ネットが崩す公私の境 解説その3


スポンサーリンク

ネットが崩す公私の境 解説その3(解説その1 その2)

【前回までのまとめ】

-考える事の腐敗-

1世紀前の哲学者。ニーチェの言葉から、筆者は話を始めています。

「誰かが本(新聞orテレビorメディア)の中でこう言っていたから」

世の中に発表されているものが全て正しいとする、受身的な読者(暇つぶしの読書屋)が増えてしまうと、批判をされたり、反論にさらされることなく、ただ受け止められる(ちやほやされる)ことに慣れた著者は、全身全霊をかけて、物を考えなくなる。(書くことの腐敗)

そうすると、いい加減な気持ちで書いたものが世の中に出回ってしまい、それをただ受動的に自分の頭で考えることのない読者の数が増え、その意見を「本に書いてあるから」という、ただそれ一点で受け止めてしまい、物を考えなくなる人間が増大する。(考える事の腐敗)

このように腐敗の連鎖が起きてしまい、その結果、精神までもが腐臭を放つことになるだろうとニーチェの予言は続きます。

逆に、ニーチェが求めたのは、

「皆がこれを正しいと言っているけど、本当にそうなんだろうか?」

と、思える視点です。

他者の書いてあることを自分で吟味し、疑問を持ち、調べ、納得するまで精査する。そのような人間(超人=ツァラトゥストラ)が生まれる事を望み、そのような人間が全身全霊で書いたものには、読み手にもそれなりの覚悟と知識が必要になる、と続いています。

この19世紀末は、様々なキリスト教の考え方が科学的に間違いであったことが解ってきた時代でもあります。

敬虔なキリスト教徒であったニーチェは、自分自身が何一つ疑問を抱かずにそれを信じられていたのは、何故なんだろうと自問します。そうして、自分こそが人の言うことを何も考えずに受け止めてきた「暇つぶしの読書屋」であることに気がつくわけです。

考える事を腐敗させてはならない。

そんな願いの込められたニーチェの言葉ですが、さて、現代はどうなっているでしょうか。

 

-ネットの発生により、著者の権威が崩壊する-

技術的な問題や、本の生産性という問題もあり、圧倒的に情報発信者の数は限られていました。

つまり、圧倒的少数の著者と、圧倒的多数の読者という構造が成り立ちます。

そうなると、ここでは民主主義の平等は全く働かず、少数が強い力。権力、権威性を持つことになります。

どうしても、力関係は著者の方が圧倒的に上で、読者は下に従うのみになってしまう。

けれど、インターネットの出現により、だれもが自分の意見を簡単に言うことができる、発言の場が発生しました。

これにより、少数のはずだった著者の権威性が崩れ、双方向の意見の交換が可能となります。

間違ったことを書いてあっても、反論しても握りつぶされ、周囲はその間違った情報を鵜呑みにし、泣き寝入りをするしかなかった民衆に、発言という力が与えられた。

それほど、発言権を全ての人に与えたインターネットの力は偉大でした。

けれども、その力が強大であるが故に、闇もまた暗くなります。

-発言の自由性による光と影-

発言ができると言うことは、間違ったことを正す権利が全ての人に与えられたと、解釈することができます。

それにより、反論をしようと思ったらとんでもない労力を払わなければならなかった民衆にも、公の場での発言のチャンスが与えられたわけです。不正をただすこともこれで可能になりました。

けれど、逆に、悪い面は

情報の精査が全くされない事、です。

それにより、一方的な意見を書いたり、誹謗中傷、人が傷付くことも構わないような暴言、など、ネットは情報が氾濫しています。




スポンサーリンク


では何故、精査されないのでしょうか。

それは、物理的に無理であるという、例示がここから挙げられています。

本文を読んでいきましょう。

【第9~11段落】

容易く大量な情報にアクセスできるのは、情報そのものが「物体」ではないから。

-紙媒体では発信者が少数だったわけ-

情報発信の総量は、実は、メディア形態の技術的制約によって決定されている。(本文より)

メディアの形態、という言葉に首をかしげると思うのですが、

紙だったら、ページに乗せられる文字の量。絵の量は限られています。
新聞でも同じこと。

じゃあ、テレビはと言うと、放送時間が限られていますよね。一日は24時間。それ以上の情報は流せません。ラジオも同じです。

メディアは、それぞれ制限がどうしてもある。

情報を流せる時間の上限、紙面に乗せられる文字の上限が、どうしたって存在するのです。

制限があると、どうなるか。

基本的に、それらに情報を載せたい人々の、制限の奪い合いです。だって限られているんですから、乗せるものは基本吟味をされ、よりよいもの。より相応しいものを選びたくなるのが、人というものです。

制限があるからこそ、吟味をしたくなる。

だからこそ、情報発信者はごく少数の人間に限られていました。

制限がある=情報の吟味をする=発信者が自然と制限されてくる。

という構図です。

けれど、この物理的な限界を、ネットがやすやすとぶち破ります。

-デジタル情報の非物質性と検索性-

しかし、インターネットというメディアに特徴的なのは、情報発信者がどれほど多数であろうとも、情報の非物質性、デジタル情報に特徴的な光速に近い検索能力によって、必要な情報が瞬時に取り出せる、という点にある。(本文より)

ネットの何が凄いのか。

それは、情報を完全に物質から切り離したことです。

約1000年間も縛られてきた、紙という物質的な存在から離脱し、完全に切り離して別のものを作り出し、それを映し出すことを可能にした。

今では、画像だけでなく、映像でさえも、殆ど無限に近い形で次から次へとみる事が可能となっています。

今後、この傾向はもっと進むでしょう。

そもそも、量の制限というものが物理的に無いので(実際、あるにはあるのですが、膨大すぎて上限に達することが殆ど無い)、精査する必要性も、制限もいらないのです。

だって、自由に乗せられる。

限りがないのだから、どんどん使って構わない。

この情報の扱いのデータの量は、加速度的に多くなっています。(昔は、1TBなんてあり得ない単位ですものね・・・メガバイト、ギガバイト、多文、テラの上も出で来るのは時間の問題でしょう)

この、物理的な上限が無く、上限がないからこそ、ネットには検索機能が絶対的に必要でした。

このページにも、きっと皆さん。検索で辿り着いていますよね。

この検索機能というのは本当に便利で、同じことを紙でしろと言われたら、どれだけ時間かかると思いますか?(笑)

-必要なものが取り出せるデジタルと増加が限られている紙媒体-

もし、一億人分の日記を紙メディアで集積したとしたら、目的の情報を探し当てることはほぼ不可能である。ここでは、情報量の過度な増加は、そのまま情報の有用性の減少につながる。(本文より)

紙で一億人分の日記………考えただけでぞっとしますね。

文章読むって結構大変な作業だと言うのは、読書ぎらいの皆なら、理解してくれると思います(笑)(参照⇒『残酷な世界』~あなたの文は最後まで読まれない その1)

そう。量が多い中で、その情報を精査しようと思ったら、とてつもない時間がかかる。超巨大な図書館の中で、自分の欲しい情報が載っている本を、延々と探し続ける労力を考えてみてください。

探すだけで、日が暮れますよね。

けど、デジタルではそれが一瞬で終わってしまいます。

この、圧倒的な検索能力は、紙媒体は勝てません。というより、紙は量が多くなってしまえばしまうほど、不便になってしまう困った性質があるんです。

小説とか漫画とか好きな人なら解ると思うのですが、収納場所って常に困りものですよね。増える一方で、減らないし・・本棚は何時も満杯だし・・(笑)

量が異常に増えてしまうと、情報の価値が失われてしまう。そんな欠陥を紙は持っているので、自然と吟味をする、ということが行われてきました。

けれど、ネットはその制限が物理的に無いんです。だとしたら、どうなると思いますか?

-インターネット上の情報が淘汰されない理由-

したがって、このメディアでは、情報の総量を制限したり、情報を内容や質によって淘汰したりする力が、働かないのである。(本文より)

なぜ、インターネットでは情報が精査されないのか。

無意味な発言や、暴言、誹謗中傷などがまかり通ってしまうのか。

その原因はとても簡単です。

紙や映像に比べ、物理的な制限が一切ないのです。

制限がないから、「どうぞご自由に」というのが、ネットでは可能になる。

それがサービスの拡大や、24時間の販売など、普通ならば無理なビジネスも可能にしてきました。

けれども、逆に言うのならば、便利で正しい情報もあれば、嘘や偽り、人を傷付けるために書かれているものも、それだけ増える、ということです。

だからこそ、自分に必要なものだけを選びとる、検索能力がネットには必須だとも言えるのでしょう。

技術的な側面の「何故、精査されないのか」という琴の答が出ました。

では、この「精査されずに、誰もが発信者になれる」という状態は、私たちの精神にどのような影響を及ぼしていくのでしょうか。

【今日のまとめ】

-ネットが情報の無法地帯である理由-

デジタル情報は、重みがありません。

物理的に量が無い。制限がないと言うことは、自由であると同時に、それだけ誰の目にも管理されないもの。有害なものや、人を傷付けるようなものも容易く拡散されてしまいます。

また、この性質を利用し、悪用して、人に知られたくない情報であったとしても、匿名性を利用し、ばら撒くことが本当に容易くできるようになりました。

この背景にあるのは、技術的に情報の量を制限する必要がなくなった事実です。

だから、誰もが自由に書ける場所が出来あがった。誰もが著者になれる状態が確保された。

そして、出来あがったのが、現在の情報氾濫社会です。

その情報氾濫社会が。誰もが著者になり、発言できる状態が私たちに何をもたらしたのか。

今日はここまで。

続きはまた明日。

ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。

続きはこちら⇒ネットが崩す公私の境 解説その4


スポンサーリンク



コメントを残す