評論文解説「である」ことと「する」こと 丸山真男著 その10~価値倒錯を再転換するために~


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こんにちは、文LABOの松村瞳です。

「であることとすること」も、最終章。けど、この最終章が結構難関。

短いのですが、難しい言葉が書かれていたり、丸山先生には当たり前の常識的な比喩も、簡単にしているつもりで常識が通じない学生には、余計に訳が解らなくなっているという不思議な部分です(笑)

なので、いつものごとく、簡単に読めるように解説します。

民主主義は人任せに出来ないもの。だからこそ、教養が必要となる。

【難しい部分は冒頭をしっかり読む】

これはセンターにも言えることなのですが、難しい。わけわからん。何書いてあるのか意味不明!!って部分にさしかかったら、とにかく段落頭や冒頭に戻って、そこをしっかり読み込んでください。

文章と言うものは、全く関連なく書くことは絶対と言ってもいいほどあり得ません。つまり、冒頭に書いてあることに沿って内容が続いている事が殆どです。

なので、冒頭をしっかりと確認しましょう。後は、その流れに沿って読んでいけば良いだけです。

現代のような「政治化」の時代においては、深く内に蓄えられたものへの確信に支えられてこそ、文化の(文化人のではない!)立場からする政治への発信と行動が生きてくるのではないでしょうか。(本文より)

はい!めっちゃ分かりにくいです。正直、ここの部分でもうわけが解らないと投げ出す子も多いのですが、ちょっと待って。(分かるのは多分、丸山先生が文化人と名乗っている人々が大嫌いだと言うことだけですね。)

ここまて散々読んできた内容って、どんなものでしたっけ?

「である」ことと「する」ことっていうタイトルが示している通り、

「である」価値⇒文化面や教養、学問古典など、存在するだけで価値があるもの。
「する」価値⇒目的重視。結果を求める、行動によって実現する価値のもの。政治や経済の制度などが適応。

の対比でひたすら進んできたわけです。

だとしたら、ここでもそれに言い換えることが出来ると考えて、

深く内に蓄えられたものへの確信⇒価値の蓄積、と読みかえられるから、これは教養深いこと。

と置き換えると、

現代の「政治」中心の世界の中では、教養高い文化的な素養を持った人物が、政治へ発信と行動をしていくことが大事、ということ。

政治への発信、行動とは、政治は当然民主政治。民主主義の事です。

民主主義は常に私たちが自由と平等を意識して民主的な行動をしていかないと支えられない。実現できないもの、と冒頭で言っているのですから、そこを更に置き換えると、

現代民主主義政治は、教養高い人間が民主主義を実現するために、国の政治に対して色々行動をしていくことが大事、となります。

この後の部分も、全てこの置き換えの文章を元に読解していくと楽。

 

【価値の倒錯】

まさにそうした行動によって「である」価値と「する」価値の倒錯――前者の否定しがたい意味をもつ部面に後者が蔓延し、後者によって批判されるべきところに前者が居座っているという倒錯を再転換する道が開かれるのです。(本文より)

そうした行動って、教養高い人が政治に対して監視や意見を言う、行動の事。

そうすると、「である」価値と「する」価値の倒錯がなおっていく、と言っているわけですから、後は細かい分析です。

価値の倒錯ってなに? って話なんですが、

「である」価値。つまり、文化や教養、学問とか、そこにあるだけで価値がある分野に、過度に効率や数字、結果などを求めすぎ、知ったって将来に役に立たないからと、ポイッと捨てるような行動が、一理あると思われているようなことです。

漢文とか古文とか、多分その最たるものだと思うし、理系の工学科とかに進学する予定のない人間にとってみたら、微分積分とかやる意味がないような気がするのですが、教養という点で言うのならば、知る過程で自分の論理思考の足りなさを意識したり、この世の中にはこういう物の考え方もあるのかと、知ることが大事、という事ですけど、「受験に関係ないから~」と、役に立つ、役に立たないで学ぶものを決めているものは、教養とは呼ばない、ということなのでしょうね。




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逆に、「する」論理。

効率や結果が常に求められる場所。政治や経済、制度などの運用や、企業の売り上げなどの部門では、「政治家」「社長」だから偉いという、「である」価値が横行している、という悲しい事実があります。

この入れ違い。逆転、が、元に戻る切っ掛けが、教養をきちんと身に付けた人間が、政治を監視することで出来るのではないかと、筆者は書いているのです。

冒頭の論理で全て照らしあわせると、結構読みやすくなります。

【ラディカルな精神的貴族主義って何?】

現代日本の知的世界に切実に不足し、もっとも要求されるのは、ラディカルな精神的貴族主義ラディカルな民主主義と内面的に結びつくことではないかと。(本文より)

はい。なんのこっちゃら分からない表現です。まずラディカルって何よ? って話だと思うのですが、ラディカル=根源的、という意味です。

根源的な精神的貴族主義。

はい、日本語にしても「はてな」です。なんのこっちゃら解りません。

貴族主義を辞書で引くと……

貴族主義=少数の特権階級や,一般の人々よりすぐれた能力をもつ者が指導的地位に立つことをよしとする思想。選良思想。

選民思想、ってきくと、「えっ??」と思いそうですが、一応「精神的」と就いている事に着目。

つまり、制度としては駄目だけど、精神的。心は、貴族のように振舞おうね、という意味。

そして、これにタイトルの「である」ことと「する」こと、を照らし合わせると、貴族主義=「である」価値と繋がると思います。

貴族に関する言葉で、有名なのは、「ノブレス・オブリージュ」なんかもありますが、高貴なるものの義務。つまり、持っている人は持っていない人を守る義務がある、という言葉。

ここから考えると、根源的な精神的貴族主義は、高い教養を身につけ、その能力で人を守る義務があると自覚している、正しい意味での「である」価値を身に付けた人々、ということになります。

【ラディカルな民主主義って何?】

ここまで来ると、ラディカルな民主主義も解りやすくなるかと。

根源的な民主主義とはなんなのか。

冒頭で、散々民主主義とは? と書いてあるので、読み直すと理解しやすいと思います。

つまり、民主主義とは、ある日起きたら与えられていた権利ではなく、日々民主的であろうと不断に努力を続けることで確保されている政治体制だということ。

ラディカルな精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつく、ということは、

高い教養を身につけ、民主主義の根幹やその制度の成り立ち、危険性をしっかりと理解している人々が、常に行動をしていかなければ民主主義は確保できないという論理を理解できる。共感することが出来る、ということ。

物事を深く理解するには、それを理解できる教養が必要。

そして教養は、「役に立つ」とか「効率的」という言葉では評価できない、価値の蓄積によって確保できるものだし、存在そのものに価値があるから、身につけるには長い時間や空白も大事。

効率ばかり目指している社会だと、それを忘れてしまう。そして教養のない人々が社会を回すようになると、民主主義は簡単に崩れ落ちてしまうよ、と言っているわけです。

【マルクスの比喩】

トーマス・マンが戦後書いたもののなかに「カール・マルクスがフリードリヒ・ヘンダリンを読む」ような世界という象徴的な表現があります。(本文より)

分かりやすい例示として出しているはずなんですが、「マルクスってだれ?」状態の学生からしてみたら、「はっ???」な例示ですよね。うん。

カール・マルクスは、ドイツの学者で(彼の生涯を勉強すると、ニートの浪費家としか思えないのですが……まぁ、それは横に置いておいて)要するに、当時とっても最先端な書物を書いたわけです。「資本論」という、資本主義社会の欠陥と、それに相対する政治体制として、「社会主義」を理念として作りだした人です。

バリバリな政治学者が、当時の考え方からしてみたら、前時代的な理想主義的で貴族的な文化の小説である、ヘルダリンを読んでいた、というのは、「教養をきちんと身に付けた人々が、政治を語っていた」、という例示として出したかったんだと思うのです。

と、いうことで、明日はまとめです。

まとめはこちら⇒「である」ことと「する」こと まとめ

ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。

 

 


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