声の諸相 解説その2です。
【前回までのまとめ】
-饒舌よりも寡黙-
筆者は、多分一緒に暮らしている犬の様子から、「きっと話したいことや伝えたいことがあるんだろうな」と思いつつ、それでも話しだしたら厄介で、一緒にむ暮らすことなんかできない、と始めています。
沢山喋ること。
人前でのプレゼンテーションが上手いことや、滑らかな喋り。調子が良い美文など、とても良いことのように思うけれど、そこには「何か上手く言ってやろう」とか、「みんなをあっと言わせてやろう」とか、本音の感情ではなく、偽りが入るのが殆ど。
その偽りを、私たちはどうしても感じてしまうんですね。
「胡散臭い」という、感覚で。
これってとても貴重な感覚です。人は、本音で話した時。本音をさらけ出した時に、ちゃんと反応するように。心が反応するようにできているということの証拠でもある。
そこから、「話さないこと」「寡黙であること」「訥弁であること」など、今の社会ではむしろマイナスだと感じられている事が、本当はとても表現力の高い可能性を秘めているのではないか、という常識を覆す論理に向かっていきます。
評論文の、お得意のパターンです。
-口下手に信頼性が高いわけ-
何故、口下手。口数が少ない人に、私たちは惹かれるのか。
ほっとしてしまうし、じわっと情味を感じてしまう。要するに、とても人間らしいな、と思っちゃう。
ここで面白い対比が解ります。
饒舌、口が上手い、話が上手い=何かしらの偽りがある。違う目的がある。=嘘を伝えようとしている。胡散臭い。
寡黙、口下手、話が下手=偽りがない。違う目的がない。=真実を伝えようとしている、人間らしい。
という構図です。
苦手でも、ちゃんと伝えなきゃいけない事は伝えようと必死になるから、必死になる分余裕が無くて、上手く言葉が見つからなくて、つっかえつっかえになってしまうけれど、その心に聞く側の人間の心も反応するから、なぜかほっこりとしてしまう。
なので、「ああ、この人、信頼できるな」と思ってしまうわけです。
では、続きを読んでいきましょう。
【第3段落】
-口下手は人間らしいことの象徴-
だれしも思考のめぐりになかなか言葉が追いついていかないときがある。(本文より)
思考と言葉は直接結びついているように思いますが、実は全く速度が違います。
圧倒的に速いのは、思考の方。
それこそ、瞬間的に人は様々なことを考えています。自分が意識できない事まで、無意識は様々なことを考え、思考し、そしてそれを認知できないままに行動に移している。
とっさの時の行動や、反応がそれですね。
だから、今考えている事がすぐさま言葉で出てくるはずがないんです。
返答に淀みがないものは、既に用意してあったものや、違う目的が存在した場合です。それらはどこかに「偽り」の気配がにじむから、機械的に思えてしまうし、どこか「胡散臭さ」を感じてしまう。
それを動物的直観で私たちは解っているから、よどみなく喋られるとどこか「嘘臭い」と感じてしまい、その逆で、「言いたいことがあるんだけど、伝えたい言葉があるんだけど、どうやって言って良いのか解らない!!」って困っている状態は、一見駄目に思えるかもしれませんが、一つだけ強烈に他者に伝えているものがあるんですよね。
「貴方に伝えたいことがある」
っていう、一点だけは本当に伝わってくる。
だから、口下手でも聞こうと思いますし、逆に口下手の人が必死に語ろうとすることは、「ああ、一生懸命なんだな」ということは伝わるから、人の信頼を得やすいのです。
誰もが「どうやって言ったらいいか解らない」という状態は経験していますし、それでもがんばろうと足掻く姿に、自然と惹かれていってしまうのです。
-沈黙は表現の極限状態-
言葉と言葉のあいだにはさまれてあるそうした沈黙の湖の青みにこそ、じつは表現の玄奥が秘められているのではないか。(本文より)
言葉と言葉のあいだ。
つまり、「間」のことです。
意図的に作られた「間」ではなく、自然に出来た間。
何かを伝えたい。けれども、この言葉が自分の思いを告げるのに、本当に適しているのかどうか解らない。けれども、伝えたい。伝えたい何かがある。誤解無く、出来れば解ってほしい。伝わってほしいという願望。
その願望が、逡巡とためらいを生みだし、「間」となって言葉と言葉のあいだに発生する。
「眼は口ほどに物を言う」ということわざがありますが、そのためらいや思考。必死に言葉を探している様子は、その「間」の沈黙の間にも私たちに絶えずシグナルを送り続けています。
この沈黙を、筆者は静謐な山奥の湖に喩えています。
静謐とは、落ち着いているさま。物静かである様のこと。
ぽつりぽつりと語るその言葉は、上手いわけでも巧みなわけでもないのに、なぜか落ち着いてしまう。すっ、と心に入っていく。
表現とは、心に思うことを様々な形で表すことです。
けれど、心に思うことを素直に出せなかったり、色んな邪魔が入ったり、違う思惑があったりして、表せないことが沢山ある中、落ち着いた語りのあいだにはさまれる沈黙は、もしかしたら多くのことを表現できているのかもしれない。
玄奥とは、奥深さが計り知れないことです。
それぐらい、表現と言うのは奥深い。
表現としてはむしろ拙いと思うものの方が、逆に色濃くその人の心を反映し、伝える力が強い場合もある。
言い淀んだり、ためらったり、言いかけた言葉を飲み込んだり。
そんな静かな沈黙の瞬間に、私たちは様々なものを受け取っている。それこそ、言葉でその思いを語るよりも、もっと大きなものを受け取る力が私たちには、ある。
-恥の感覚-
沈潜する思念とそこからどうしても乖離して浮いてしまう言葉のあいだのたわんだ空間には、よくよく自省するならば、いまの世でいたずらに能弁であることそれじたいのいかがわしさや”恥”の感覚もただよう。(本文より)
はい、難しい表現がきました。
こういう長い文で、一読した瞬間に良く解らない!! と思ってしまった瞬間は、ポイントを先ず押さえてください。
押さえるポイントは、「主語と述語」です。
この文章の主語と述語を取り出し、後は装飾だと考える。
と、すると、単純化すると
「たわんだ空間には、能弁であることのいかがわしさや恥の感覚も漂っているる」
となります。
述語が二つ並列であるので、更に分解しましょう。
「たわんだ空間には、能弁であることのいかがわしさがただよっている。」
「たわんだ空間には、能弁であることの恥の感覚もただよっている。」
という組み合わせです。
このたわんだ空間、は、言葉の間の沈黙をさします。なので、ざっくり置き換えると、
「会話の間の沈黙には、能弁であることのいかがわしさがただよっている」
と言うことは、能弁がいかがわしいのだから、沈黙は信頼性がただよっている、とも言えますよね。
なので、「会話の間の沈黙は、訥弁の信頼性が感じられる」と書きかえられます。
もうひとつは、
「会話の間の沈黙には、能弁であることが恥だと思う気持ちが感じられる」
となります。
この恥の感覚とは、何でしょうか。
まず、恥とは、失敗や欠点などを、恥ずかしいと思う気持ちのことです。名誉が傷付けられる意味も含まれていますが、この欠点というのは、この場では能弁であること、でしょう。
言い過ぎてしまったり、言葉が過ぎてしまい、相手を傷付けたり、失敗を重ねた経験があるからこそ、多くを語る能弁を良しとしない。
恥だとおもう感覚が身に付いているから、思っていことと、語る言葉の間にはとても長く、深い隔たりがあると知り、大事なことだけを言って、後は口をつぐむ。
だからこそ、訥弁の人はむしろ、語るのが下手な人なのではなく、能弁にただよういかがわしさを良く知っていて、更には多くを語ることが失敗を招くことを経験的にしり、恥の感覚を持っている人、というふうに考える事ができます。
-沈黙は理由があってしていること-
あれやこれやいいよどみ、いい詰まり、いい昴ることの恥を感じつつ、ひとりついに沈黙の湖に沈むのもおそらくゆえなしとしないのだ。(本文より)
この後半の部分。
ゆえなしとしない、とは、二重否定です。ゆえは=故。理由です。
と言うことは、二重否定は強い肯定に変換することができます。
なので、ゆえなしとしない=「理由がある。」
これを本文で置き換えると、
沈黙の湖に沈むのも、恐らく理由があってのことなのだ。
となります。
沈黙に沈むのは、様々な理由があるでしょう。
それこそ、喋りすぎたことで失敗した過去があるからかもしれません。上手く言葉が見つからないからかもしれない。沢山喋ることで興奮してきてしまい、周りに迷惑をかけたことを恥だと思っているのかもしれない。
けれど、人が言葉を語らないからと言って、その人が何も考えていないわけではない。
むしろ、多くのことを伝えたいが故に、口を閉じる事もある。
それは、様々な理由があってのことなのだ。
それを心にとどめてほしいと言う筆者の願いが、色濃く現れています。
【まとめ】
-沈黙こそが究極の表現である-
静があるからこそ、動が生きる。
空白があるからこそ、次が生きる。
口数の少ない人が発した言葉は、それだけ重みがあります。そして、何故彼らは口数が少ないのか。それを考えてみると、それぞれちゃんと後ろに理由があって、彼らは口を重くする。
または、多くを語ることがいかがわしいし、恥だとする精神があるからこそ、大事なことであればあるほど、言葉を少なくする。
さて、筆者は能弁よりも訥弁が良い、とここまで力説してますが、全てにおいて決めつけたくはないとも言っています。
その続きは、また明日。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
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