ネットが崩す公私の境 解説その2


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ネットが崩す公私の境 解説その2(参照⇒その1)

【前回のまとめ】

この評論文は、哲学者ニーチェの言葉から始まっています。

 

-書くこと、読むことの腐敗-

彼は、一部の著者が一方的に自分の意見を本に書き、それを「何も考えずに」「正しいことだ」として受け止めてしまう読者が居る限り、読むことも、書くことも、考える事すら、腐敗させる、と言っています。

読むことの腐敗=何も考えずに、出版されている本を正しいものだと思い込む。
書くことの腐敗=何を書いても信じてくれる読者が居るから、書く内容を吟味しなくなる。
考える事の腐敗=書き手も読み手も深く考える事をしなくなると、誰もが物を吟味し、熟考し、物事の真理を探ろうという行動そのものが、すたれていく。

読み手がまず腐敗をし、それに伴って、提供者である書き手も腐敗する。そうすると、誰もがものを考えなくなる世界が訪れる。

そう、ニーチェは警告しました。今から、約100年前の世界です。

19世紀末。戯曲の世界で言うのならば、シャーロック・ホームズや、モンテクリスト伯なんかが生きていた世界。

そして、彼が予言したこの警告から、120年ぐらい経とうとしていますが、それは現実のものとなりつつあります。

連日報道される、多種多様な意見。新聞の内容、紙の本だけでなく、現代は情報に溢れかえっています。

それらに書き表されている内容を鵜呑みにしたり、自分で考えもせず、「でも、テレビでAさんが言っていたよ」と、さもそれが正しいことのように受け止めていないでしょうか。

ニーチェの予言は当たりました。けれども、現代は、その予言の状況よりもそれもっと悪い。とんでもない状況が、現在は訪れようとしています。

-全身全霊で書かれたものとは何か-

ニーチェが認めるのは、「全身全霊」で書かれたものだけです。

この全身全霊とは、それこそ自分の命を掛けて、世の中に問うもの。

ダーウィンやコペルニクスに代表されるように、それを発表することによってたとえ自分の生命が脅かされるような事態になったとしても、臆せず書き記し、世の中に問う内容のものしか、認めない、と言っています。

今現在、このマスメディアやネットが発達したこの世の中で、それほどの覚悟を持って世の中に何かを問う内容の書物を書いている人が、どれほど居るのでしょうか?

己の全てを掛けて、世に出す内容。

それらが認められたら、社会の価値感が一変してしまうかもしれないほどの、もの。

そんな内容のものは、読み手にもそれ相応の覚悟と知識、見識を必要とします。

それがあって初めて、啓蒙や教化ではない、「知の交換」が可能になる。

そのような世界をニーチェは望みました。

では、現代はどうなっているのか。批判を前提とした一般論の始まりです。

続きを読んでみましょう。

【第4~8段落】

何気なくつぶやいた言葉が、全世界の人々に知られることになる。それはとても良いことのように思う反面、もちろん、悪い面もあるわけで・・・

-グーテンベルクの活版印刷術がもたらしたもの-

ドイツの技術者であるグーテンベルグが、活版印刷術。今で言うのならば、コピー機の原形を作り上げたことで、紙を媒体とするメディア。

新聞や、書籍などの発行が一気に増大しました。

それにより、〈著作性〉というものが、発生します。

本文に、〈著者という権威〉という言葉が使われていますが、権威とは専門の知識を持った人々や、周囲に最高だと思わせる価値の力とありますが、大事なのは、優れたものとして、他者を制圧し、従わせる価値の力、という部分です。

そう。権威には、人を従わせる力がある。

この権威性があるからこそ、「本に書いてあったから」と、私たち読み手がその意見を受け入れ、無意識にその著者の考えに従ってしまう力が働いているのです。




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新聞や紙の本。それらを作り上げた著者である人の思想は、他者を従わせる力がある。

これが、グーテンベルグの活版印刷技術が成立して以降、発生した新たな権威性、です。

簡単にことわざで表すなら、「ペンは剣よりも強し」といったところでしょうか。

それまでは、権威性は身分や宗教性、それから武力、産業革命真っ只中のヨーロッパなので、経済力も権威生として取り上げられるでしょうが、それらが全くない人間でも、ペンは。つまり、本や新聞を発行することで、人々を従わせることができた。

それを、「著者の権威性」と筆者は表しました。

けれど、これが揺らぎ始めます。

-著者の権威性の崩壊-

インターネットを中心とした電子メディアが、大きな位置を占め始めている今日、「著者」のあり方が、大きな変容を被ってきていることは十分に考えられる。(本文より)

新しい分野。

そう、インターネットというメディアの誕生です。

私たちの生活をとても便利に、そして快適にしてくれるこの最先端の科学技術が、〈著者〉というもののあり方を変えようとしている。

筆者はそう言っています。

ここにおいては、従来の、権威者の一方的な情報発信と、受動的に享受する多数の読者という上下構造が消失し、著者の権威性の崩壊とも言うべき事態が発生している。誰でもが簡単に〈著者〉となりうる構造である。(本文より)

従来。つまり、今までのニーチェの警告した世界であるのならば、一部の権威者=著者が、自分の意見を本や新聞紙上で書き、それを何も考えずに喜び、面白がって受け取る(=享受する)多数の読者、という構造がありました。

そして、「権威」という言葉が示すように、圧倒的に強いのは、著者です。

意見を言う方が強いのは、なんとなく解りますよね。読者は著者に何も言えませんもの。本を読んでいる時点では(笑)昔は著作に文句を言いたかったら、出版社などに意見書を送るしかなかった。封書の手紙です。クレームの電話を入れたり、封書で違う意見を送ったりするしかなかった。けれども、それは著者に対してだけの意見で、周囲の人々にはそんな行動、誰も気がつきません。

それこそ、著者が「こんな意見がきました」と取り上げないかぎり、誰の目にも触れずに黙殺されてしまう可能性もあった。

だから、著者が上、読者が従うものとして、下、となる構造が出来あがった。

けれども、じゃあ今は?

インターネット上では、誰もがフラットです。殆どの著者がソーシャル・ネットワーク・システム。ツイッター、フェイスブック、インスタグラム、ブログなど、何かしらのインターネット上のメディアを活用して、活動をしています。

だからこそ、直接彼らに反論ができてしまう。更に言うのならば、それは衆人環視のもとで、です。

やり取りは全て、ネット上に公開されています。というより、公開している人が殆どですね。それを利用して、炎上商法なんてものもありますが、これらは情報発信が一方的ではない。

誰もが、情報発信ができる世界。

著者の上も読者の下もない世界の、到来です。

そして、著者の権威性が崩壊しているのではないか、と思うような事態が現実として起こっています。

-ネットでの著者と読者が混乱する理由-

インターネットにおける著者と読者(情報発信者と受信者)の問題は、目下のところ、混乱を極めているように思われる。(本文より)

物事には、良い面もあれば、悪い面もある。

これは何事においてもそうです。

もちろん、このネットの情報発信、ということにおいても、良い部分と悪い部分がきちんと言及されています。

これをまとめましょう。

良い面は、

これまで、メディアの心ない報道などで不当に貶められ、苦しめられてきた人々が発言の場所を得て、不正を告発することができる面

です。

これは確かにその通りです。

誰もが発言の機会がある。その気になれば、誰の力も必要とせずに、自分の思うことを他者に伝えるだけの条件が整っている。

ネットのない昔だったら、Youtuberという一般人が人気者になることなど、あり得ない事です。

そして、誰もが自分の意見を言うことができ、それが共感を呼ぶと、恐ろしい勢いで拡散されていく。しかも、一晩で。日本国内だけでなく、海外にまで一瞬で広がっていく。(言葉の壁はあるでしょうが、それすらも最近は翻訳機能が充実してきています)

これは本当にいい面です。

けれど、いい面が巨大であるのならば、悪い面も強くなるのは、当然の摂理。

ニーチェ的に言うのならば、「光が強ければ強いほど、その影は闇の色を濃く深いものにしていく」な感じでしょうか。

さて、悪い面です。

十分な論拠、根拠も無しに、ホームページに意見を掲載。
匿名性を利用し、個人への誹謗中傷。(完全な個人攻撃)
個人やコミュニティー・企業を崩壊させることもある。

人間は感情の生きものです。

良い気分の時もあれば、機嫌が悪い時だって当然のようにある。

その時に、好きに発言できる場があったのならば。そして、それが「自分が発言した」ということが徹底的に隠せる状況だとしたら、どうでしょうか?

憂さ晴らしとばかりに、書きなぐってしまったり、そこまでやる必要が一体どこにあるのだろうと思うぐらいに、誰の行動を徹底的に避難したり・・

さまざまな例示がすぐ、思いつくはずです。

そう。良い面が良ければ良いほど、その悪い面も計り知れない威力を持っています。

-ネットが持つ圧倒的な力-

ともかく、これまで一般の個人が持っていた、ビラやミニコミ、投書欄への投稿などという発言手段に比較して、インターネットの持つ力は圧倒的である。(本文より)

今までは、一般人が持っている情報の拡散能力。発言能力というのは、とっても限定された、限られた部分だけのものでした。

だからこそ、マスメディアや出版業界が権威性を握っていたとも言えます。

けれども、現代社会では誰もが発言力があります。そして、拡散能力もとても強い。

広がる時は、一気に広がります。そんな巨大な力は、私たちをどのように変えてしまうのか。

少なくとも、今まで「読者」だった人々が、企業を崩壊させる力など持ったことがありませんでした。

その力が私たちにどのように作用を及ぼすのか。

【今日のまとめ】

ネットがない時代の世界では、

著者が圧倒的な権威性を持って、読者を従えさせていました。

そう言う意味で、受動的に情報を受け取ってしまう読者の存在が、著者の精神を腐敗させ、書くことを、考える事を腐敗させる恐れが常にありました。

けれど、今はその「著者の権威」が崩れてきています。

インターネットの普及により、誰もが「著者」に慣れる世界。そのことは、良いことのように思われますが、その問題点は何なのか。

 

続きはまた明日。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

続きはこちら⇒ネットが崩す公私の境 解説その3


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