物語るという欲望 解説その6
今回は全体のまとめとなります。
(解説その1 その2 その3 その4 その5)
【全体の構成】
-具体例である実験結果から真理への導き-
冒頭は映画のワンシーンを使った実験を使った事実を先ず述べ、私たちの原因追及や観察力が如何にいい加減であるかを明らかにしながら、「脈絡のないことを勝手に確証もないのに繋げてしまう」という人間の姿を明らかにしています。
不思議なんですけど、人って様々なものに影響を受けて、色んな物事を色んなように受け止めてしまう。
この実験一つとっても、一つの表情をその後に来る映像と結びつけて、具体物の持つイメージと、その前に映し出された人物の表情を繋げて、「きっとあの人はこう思っていたに違いない」と思い込むわけです。
これはあくまでも、勝手に、自主的に観客が行っていることで、同じ映画を見たとしても色んな感想や、気になったところが違うというのは、それぞれ人の認知の方法や想像力が違っているからなのでしょう。
けれども、この人によっての認知のズレが何故起こるのかは、後半に解明されてきます。
人々は様々な事物を勝手に何かと結びつけて判断するあやうい部分がある。
それをしっかりと把握し、何故そんな勝手な解釈を行ってしまうのか。
その謎をそれこそ掘り下げていきます。
-納得する時に感じるかすかな抵抗感-
映画だけでなく、小説でも、評論文でも、ドラマでもアニメでも。
何かしらの創作物。
ストーリーがあるものに触れる時。
その話の本筋を楽しみながらも、「あれって、一体何だったんだろう」と引っかかる部分や、納得できない部分が何かしらあるはずです。
台詞が理解できなかったり、あのやり取りは何の為にあったのか。あのキャラって出てくる意味あったのかな?
という謎がどうしてもあります。
その訳の分からないものを、訳が分かるものにしたい。納得したい。腑に落ちたい。
その感覚が、人を解釈へと走らせます。
-解釈への原動力が「わけの分からないもの」-
納得が出来ない部分は人それぞれ違います。
映画だと大きな本筋の流れがある中で、数多くある違和感。その違和感を映画が終わってからも人は考えます。
あれは一体、何の意味があったんだろう。
そういう、謎な部分を頭の中で理解したい。つなげたいと考える。
それを「想像の余地」とも言いますが、この評論文では「論理の断絶」と表しています。
「分からない」
その事実が、人を解釈へと走らせるのです。
-想像の余地があるものに私たちは魅了される-
ミステリーや推理物、サスペンスなど、話の内容が最初から謎に絞られているものであったり、心理的な謎であったり、復讐ものや恋愛がテーマであったとしても、最後にどうなるのかは謎が必ず残されています。
その謎の解明をしたいし、続きが知りたいから考えます。答が呈示されると分かっているのだけれども、それでも考えずにはいられない。
人は自主的に物事を行う時、それを楽しんでいます。そして、物事を楽しめるということはそれが好きだということ。
話の内容が好きだし、謎を解釈しているのが楽しくて、好きで行っている。
だからこそ、想像の余地があったり、話を理解した後に更に謎が残されている作品に、私たちは魅了され、惹きつけられるのです。
答など存在しない。それぞれが考えてくれていい。
そういう作品の内容を語り合ったりする時に、人は饒舌になります。語りたくなる。自分の解釈を、誰かに伝えたくなるのです。
語りたくなる欲望。
自分なりの解釈=物語る、をしたくなる。
ここで言う、『物語』『物語る』という言葉は、通常の辞書的意味合いではなく、観客や読者、創作物を楽しむ立場の人が抱く謎を解明しようと、解釈をする論理的思考のことを指します。
-論理思考は意味の「亀裂」がある時に発動する-
この、「物語る」という行動は、そもそも物事の因果関係がしっかりと分かる時には、発動しません。
「原因は何なんだろう」
「何故、上手くいかないんだろう」
と思う時、大概原因と結果が分からない時に、人はそこを気にします。気にして、必死に原因を探そうとする。
納得のいく、原因が必ずあるはずだと、捜し始めるのです。
例えば勉強しているのに成績が上がらなかったりしたとき。
どうしてなんだろう……って考えませんか?
自分の予想通り。自分の理想通りに成績が上がっている時って、疑問も何も感じないですよね。
「上手くいかない」
「原因が分からない」
「どうなるか分からない」
そんな「意味の亀裂」がある時に、人は必死に考える。解釈をし始める。
-論理の断絶を繋げようとする動きが論理の飛躍をうむ-
けれど、冒頭で示したように、人には認知のズレが存在します。
一つの物事に対して、受け止め方が様々存在する。
人によって考え方が違う、という事も理由として挙げられますが、その大きな原因は、「明確な原因が存在しない」ただの偶然、というのもあるのです。
勉強しているのに点数が上がらない。
そういう事実があったとして、冷静に考えてみれば、
「勉強していた箇所が違った」
「そもそも弱い部分だった」
「トータルの時間が足りなかった」
「勉強のやり方があってなかった」
「問題のレベルが自分に合っていなかった。レベルが跳ね上がった」
「体調不良だった」
とか、様々な理由が考えられるはずなのですが、それをぜーんぶすっ飛ばして、
「僕・私の頭が悪いんだ。努力したって無駄なんだ」
「生まれつき、頭が悪いからどうしようもないんだ」
と、一気に飛躍した原因を突き詰める子が多かったりします。(笑)
これが、論理の飛躍、足元のあやうい推論、ということです。
勉強を例にとると、一気に分かりやすくなりますよね。
-何かがない、時にだけ物語は語られ始める=論理的に考え始める-
この勉強の例示だと、
「勉強をした」⇒「点数が予想通りに上がらなかった」
ということの原因として、量が足りないとか、質が低かったとか、色々理由は考えられるはずなんですが、人間には「自分の努力を評価してほしい」という願望が存在しています。
予想どおり、点数が上がっていたら、論理的には考えません。そこに、自分なりの解釈、推論=物語ることは無い。
けれど、逆に点数が上がらなかったから、色々考え始めるのです。
【物語とプロットの違い】
-筑摩書房「現代文B」の表現問題その3-
次の2つの文章の違いを考えてみましょう。
A 「王様が死に、それから王妃が死んだ。」
と、
B 「王様が死に、悲しみのあまり王妃が死んだ。」
です。
Aは、ストーリー。お話です。
Bは、プロット(小説の筋)です。
この2つは何が違うのか。
比べてみると、簡単ですよね。
Bのプロットの場合、王妃が死んだ原因は明確です。王、つまり夫を亡くした悲しみから、と分かるので、この王妃が王のことをとても愛していたことも推測できるし、仲が良かったことも同時にわかってきます。
けれど、Aの場合だと、王が死んだことと、王妃が死んだことの脈絡はつながっていません。
だと、どうなるのか。
唐突に死んだ、と言われたら「なんで?」となりますよね。
なんで王妃まで死んでしまったの?病気?事故?それとも臣下に殺されたの?え??
と一瞬読んだ瞬間にフリーズする。
そして、次を読む前に膨大な可能性を一気に人は考え始める。
この考え始めた瞬間に、人はすでに物語る行動を始めていて、これを巧みに促せる作品が、人々を魅了するものになるんですね。
創作物に限って言うのならば、全てを明らかにする必要などない。
むしろ、わざと欠けさせていた方が、よほど魅力的になる。
謎があるほうが、面白い。
逆に面白くさせたければ謎を産ませたほうが良いし、自分でも進んで色んなものを推測したり想像したりすると、一気に理解度が深まるようになります。
これは、評論を読み解くテクニックとしても使える技術です。
先を予想する。この人の論理はこんな風に進むのではないかと考える。
そして、読み進めてその推論通りに進むのか、外れるのかを楽しむ。
それだけで、理解度や面白さはぐっと跳ね上がります。
どこか自分とは違う世界の内容を読もうとするのではなく、傍観者の立場ではなくて、筆者と一緒に考えていく当事者の立場が、理解度がとても深まり、結果的に読解能力も上がっていきます。
ぜひ、日々の生活に取り入れてみてください。
ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。
最初から読む。
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