ラップトップ抱えた「石器人」 解説その2

ラップトップ抱えた「石器人」
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ラップトップ抱えた「石器人」解説、その2。

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【実感がないと対策出来ない危機感】

最初の段落でミスや危機感の認識に、何か問題がある、という疑問が提示されました。

やばい。何かがおかしい。という、危険察知の能力。これが鋭い人は、勘が冴えている、とも表現します。

けれど、この危機を察知する力。

自分の個人の生活の中では、簡単に理解することも、実感することもできます。個人レベルでの話だと、危機感は本当に真に迫ってくる。

自転車の運転を誤れば、どれだけの怪我をしたり、痛みが襲ってくることになるのか。誰もが想像することができるし、その為の対策やとっさの危機回避の行動も出来るでしょう。

けれど、これが団体になると、ぼやけてしまう。

仕事の分担をするから、ほんのちょっとのミスが全体にどれだけ波及するかなど、イメージがし辛くなってくる。実感が薄くなってしまう。

そして、イメージ出来ないものに対して、私たちは対策が取れないのです。

では、続きを読んで行きましょう。

赤ばっかり続くと、次は黒が来そうな気がしてしまう……

【第5~7段落】

-ギャンブラーの誤謬-

昔から「ギャンブラーの誤謬(ごびゅう)」と呼ばれているものがある。(本文より)

ギャンブラーの誤謬。

誤謬っていう言葉に、「ん??」となりそうですが、実質は「間違い」って意味です。

だから、ギャンブラーの間違い。なんのこっちゃと思いたいのですが、ギャンブラーって要するに、賭けをする人のことです。ばくち打ち。

競馬とか競輪とか、パチンコとかカジノとか、賭けごとでお金を稼ぐ人たちのこと。

けれど、こういったギャンブラーが賭けごとで考えがちになってしまう心理状態のことを、「ギャンブラーの誤謬」と言うのです。

ルーレットで、赤が連続すると、次も赤が来るのではないか。

逆に、赤が連続すると黒が来るんじゃないかと、思い込んでしまう。つまり、偶然の連続に振り回されて、視野が狭くなってしまうことや、思考に在る程度バイアスがかかってしまうことを指し示します。

どんな場合でも、次に赤か黒かがくる確率は、50対50です。

でも、人はそんな風には思わない。

本来ならば、過去がどうであったかに関わらず、現在に起こる事象はその場その場で変わります。今までが大丈夫だったからといって、次も大丈夫とは限らない。

成績が一回良かったからといって、次も良い点が取れる可能性など、何一つないのです。良い成績を取り続けたいのならば、毎回毎回真摯に勉強を続けていくしかない。日々の行動が、状態を保ってくれているはずなのに、それを私たちはすぐ忘れてしまう。(参照⇒評論文解説『「である」ことと「する」こと』丸山真男著 その1~権利の上にねむる者~)

東海村の施設もNASAも、危ないが訳のわからないものは、ここ数回安全であれば、次も安全であるとみなし、真の危険を顧みなかった。(本文より)

ずっと安全だった。

事故は起こらなかった。

だから、次も大丈夫。

何ていうことは、本来有り得ないはずなのです。たまたま偶然が重なりあって上手くいっていたのかもしれない。

これも一種のギャンブラーの誤謬です。

今の状態がずっと続く。成功し続けているのだから、それがずっと続くと、思い続けてしまう。そんなことは、有り得ない。本来、有り得ないはずなんです。

けれど、そこを錯覚してしまうことに、人の危うさがひそんでいます。

-進化の過程で培ってきた考え方-

何故、人間にはこんな考え方が身についてしまったのか。人種、専門分野などを越えて、様々なところで起きる事象ならば、これは遺伝子に刻まれている傾向である可能性があります。

遺伝子に書き込まれている、ということは、それが生存するために有利な性質だからです。

進化史を振り返ってみましょう。

人間にとって、確率的な事象を正確に把握し、判断を下すよりも、数回の経験をもとに因果関係を類推して、この次も過去と似たようなことが起こると考えた方が、進化史上では、ずっと適応的だったに違いない。(本文より)

コインを投げた時に、裏が出るのか、表が出るのか。

じゃんけんで、次にグーが出るのか、チョキがくるのか、パーがくるのか。

その確率を計算し、観察力で毎回何が出るのかを、やるたびに考えるよりも、グーが連発したから次は変えてくるだろう。いや、また連続して出し続けか? と、その前後の傾向から考える方がずっと楽で、簡単です。

狩猟採集民族だった場合は、「この道を兎が良く通っていたから、今日もここに行けば兎が取れるだろう」と考えて、色んな場所に行くよりは、取れる場所に向かう方がよほど短時間で食料を得る事が出来たからです。

そして、それが外れた時も、得る損害はその日の食物が手に入らないという損害です。予想ができ、かつ被害も小規模(一人の人間の空腹)です。

自分のしたことが、自分に返ってくる。ただ、それだけのことです。

見も知らぬ誰かのミスが、自分に襲ってくることなど有り得なかった。それは、人の連結が強くなった時代の年月よりも、それぞれ小規模の集まりで暮らしていた時代のほうが、圧倒的に長いからです。

こんなふうに、人間の数が増え、他者が犯したミスが全体に広がっていくことなど、今までは有り得なかった社会であり、まだ私たちの遺伝子にその情報が刻まれるだけの時間が経っていない。だからこそ、他者のミスをそれだけ危機として実感できるようにはなっていないのです。

-生かされない教訓-

航空機の事故を始めとするさまざまな機器の事故において、その多くが、機械そのものに起因する事故ではなく、ヒューマンエラーによるものだと指摘されて久しい。それでも、この教訓はあまり生かされていないようだ。(本文より)

さまざまな機械のトラブル。それによる大事故の多くは、原因は機械そのものの性質にあったのではなく、それを運用する側のミス。

つまり、人間のヒューマンエラーによるもの。人間の、何かしらのミスが原因になっている。

それでも、この教訓。=人間のミスが、大事故を引き起こしている、というものが生かされないのは、何故なのか。

それは、人間が自分達のミスを認めたくない、というものではなく、私たちの脳がそのようにまだ出来あがっていないからです。

他人の小さなミス。自分の小さなミスが、どれだけ他者に影響を与えるのか。

更に、事故が起きたとしても、それが団体の起こしたものだとすると、その危機感を一人一人が身を持って実感することが難しい。何故ならば、集団になるとこの危機意識が薄れていってしまうからです。

実感できないものに、人は対策を立てられない。

更に、そこにギャンブラーの誤謬が加わります。

今まで大丈夫だったんだから、次も大丈夫だろう。

そんな保証はどこにもないのに、誰もがそうやって考えてしまい、そして対策を怠ります。なんとなく危機感はあったし、危ないと皆が思っていたけれども、誰も具体的な対策を講じなかった。

だって、今まで大丈夫だったんだから。

言いだす事によって、面倒な対策をしなきゃならなくなるし、集団の空気を壊すかもしれないし……と、そちらの方は個人の危機感は実感として得られます。そして、人は、集団が抱える危機の実感よりも、個人が抱える実感の方を優先してしまうのです。

何故ならば、小規模な集団で生活していた時期の方が圧倒的に長く、個人的な危機感の方が、私たちにとって切迫した問題であると、脳が判断してしまうからです。

進化の過程で考えると、私たちの脳はまだ、石器時代のままなのです。

リアルタイムで、現代の科学技術のように発展していると思いがちですが、脳の構造は、遺伝子の配列は、まだ狩猟採集時代と然程変わらない。

だからこそ、ヒューマンエラーは、たまたま気を抜いた時に起こる、偶然の産物であると過小評価しているのではないでしょうか。

ヒューマンエラーはエラーではなく、過去において事故が起こっていないことを評価、過信し、そちらを信じて、対策を行わない。

これは、怠惰が齎したものではなく、私たちの脳がそういう構造、性質を持っているのだということを、認識するべきではないのかと、筆者は述べています。

今日はここまで。

続きはまた明日。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

 

 

続きはこちら⇒ラップトップ抱えた「石器人」 解説その3

 

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