丑の日」なんて行事、英語にあるわけがないですよね。逆に言うのならば、Easterなどのお祭りに対応する言葉が日本語にあるわけがありません。(日本語の場合、表音文字のひらがな、カタカナがあるので、響きで造語がすぐに作れるので便利は便利なのですが)

生活様式や宗教が違えば、年間行事は全く違いますし、それに伴う言葉も、イメージも全く違います。英語のfestivalと日本の祭、は全く同じイメージでしょうか?

きっと多くの人が首を横に振ると思います。

では、その祭りの概念をfestivalしか知らない英語圏の人々に、どう伝えればいいでしょうか?

そこに至って「ああ、お祭りの感覚が全く違うんだ」と気づき、その違いを通して、「この人と私は違う現実を見ながら、違う習慣、文化で生きているのだ」ということに、言葉は気づかせてくれる力を持っている、と筆者は言っているのです。

言葉はもともと現実に名づけ、他のものとの違いを明確にするためのものです。

だから、言葉でしゃべり、伝えようとするということは、常に相手と自分の違いに気づかせてくれる力が、元々備わっているし、それが母語が違う人々との会話ならば、よりそれが明確になる、と筆者は言いたいわけです。

 

言葉は、他者への想像力によって、言葉なのだ

言葉は、他者への想像力によって、言葉なのだ。そこからしか、しんにたがいの理解なんてものはすこしもはじまりやしない、とかんじられた。(本文 第12段落)

言葉は、文章は、全て読んでくれる人がいて、初めて存在できるものです。

言葉を使って説明するということは、相手の理解に届くということ。つまり、相手が知っている言葉で、相手の概念を想像して「こう言ったら伝わるだろうか。こう語れば、分かり合えるだろうか」と相手の理解力の範囲で言葉を選んで使うことで、初めて「理解」という状態に届くことができますし、そもそもその面倒な作業をしなければ、そもそも理解なんて始まらないでしょう、と筆者は語ります。

わかりやすい例えを出すと、あなたの前に仲の良い同級生と、3歳児がいると仮定してください。

一緒にお昼ご飯を食べようと語りかけるとして、同じような言葉づかいで話しますか? 違いますよね。

同級生の方は、ある意味同じ生活習慣と文化で過ごしている相手だから、ある意味「お昼ご飯何食べる?」ぐらいで済むかもしれません。けれども、見知らぬ3歳児相手にそれでは、全く伝わらないのが想像できるでしょうか。

そう、私たちも話す相手によって、言葉の選び方を変えています。

それは、相手に対しての礼儀ももちろんあるかもしれませんが、相手に伝わる、相手の使いそうな言葉をイメージして、そこに合わせようとするのです。学生ならば、大人と話すときに無意識に堅苦しい言葉を選びがちになってしまうのは、それが相手に通じやすい言葉だと無意識に私たちはわかっているのです。逆に子供相手には優しい、平易な単純化された言葉を無意識に選ぶはずです。

それは相手の理解しやすい言葉で話した方が、通じる。伝わるものが多いからです。

そう。話し相手=他者への想像力。きっと相手はこんな言葉を使うんだろうな。と考えて選ぶものが、言葉です。だから、それが言語が異なる相手に対しても、きっと相手はこういう言い方をするだろう。これなら通じるだろうかと、想像力を働かせながら試行錯誤を繰り返すことこそ、言葉を使って会話をするということだし、相手に対しての理解もそれによって深まります。

価値観の押し付け合いに甘んじて、理解し合えないと諦めるのではなく、その自分との違いを認めて相手ならばこう考えるのではないかと、想像力を働かせる。言語には限界があるのだから、便利な道具で済ますのではなく、常に頭を働かせて言葉を選ばなければならない。人間にそうさせる力が、言葉にはもともと備わっているのだと、筆者は書いています。

相手が同じだと甘えていたら、そんな努力はしなくなりますし、自分と違うんだと認めれば、相手に伝わるためにはどうしたらいいんだろうと、必死になりますものね。

そんな面倒なものなんです。言葉って。

まとめ

誰もが使える、と思い込んでいる「言葉」

けれども、筆者は言葉のプロだからこそアイオワで暮らした時に、英語に触れ、相対的に日本語を捉え直すきっかけを与えられました。

そして、言葉を通じさせよう。相手に伝えようと思えば、相手はこう言ったら通じるだろうかと、自分の想像力をフルに使って言葉を選ばなければなりません。何が通じ、何が通じないのか。そうやって試行錯誤して初めて、「言葉」を通して相手を理解できるのだと、筆者は言うのです。

言葉を使って相手を理解することは、とてつもなく面倒で、努力が必要なことなんだなと、玉ねぎを剥きながら筆者は考えています。多分「どうやったら、この感覚を読者に伝えられるんだろう」と思いながら。

表論文を読んでいると、点と点が線で繋がる時が多々あります。

この「他者を理解する」「理解し合う」というのは、何度も論理国語の評論の中で出てくるテーマなので、そんなに簡単にできるものではないのだと、認識しておいてください。

「相手のことを理解している」とあなたが確実に思える相手は、誰ですか?

それは、本当に彼・彼女のことを理解しているのでしょうか? 思い込みではないと、どうして言い切れますか?

一度、改めて考えてみてください。

 

ここまで読んでいただいてありがとうございました。

次は、「アイオワの玉葱」のテスト対策問題です。

 

 

 

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