【前回までのまとめ】
-こころは見える! と仮定して、実験をしてみる-
存在はしているのに、見えないもの。
皆がそう思っているから、疑問も思わないものを、一旦「ある」「見える」と仮定してみる。
そして、頭で考えるのではなく、具体的に実験を通して、こころが「見える」と私たちが思うのはどういう時なのか、ということを、それこそ、確実に「見える」形で、ある心理学の実験を引用して、検証していきます。
さて、私たちはどんな情報を「見」ているのでしょうか。
-光点の動きだけでも、変化で人間は様々な情報を得られる-
人間に光点をつけ、それを真っ暗な中で観察してもらう、という実験を通して解ったことは、次の二つ。
・静止していると、何の情報も得られない。
・動くとそれが人だと解る。情報が得られる。
つまり、人は変化。動きによって、様々な情報をかなり正確な部分まで推測出来ている、ということです。
と言うことは、この動き。変化。人間で言うと、態度やふるまい、しぐさなどの変化で、人は様々なものを情報として得ているのではないか、というのが、筆者の推測です。
そう。「こころ」は「見える」のです。
目で見ているもので、私たちは「こころ」を観ているのです。
では、続きを読んでいきましょう。
【第11~13段落】
-「こころ」を現前させる技-
それら一連のパタンを「振り」の連続として再構成し、様式化したものが文楽であり、歌舞伎であると言える。それこそ「振り」と「舞い」の集合から「こころ」をそこに現前させる技である。(本文より)
この、「それら一連のパタン」は、不変項のことです。
動きの変化が、何かにに明確に繋がると解るもの。
例えば、頬が緩み、目じりが下がり、瞳の色が暖かくなると、「ああ、この人は何かが嬉しいんだな」というものに辿り着く。
それが、不変的な物として、皆に共有されているものを、舞台で人に見せるための美しい「振り」として再構成した物が、歌舞伎や文楽。つまり、人形に演技をさせて、人ではないはずのものでも、その人形が人のように生き生きと、感情を持った生きものだと思わせてくれるのは、この不変項をパタンとして人間が受け取れる観察能力があるからです。
現前。つまり、目の前に目で見て表せるような形にして、提出する。呈示する。
「見える」形に、してくれる。
そう。「こころ」は、目に見える形だし、振りなんです。
-「こころ」は見えるもの-
「情」にあたえられた、見え、聞こえるかたち。文楽の人形や歌舞伎役者の身体は、「こころ」というものがけっして見えない内奥のものではなく、指先、足先にまでゆきわたった見えるものであることを教えている。(本文より)
私たちはドラマや映画など、テレビや映像を通して、役者さんの表情や声の調子、態度、視線などで、「あの人はこう考えているのではないか」ということを推測し、その苦しみや喜びを感じ取って、感動し、心を揺さぶられます。
そう。日常生活を振り返ってみるととてもよく解りますよね。私たちは、他者の「こころ」を、「見て」いるんです。
胸の奥にしまってある、見えないものではない。
指先や、足の動き。その些細な様子から、心の動きを読みとっているのです。
男女の、声としぐさに現れる、それ本来は作り物でしかない<しるし>が「ひと」をかたちづくるものであることを、まざまざと伝える。(本文より)
本来、文楽では、人ではなく、人形が芝居をします。けれど、その動きは本来の人がしているものと特徴はそっくりで、観ていると「人形」だという違和感は薄れていき、情が伝わってくるのです。
能楽でもそうですね。登場人物は皆、能面を付けていて、表情など解らないはずなのに、その立ち居振舞いから、苦しんでいたり悲しんでいる姿が「見える」。
心が、見えるんです。
肩をすくめる<しるし>
振り向く<しるし>
歩き出そうとしてうつむく<しるし>
それらは、本来作り物の人形が行ったとしても、人はそれを「ひと」の行っている事だと、認識してしまう。身体の動きの<しるし>が、その変化がひとの心の動きで有ることを知らせてくれるのです。
-「ふるまい」=「振り」と「舞い」をまねぶこと-
わたしたちの日常の「ふるまい」も、この「振り」と「舞い」の組み合わせにほかならないのではないか。「ふるまい」を様式化したのが「振り」と「舞い」なのではなくて、逆に、あたえられた「振り」と「舞い」をまねぶなかで、ひとはひとびとのあいだに充満する<しるし>をおのれのうちにも浸透させ、そして「情」を他者たちと分かちあうべくおのれのうちに住みつかせてゆくのではないか。(本文より)
まねぶ、とは、「まねる」ことと「学ぶ」ことの、合わせ技です。
私たちは、社会生活を営む上で、必ず人と関わって生きています。その中で、他人の表情や、態度、行動、しぐさを観て、学び、それを真似ることによって、「こころ」は目に見えるものとして、人々に共有されていくようになる。
それは、人と同じ気持ちを感じたい。共有したい。自分の気持ちを解ってほしい。伝えたいという、人間の欲望の根幹に根付いているからかもしれません。
だからこそ、その態度や振舞いを学んで、同じ様に返し、真似て、学び、身につけて行く。
誰に教わったわけでもないのに、文化や人種を超えてそれが伝わってくる。
不思議ですよね。だから、舞台芸術って海を越えて、人に伝わっていくのかもしれません。
私たちは、皆、眼で見て、人の動きの変化を感じて、それがどんな気持ちやこころを指し示すのかを知り、そしてそれを誰かに伝えるために体得し、体で表して、人にまた伝えて共感していく。分かち合っていく。
集団生活の中で人間が身に付けた、技術。技なのかも、知れません。
-ひとのこころの原形となる、目に見える<しるし>-
ここで、子どもの顔をじっと見つめながら、喜怒哀楽を大げさな表情で返している若い母親の姿を思い出してもいい。(本文より)
どうやって、その身体の振りが伝わっていくのか。
その例示として出ているのは、母親と生まれたばかりの赤ん坊です。
喜怒哀楽の違いを、赤ちゃんは知りません。
けれど、その赤ん坊の前で笑顔を見せることで、「これは嬉しいという気持ちなんだな」と赤ん坊は学んでいく。
赤ん坊の記憶力はとても素晴らしいものです。そして、笑っている人が多いと、赤ん坊は笑っていく。真似るんです。
お母さんの表情や、声や、態度から、色んなものを学んでいく。
そのことで彼女は子どもに感情の分節、つまりそのかたどりを教えているのだ。ここで共有されることになる見える<しるし>、それがひとのこころの原型となる。(本文より)
共有されていく、笑顔の動きや、怒りの動き。悲しみや、様々な心の動きを赤ん坊に見せることで、赤ん坊は「ああ、これがひとのこころなんだ」と、<しるし>身体の動きを学んでいく。
そして、成長し、人の間で成長することで、様々なこころの動きを、人の身体の動きで、学んでいくのです。
身につけて行くのです。
なので、こころは、身体のふるまい。<しるし>として、実際に目に見える形なのだと、筆者は主張しています。
【今日のまとめ】
-ひとのこころは、見えるもの-
人のこころは見えるもの。
そのこころの動きは、人の身体が示す変化であり、ふるまいがこころの動きを表しているのです。
-動きの変化が、こころを表す<しるし>となる-
それはあくまでも、変化が示す事であり、それが不変項として共有されているのは、人間が集団生活をする生きものだからなのでしょう。
そして、人のこころを解るようになりたい。
逆に自分のこころを解ってほしい。伝えたい。
誰にも教わろうとしていない。意識的に身につけようとしていないのに、身に付いているということは、勝手に真似て、学んだということです。
それは、人間の伝えたい。相手のこころを知りたい、という欲求に根ざしているからかもしれません。
明日は、全体のまとめです。まとめはこちら⇒こころは見える? 解説まとめ
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
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