鷲田清一さんの評論文。「こころは見える?」の解説まとめです。
(解説 その1 その2 その3)
【こころは見えるのか? というストレートな疑問】
-問題提起から始まる評論-
「こころはあるのか?」「はい、あります」
「では、こころは見えるのか?」「………」
という、単純な対比を通して、「こころ」というものの異質性を浮き彫りにしていきます。
存在することは、皆誰もが認めているのに、その存在が見えない。
見えないもののはずなのに、皆がその存在を認めている。これって、とても奇妙な現象です。
-哲学者の文章の特徴 当たり前に疑問を持つ-
「哲学とは何であるか?」という問いかけは非常に難しいのですが、単純化すると、「私たちの世界に有るんだけど、気付かれていないものを気付かせる知識」と言うことになります。
「ある」けど「見えない」
「見えない」存在なのに、皆が「ある」と思い込んでいるのか。それとも、「見えない」と思い込んでいるだけで、実際は形があるのではないか。
それに、私たちが気がついていないだけなのではないか。
哲学者の文章は、そのように、「当たり前だと思われている事柄が、実は受け取りようによっては今までの考えを覆すものにもなり得る」といった内容のものが自然、多くなります。
見えている。存在はしているのだけれども、気がつけない。
それは、「ものとことば」で、語られていたように、存在するものであったとしても、認識されないものもある、ということです。哲学はそこを気付かせてくれる学問でも有ります。
なので、この「見えないこころ」が、もしかしたら、「見える」のではないか。それに、私たちがもしかしたら気がついていないだけではないか、という仮定の下に、話は進んでいきます。
-見えないものを、「見える」と仮定する-
「こころ」は目に見えないもの。精神的なもの。形而上(精神的、目に見えないもの、観念、抽象)のものであって、形而下(物理的、手で触れられるもの、見えるもの、具体)ではない、という認識・一般論となりますが、それを、「見える」ものだとまず仮定します。
誰もが、「そんなことは無いだろう」と思うものを敢えて、出来ると仮定して考えてみる。
可能性を閉じない、哲学者らしい考え方です。
-頭で考えることの欠点-
そして、このように観念的にものについて、頭だけで身体を動かさずに考えると、どうしてもごちゃごちゃしてきます。
一人でうだくだ考えていると、煮詰まってくるし、思考は目に見えないものなので、はっきりと具現出来るものではありません。
知らず知らずのうちに、今まで積み重ねてきた知識の枠組みや先入観、前提などが邪魔して、違う方向から物事を考えてみようとしても、中々出来ません。
頭だけで考えると、新しい物の見方が出来ないのです。
だったら、根本から物の見方を変えてみようと、頭で考えることをすっぱりとやめ、完全に目で確認することが出来る、人の表情やそぶり、言葉、声などに絞って調査を始めます。
そう。頭だけで止まって考えるのではなく、実際に具体的に目に見えるものを調査する姿勢に移ったのです。
-具体的に見える形の実験を引用-
「悲しい」ときに、人がするしぐさ。行動、ふるまい、声、言葉などを一定のパタンと捉え、その一連の脈絡が繋がった時に、私たちは「ああ、この人は悲しいのだな」と感じてしまう。「こころ」が自然と、人の取るしぐさを「見て」、「こころ」を推測することが出来るようになる。
もしかしたら、私たちは「見る」ということを通して、多大な情報を得ているかもしれないと、筆者はある実験を引用します。
-実験結果からこころは見えると確定-
知覚心理学者のヨハンソンらの実験から、人は動いている、変化でただの光点を人だと認識し、多大な情報を得ている事を引用します。
人間の身体に取り付けた光点だけ。
つまり、人間が個別に持ち得る個体差の情報は一切排除し、その動きだけを浮き彫りにさせました。
そして、「見る」という行為が、この動きの変化から不変項。変化を感じ取ることによって得られる、不変的な情報を選び出すことだということを、突きとめます。
私たちは全てを見ているようで、実は変化を中心に見ているんですね。
そして、その変化から感じ取れる不変的なものを、常に選びだしている行為が「見る」ことです。
ざっくりとしたことしか、私たちは見ていない。止まっている、変化のないものは、認識できないんですね。
-私たちは、人間のふるまいからこころの不変項を観ている-
そして、この不変項を選び出す行為が、「こころ」を観ている行為だと、筆者は続けます。
人間の「ふるまい」。
これを昇華させ、舞台での観客に感じ取らせるだけの技に突き詰めたのが、「こころ」を具現化することです。
男女のしぐさ。声、動作。様々な動きの<しるし>が、私たちに「こころ」を感じさせるのならば、それは「見て」「感じている」ことに他なりません。
そう。「こころ」は身体の表面の変化に、「見えて」いるのです。
-ふるまいを真似、学び、共有する-
人はその「ふるまい」を一体どこから学ぶのか。
それは、赤ん坊の時代から、親や周囲の人々から、様々な変化を学びとり、また目の前で繰り返される笑顔や様々な表情を真似ることで、「ああ、この気持ちの時は、こんな表情、ふるまい、しぐさをするのだ」ということが、伝わっていきます。
そして、それをそっくりまねて、学ぶ。まねぶ、ということを繰り返しながら、人はそのしぐさ、態度、行動、声色を、感情を示す<しるし>として、身体に浸透させていく。
何故ならば、それを体得しなければ、人に伝えられないし、人のふるまいがどういう「こころ」を見せてくれているのかも、解らなくなってしまいます。
そうなると、人間関係の破綻に繋がってしまい、集団生活で孤立してしまいます。共感することが出来ないのですから、これは一種の恐怖です。
だから、皆、誰に教えられるわけでもないのに、勝手に、無意識に真似ることを知り、学び、それを忘れないように浸透させていく。
そうやって、「こころ」の表し方。現前させる術を、人は身につけていく。
-こころは見える-
「こころは見える?」というクエスチョン付きの珍しいタイトル。
最後まで読めば、この質問に対する答は、即答できるでしょう。
そう、こころは見えるのです。
私たちの目で見て認識できるものが、こころを表している唯一の手段なのです。
だから、「こころ」は脳に有るわけでも、胸に有るわけでもない。
人間の一瞬の表情の変化や、ふるまいの変化。態度の変わりように、こころの全てが存在するのです。
【全体の構成】
-起承転結の承から始まる評論文-
この文章は、問題提起の承の部分から開始されています。
そして、一旦仮定をしめし、頭で考えてみる思考実験を却下し、具体的な目に見える結果を出している、心理学の実験結果を引用して、結論に到達しています。
出した例示の一つ目を没にすることで、後半の考え方のポイントを際立たせようとしている。
そこを理解すると、この評論文がぐっと解りやすくなります。
-逆に考えることで、得られる真理-
人と違うことを考えてみる。
これは一見怖いことかもしれませんが、哲学や思考をする上ではとても大事な部分です。
皆が当たり前だと思っている事に、「逆を仮定して考えてみよう」とやってみてください。
もしかしたら、あなただけの論理が見つかってくるかもしれません。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
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