死と向き合う 解説その2

死と向き合う
sasint / Pixabay

「死と向き合う」 解説、二回目です。

この論文は、確かに高校の教科書に掲載されている文章ですが、読む上で多くのヒントを私たちに齎してくれます。何故ならば、私たちは等しく平等に必ず死ぬからです。

それから逃れられないのならば、「死」をきちんと考えたい。何も解らないままに、その瞬間を迎えるのは嫌だと思う生きものとしての本能が、その答えを知りたがるのかもしれません。

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【前回のまとめ】

-死と向き合う重篤患者が患者が望む希望とは-

医療従事者が必ず直面する問題。

それは、「死」を確実に迎えるであろう患者に対し、「死」の瞬間まで希望を持って生きてもらうには、どうすればいいのか。

その問いかけに応えるためには、患者が望む「希望」の正体を見極めなければなりません。

人は死に向かう際、どのような希望を持ちたいのか。

患者が持ちたい希望は、病気が治るということではないかという一般論がすぐに呈示されますが、筆者はそれを「本当に治癒が確かな答なのだろうか」と、疑問を持ちます。

この、自分の病気の状態に対しての、希望的な予測。治る見込みが、本当に患者の持ちたい希望なのか。

それを、今回の部分で、否定していきます。

病状の告知の正当性は、残された生を「どう生きたいか」。その選択は患者の正当な権利である、という考え方。

【第3~5段落】

では、続きを読んでいきましょう。

-治癒の望みは希望となり得るか-

もしそうだとすると、それこそ確率からいって、そうした患者の多数においては、はじめに立てた希望的観測が次々と覆されるという結果にならざるを得ない。(本文より)

指示語の「そう」は、前段落の最後にある、筆者の疑問です。

患者の望みが、本当に自分の病状が回復する、またはその見込みがあるという希望的観測。その予測なのか。ということ。

哲学者は、文系の学者です。学者は数字的な事実。統計学上の現実からは目を背けることは出来ません。(それをしたら、学者ではなくなってしまいます。)

だから言っています。

どれほど患者が望む希望的観測を伝えたとしても、時間が経てば、病状は必ず悪くなります。

こればかりは、数字が示している。

もちろん、100%というわけではありませんが、それでも高い確率で悪くなっていく。必ず、その観測が悪い方向に向かう時がやってくることを、医療現場にいる医師たちは解っています。

解っていて、希望的観測を告げる事の意味はあるのか。どこかで、それが反転することを知っているし、それを告げる日が確実にくることも、恐らく患者側も解っている。

「ならざるを得ない」という表現は、二重否定です。

二重否定=強い肯定。つまり、「ならざるを得ない」=「必ずそうなる」と言っています。

簡単な表現なのですが、引っかかると途端にどちらになってしまうのかが混乱する時があるので、模試などでは本文に書き添えたり、言い換えをメモしたりしてみてください。そのひと手間が、あなたの読解能力を助けてくれます。

 

 

-告知の正当性-

告知、とは、癌を代表とする、重篤な病のことを、患者本人に伝える、ということです。

以前は、「こんな重い病気になってしまったと知ったら、絶望して生きる希望を失ってしまうかもしれない。」「ショックで倒れてしまうかもしれない。」ということが心配されて、本人には告知せず、家族や近親者のみ知っていて、患者本人は体が動かなくなるまで自分の病状を知らされない、ということが多くありました。

けれども、それでは患者は、残された生を周囲の人々に騙されながら。周囲の人々を疑いながら過ごす、ということにも繋がります。

今後の生き方を、患者が自分で選択する。その為には、正確に自分の身体の状況を知る必要がある。

その考え方から、現在は重篤であればある程、告知をするべきである、というように変わってきました。

右に述べたような望みの見出し方は、非常に悪い情報であっても真実を把握することが人間にとってよいことだという考えとは調和しない。(本文より)

たとえ、自分に都合の悪い現実、真実であったとしても、人は死ぬ瞬間まで生き続けなければなりません。そして、生きるということは、選択の連続でもあります。

その選択の為に、残酷な現実であったとしても、知らなければ考える事も出来ないままです。

その「今後の生き方」を選択する、それを考えるために、告知は重要視されてきました。

希望的観測だけにすがって、患者の病状が悪くなっていく現実を告げない、ということは、患者の選択肢を奪うことにも繋がります。

そして、患者の、一人の人間としての主体性を奪う行為にもなる。

だからこそ、患者が医療従事者に求める「希望が持てる説明」とは、「治癒するかもしれない報告」または「実際には悪くなっているけれども、平均よりは遅い進行だ、という気休めにもならない慰めの言葉」ではないのです。

治癒の望みは、希望とはならない。なぜなら、必ず悪くなる時がやってくるし、都合の悪い真実でも、患者の主体性を尊重するならば、告げる必要が出てくるから。

これが筆者の見解です。

-死後の生への望みを託すとは-

では、もうひとつの希望の例示として挙げられているものの、分析です。

死後の世界・輪廻転生……それらの考え方は科学的に立証されない限り、単なる「個人の思い込み」にすぎない。

では「死は終わりではない、その先がある。」といった考え方を採用して、希望を時間的な未来における幸福な生に託すというのはどうだろうか。(本文より)

もうひとつの、死に向かう患者に対する一般的な希望の提案です。

死の先がある、といった考え方。

つまり、はっきりと筆者は言及していませんが、宗教・スピリチュアル・占いなどのことを指し示しているのは、明らかです。

「貴方の死は無駄にはならない。きっと来世では、幸せが待っている。」という、考え方。

でも、無駄にならないんだったら今返してくれよ。今幸せにしてくれよって、思っちゃいますよね。実際(笑)

恐らく、筆者はこの評論を書く時に、様々なことを研究し、資料を集める過程で、死に直面した人たちがそういった形而上の、形のない精神的なものに救いを求める姿を、沢山目にしたのでしょう。

その患者の選択に対する否定は、筆者は一切していません。けれども、医療従事者達は、違います。

医療関係者は、それに頼ってはならないのです。

 

-公共的に根拠のない信念とは-

たが、医療自らが、そのような公共的には根拠なき希望的観測に過ぎない信念を採用して、患者の希望を保とうとする訳にはいかない。(本文より)

医療とは、医術を用いて傷、病気を治療することです。

そして、医術とは、医療技術の略。つまり、医療とは、適切な技術を礎としたものです。

だからこそ、技術は確かな根拠を必要としなければならない。誰の目にも明らかな公共性。つまり、誰がやっても同じ結果が得られることを、礎としなければならない。

となると、公共性の対義語は、私有性。つまり、個人的な性質を帯びたもの、ということになります。

「公共的には根拠なき希望的観測」=「超個人的な思い込みに基づいた、希望的観測」

と書きかえることができる。

確かな技術に基づいた行為であるはずの医療が、個人的な科学的根拠などどこにもないものに頼るなんて、それは明らかな責任放棄に近い行為です。

だから、そんなことは出来ない。してはいけない、ときっぱり告げています。

難しい言葉。特に、「~ない」という言葉は、思い切って対義語に置き換えてしまうと、とてもすっきり理解できます。

この変換を、常に気にしてみてください。基本的な変換です。

置き換えるだけで、ぐっと理解が楽になります。

-適切な希望とは何か-

こうして、治癒の望みも、死後の生への望みも公共的な視点からは不適当であるとすると、希望はどこに見出されるのか。(本文より)

筆者は、宗教を否定したいわけではありません。

それに救いを求める患者を非難したいわけでもない。

この評論の冒頭の設定は、「医療従事者は、死と向き合う患者にどうやって希望を持たせることができるか」ということであることを忘れずにチェックしてください。

個人の選択は自由である。けれども、医療はそれを選択できない。それを選択してはならない立場にいる。

そんな条件で、どうやって患者に希望を持ってもらえるのか。

それを筆者は探しています。

ここまでは一般論の否定です。

ここから、筆者の考えに移っていきます。

【第3~5段落まとめ】

-一般的に考えられるものは、全て不適当-

患者の求める希望は、治癒の望みでもなく、死後の生でもない。

この二つは、一般的にすぐ思い浮かぶ可能性が高いものです。その二つを、まず明確な理由を出して否定し、その後に持論につなげる。

これは、評論文の定番パターンとも言えるものです。

では、筆者の持論はなんなのか。

今日はここまで。

続きはまた明日。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

 

 

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