もしかして「枕草子」の冒頭の訳って、こんな意味だった?
2024年度の大河ドラマ「光る君へ」
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大河ドラマでは珍しい平安時代のドラマで、主役は後の紫式部と言う名前で呼ばれることとなる女性が主人公という内容で、古典好き、文学好きとしては第1話から毎週楽しみにして見続けています。今回のドラマ、脚本が本当に素晴らしく、特に人物造形が細やかで、いつも生徒たちに言葉で説明している世界がドラマで見ると「こうなっているんだ」と気が付くところが様々あり、ドラマを見た後はいつも「小右記」を筆頭に、「御堂関白記」や「権紀」「大鏡」「栄花物語」、そしてもちろん「紫式部日記」や「枕草子」を読み返しております。
ここからは、単なる古典好きの妄想感想なので、古文をテスト前に真面目に勉強したい。国語のテストに役立つ知識が欲しい、解説が読みたい方は、ぜひこちらのページを参照してください。
第20話感想
見所満載の第20話。
長徳の変を冒頭に、凋落の兆しを見せていた中の関白家の没落の始まりを見事に描いていました。
19話の予告では、まさか、ききょう(清少納言)とまひろ(紫式部)が連れ立ってコントのような質素な着物を着て、頭に葉っぱさして前栽に隠れる映像が見えたので、才女二人が何をしてるんだと笑ってしまったのですが、まさか二人が定子の剃髪(髪を切って出家すること)の瞬間を目撃することになるとは、夢にも思いませんでした。
「古典の裏」でも書きましたが、清少納言はあくまでも定子の存在を書き残すために枕草子を書きました。中の関白家が没落し始め、(ネタバレになるのでドラマのみで楽しんでいる方のために書きませんが、20話は没落の始まりです。)苦しみの底にあった定子の姿を書き表すのではなく、あくまでも幸せであった、定子の姿を。一条帝に寵愛され、父・道隆や兄・伊周、弟・隆家がそれを祝福し、光り輝いていた定子の姿が、枕草子では描かれています。決して、没落した姿の定子の姿は描かず、長徳の変に関しても、記述はありません。
むしろ、長徳の変に関しては、伊周を捕まえるために二条邸に乗り込んできた藤原実資(ロバート秋山さん)の「小右記」に詳しく書かれています。
ドラマはドラマですし、あくまでも史実ではなく、創作の世界であるということは重々承知しているのですが、やはり絶頂からの転落ともいえるドラマの展開に、史実を知っていても見ごたえがあったこともそうなのですが、
「もしかしたら……」
という妄想がむくむくと……
文はもともと個人間で交わされていた手紙
ドラマでもたくさんの文(手紙)が色んな人たちの中で交わされていますが、もともと物語であったとしても、読ませたい人やごく身内のグループのみで読み交わされるもので、現代のように数多の人に対して披露されることを意識して書かれるものではありませんでした。
無論、藤原道綱の母「蜻蛉日記」のように、その評判によって人気が出て、次第に読む人が増えることもあったでしょうが、ごく身内だけで楽しむものが殆どでした。(ちなみに、源氏物語もごく身内で楽しんでたら、気が付いたら都中で噂になってて、それが左大臣・道長のもとにまで届いたところから、宮中へのスカウトが始まるのですが……まぁ、それは今回の大河ドラマではどう描かれるのか、楽しみポイントでもあります)
なので、(こっからが私の勝手な妄想なのですが)もしかしたら、「枕草子」の冒頭って、定子に向けての手紙なのかなと、思えてしまうんです。
教科書には定番の訳しか載っていませんが、それこそ数多くの現代語訳や解釈が冒頭の部分には存在します。中には、「彼氏と一緒に過ごす時間として、春はあけぼのが良いのよね。一緒に夜を過ごした後、ゆっくりと夜が明けていく様子を見るのが、たまらないの」なーんて、色っぽい訳も実は存在します。
ただ、個人的に男女の恋愛関係を踏まえて、そういう訳もモテていた清少納言らしいし、素敵だなぁと思うのですが、どうにも爽やかなんですよね。原文が。清少納言が書くのなら、もっと色っぽく書くんじゃないのかなぁと思えてきてしまうので、やっぱり彼女の季節に関する独特の感覚が書かれているのかなぁと個人的には感じていたのですが、今回のドラマを見ていて、どうにも思い浮かぶ訳がありまして……
間違っているのは百も承知で……
もしかして、この冒頭って清少納言が命を捨てようとしている定子に対して、「生きてください」と願いを込めた祈りの手紙なのかな……
と思えてきて仕方がないんです。
もちろん、敬語も何もないので、直接的な手紙でないことは分かっているのですが、「定子様なら、きっとわかって下さる。あの人が解ってくれたら、それでいい」と思って書いたのかなぁ……と。
ドラマでもありましたが、清少納言は道長側だと噂されていて、内裏でも二条邸でもかなり嫌がらせを受けていたので(女房達の恐ろしさよ……)、直接送ったとしても、定子に届く可能性が低く、またどのように曲解されてしまうか分からない状態ならば、いっそのこと誰に当てたのかも分からない文体で書くことを思いついたのかな……と。
脚本家の大石静さんの手のひらの上で転がされているのは重々解っているのですが、どうにもそう思えてきて仕方がなくて……
そう思うくらい、定子の剃髪のシーンがあまりにも悲しく、痛々しいものだったので、それを直視した清少納言からしてみたら、定子がまさに命を投げ出そうとしていることを感じ取ったのではないかと思えたからです。
それぐらい、身分の高い女性が髪を切るというのは、並々ならぬ覚悟が必要なことでした。生まれてからほぼ一度も切ることはなく、毛先を整えるぐらい、髪は女性の命とほぼ同じくらい価値の高い物でした。更には髪を切ることは出家することと同義語であり、俗世間との関係を断ち切ることを意味しています。
社会生活を全て諦め、人と会わず、家族とも離れてひたすらに寺で経をあげ続ける生活をしなければなりません。(身分の高い人ex花山院 はその限りではありませんが、定子の出家生活は平均的なそれとはまた違う辛さがあったでしょう……)自暴自棄になっていたこともあるのでしょう。未来に絶望し、衝動的に髪を切ってしまった定子に対して、自分に出来ることは何だろうと清少納言は筆を執った。
そう思えてなりませんでした。
なので、そんな自分の感覚に任せて、現代語訳書いてみます。(笑)テストにはなーんにも役に立ちません。受験にも入りません。無駄です。無駄の極致です。正しさなんて一っ欠片もありません。それこそ身内で楽しめよ!!と言われそうですが、自分のブログだからもういいかと思って書きます(あっはっは 笑)
くれぐれも、テストはこっちを読んでください。お願いします!!
枕草子 原文
春は、あけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこし明かりて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる。
夏は、夜。月のころはさらなり。闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。雨など降るも、をかし。
秋は、夕暮。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛びいそぐさへあはれなり。まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入りはてて、風の音、虫の音など、はた、言ふべきにあらず。
冬は、つとめて。雪の降りたるは、言ふべきにもあらず。霜のいと白きも。またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりて、わろし。
枕草子 第一段より
妄想現代語訳 枕草子
定子様
春は明け方が良いと、登華殿で夜明けの空を見ていた時に、あなたはお話してくださいましたね。紫がかった雲が細くたなびいている様を眺めている定子様がとてもお幸せそうでした。
夏は、帝の訪れがない夜の時間を共に語って過ごしました。満月を見上げた時もそうでしたが、新月の暗闇を私が嫌がったら、定子様は「その分蛍の光が楽しめるでしょう」と、私に教えてくださいましたよね。ほのかな光の楽しみ方を私に教えてくださったのは、定子様でした。雨の楽しみ方も、そうでしたね。嫌なものも楽しいと思える気持ちを、あなたは私に教えてくださいました。
秋は夕暮れを何度もご一緒にみました。私が烏が飛び交う様ばかりを見ていたら、定子様は遠くの空の雁の姿に気付かせてくださった。夜の風や虫の音を、二人で聴きながら和歌や漢詩を詠みました。あれほど楽しい時間はありませんでした。
冬は早朝の寒い朝に、雪や霜の白さを楽しみ、それがない時でも、寒い朝に火桶を急いでお持ちした慌ただしい様子の私を、定子様は「冬の朝に似つかわしいわね」と労ってくださった。昼になって白い灰だけになってしまった火桶の中を見ながら、「雪や霜と同じ白でも、こればかりはあまり好きにはなれないわ」と、二人で笑い合いました。
定子様。
私はあなたと出会えたおかげで、こんなにも楽しい時を過ごすことが出来ました。あなたが私の生きる希望そのものでした。私の物の見方を変え、どんな時でも楽しむことをあなたは教えてくださいました。
どうか。どうか、その素晴らしさを。あなたらしさを取り戻してください。
あなたが居てくださるだけで、私は幸せなのです。だから、どうか生きることを諦めないでください。
っていう風に読めてしまいまして………
もちろん、こんな訳、有り得ないし、馴染んだ正しい訳が間違いないということは分かっているのですが、今でも仲のいい人間同士で解る言葉のやり取りはいくらでも存在します。
お互いに感覚が近く、教養高い定子と清少納言ならば、二人だけが解る何かが、この冒頭にはあるのかなと思えてきてしまうのです。
もともと古文は、抽象度合いの強い文章です。
どうとでも読めるし、色んな解釈や受け取り方が出来ます。(テストではだめですが……(笑))
それこそ何度読んだか分からない枕草子の冒頭ですが、こうやってドラマで役者さんが演じてくださると、よりイメージが具体的になって、こんな解釈もありだなぁと。
実際枕草子読み直して、泣きそうになりました。清少納言の、定子を思う気持ちが切なくて……
知っているし、分かっていたはずなんですが、それでも実際に役者さんが演じると、その人物の感情や関係性がよりクリアになって見えてきて、こんなに定子や清少納言に感情移入してドラマをみてしまいます。
実際、第21話では全く違う光景が流されるかもしれませんが(笑)(なので、その前に記事を上げておきたかった)、それでも新しい視点で古文を読めたことが嬉しかったので、記事を書いてみました。
第21話は、更に中の関白家を不幸が襲います。その身内を処断しなければならない道長の苦悩。そして、新天地を訪れるまひろの生活はどう変わるのか……(昔習った時は、紫式部「こんな田舎、もう嫌だーーーーっっ 私、京に帰るーーーーっ!!」って泣き暮らしてたって話だったのですが、ドラマではどうなるんだろう……)
ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。
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