死と向き合う 解説その6 まとめ

死と向き合う
sasint / Pixabay

「死と向き合う」解説六回目。

全体のまとめとなります。

スポンサーリンク

【まとめをする前に】

毎回、評論文の最後にはまとめを書いているのですが、読み終わった後、必ず自分でまとめる癖を付けてください。

解らない事を調べたり、言い換えたり、自分で具体例を探したり……

それらを繰り返す事によって、大事な模試や受験本番に必ず力になってくれます。

特に、今回は哲学者が書いている文章になるので、とても難解です。

けれど、皆が等しく体験する「死」というものに対しての考察なので、イメージしやすいもののはず。

-ノートのまとめ方-

 

ノートにまとめるとは

 

・重要だと思うところを抜き出す。

・ノートにメモの形で、書き写す。

・形式は自由。最初書き方が解らなかったら、箇条書きでOK。

・本当に解らない場合、教科書の文をまる写しでも大丈夫。けれど、その場合、ほんのすこしでも良いから、文章を自分の力で書きなおすこと。

・余計な知識を足す。

・違う具体例を考えてみる。

・筆者が出した抽象例に当てはまるものを考えて、書きたす。

・色分けをしてみる。(赤以外)

・自分が大事だと思う部分を、マーキング。

 

-上手くとるポイント-

 

ノートを上手く取るポイントは、最初から上手に取ろうとしないこと、です。

えっ? と思うかもしれませんが、ノートは理解をするために書きとるものです。実際、手を動かすことによって脳が活性化し、記憶がしやすくなります。なので、「上手に、綺麗にノートをとろう」と考えてしまうと、そっちに気を取られてしまって、本来の目的の「理解」がおざなりになってしまいます。

慣れてくれば、綺麗に取れるようになってきます。また、授業でとったノートを、家に帰って、今度は冷静に、時間をゆっくりかけてノートを造り直す時に、綺麗にまとめることを意識してみる。それも効果があります。

二度手間じゃないかと思うか、復習と捉えるかは自由です。けれど、再度読み、まとめ直すことは、思う以上に効果が高い方法です。

必要なのは、理解を促すためにノートを取っているのだという意識を持つこと。これがとても大事。

ただ、何となく。

皆がとっているから。

取らなきゃいけないから。

と思って取っているのならば、今すぐそんなもの止めてください。意味がありません。だったら、「この授業時間で全て覚えて帰る!」ぐらいの勢いで、先生の話を集中して聞いていた方がよっぽど意味があります。

けれど、人間、そこまで連続で集中することも出来ない。

だから、集中を促すためにも手を動かしてノートを取る。

実際、ただ聞いている。黒板を書き写すよりも、聞いた話を自分で工夫をしてノートに書き写す作業をした方が、理解力や記憶力がUPしたという研究結果も有ります。

是非、文章を読みながらノートをとり、自分なりにまとめてみてください。

各段落ごとに、大事なことを抜き出してみるだけでも、効果があります。

高校国語に中学のような便利なワークは有りません。プリントも無いです。全て自分で解答を考えて、模範解答無しで受け続けていかなければならないのは、君達が考えている以上にハードです。

けれど、それが「高等教育」である、ということを理解し、身に付けましょう。

知らない知識を入れて、理解し、自分の解りやすい形に書きかえる。それが、記述解答を作り出す、力となっていきます。

計算問題も、理解しただけではなく、何度も演習をしなければ身に付きません。国語もそうです。

理解した⇒違う言葉で書き表す練習・演習をノートにまとめる事で積み上げていく。

具体的な勉強は、それだけです。

ワークが無い状態で、しっかりと論理構成を解るために、自分の言葉で説明できるようにしておく。

なんとなく理解はしているんだけどなぁ……という状態は、ノートを作ることができません。なので、それをしっかりとした理解と、テストで応えられるだけの素地を作るために、ノートにまとめてみてください。

【本文のまとめ】

では、まいりましょう。

希望のある生、とは、自分の生き方を丸ごと「これでいい」と肯定すること。

-問題提起-

評論文におきまりの、問題提起から始まります。

基本的に、評論文はこの問題提起に対しての解答を探し出す、思考の過程を書き表しているのだと言うことを、忘れない事。

何度も迷った時には、問題提起を確認してください。

この本文での問題提起は、「死に向かう、重篤患者たちの「希望の持てる説明を」というリクエストに対し、医療従事者達はどう答えればいいのか。

そして、患者たちが望む希望の正体とは何なのか。

という疑問から始まっています。

-一般論の呈示-

ここで、必ず常識的な見解から、一般的に多くの人が思うであろう考えが呈示されます。

それは、患者が望むのは、

「病気の治癒・回復・または悪くなることを出来る限り遅らせる事」

「死後の世界の生への希望」

の二つであろうと。

 

-一般論の否定(根拠の呈示)-

その一般論が筆者の考えと合致しているのならば、ここで出す必要はありません。必ず、一般論は覆させられるために、呈示されます。

そして、評論が例示を否定する場合、必ず根拠が示されます。これができないと、個人的な唯の意見の一つ、となってしまう。

ならば、二つの希望を否定した理由は何なのか。

「治癒の可能性」は、「人間がすべからく死に向かっている事」「統計学上、治ること、回復すること、進行が遅くなることは、必ず限界が来て、悪化する時期がやってくる」という、現実に覆されます。

これはもう数字が示している事なので、否定できない事実なので、気休めでも口にできない。というよりも、嘘など説明出来ません。

なので、ここに、希望は居ない。

同じく、「死後の世界」も、医者や看護師は、個人の好みで信じるのならば自己責任で構いませんが、少なくとも仕事として医術を使っている限り、根拠のない、数字で示せない、公共性のないものを拠り所にする訳にはいかないのです。

なので、宗教的な考えにも、希望は存在しない。

ならば、どこにあるのか。

 

-筆者の主張-

筆者の主張は、一般論を否定した後に呈示されます。

その内容は、「死に向かっている、この今生きている瞬間に存在する」という答です。

希望は、「生」それ自体に存在している。

病気になり、今まさに苦しんでいる、希望を失っていながら、医師の説明にすら希望を持てるものを望む、ということはそれだけ見失っている。自分では希望を抱けなくなっていることの証明のようなものです。

でも、希望は、その患者の「生」の中に、確実に存在している、と筆者は主張します。

 

-筆者の主張の根拠・説明-

何故、病気になっている「生」ですら、希望が存在すると言えるのか。

病気に懸っていない人であったとしても、私たちはすべからく皆、「死」にむかって進んでいます。それは誰にも否定ができません。

私たちは、限られた「生」を生きている。ならば、その「生」に希望を抱いている人達は、どのような態度を貫いているのか。ヒントは、そこにありました。

それは、「現実への肯定的な姿勢を最後まで保つ。」ということです。

よくよく考えてほしいのですが、あなたの周りでとても輝いて、希望にあふれた人生を生きている人たちは、自分のこれまでの人生に対してどう考えているでしょうか。

自分の人生を、否定しているか、
それとも、「これで良かったんだ」と肯定しているか。

人生、一寸先は闇、とはよく言ったもので、何が起こるかなんて何一つ解りません。けれど、それらが起こったとしても、「でも、その代わりに得られたものがあるし。出来たこともある」と、自分の生を肯定している人が、「生」に希望を見出せます。

「いろいろあったし、苦労もしたし、ほんとに死にそうなほど苦しかったこともあるけど、でも、それがあったから自分が本当にやりたいこともはっきり分かったし、無理したら駄目なんだって解ったし」

「人に合わせなきゃ、ってずっと思っていたけど、その結果いじめられて、好きかって言われて、凄く傷付いたけど、でも、そのおかげで自分のことを一番無視して、酷い扱いしていたのは自分自身って気が付けた。人に合わせることと、自分の気持ちを自分が無視することは、同じことじゃない。自分を大事にしようって、気が付けた」

「病気になってしまったことは、確かに不幸なことなのかもしれない。けれど、こうやって倒れてみて初めて、自分がいかに家族をないがしろにしてきたか。ちゃんと話す時間を取っていなかったことに、気が付けた。ちゃんと話したいと思っている自分にも、気付くことができた」

「これで良い」「満足だ」と思えて初めて、人は「では、今から何をしよう」と思える。

今の自分を、不幸なことも含めて全て肯定して、頑張ってきたことも、間違いも全て受け止めて、初めて「明日は何をしよう」ということが考えられる。

「今、自分にできる事は何か」ということを、考えられる。

-絶望は自己の否定と、踏み出すことへの拒否から生まれる-

ならば、逆に自己を、現状を否定したらどうでしょうか?

「ああ、こんなんじゃなかった」
「こんなの、違う」
「やり直したい」

と思っていればいるほど、貴方の考えは、「次」に向くでしょうか。

そう、全く向かなくなりますよね。

絶望は、自己の否定から始まります。

ならば、それさえ解っていれば、自己の肯定をすれば、希望が見えてくることになる。(参照⇒不合格は失敗か それとも成長か)

けれど、否定ばかりをしていては、「生」に希望が見えてこない。

先ずは、どんな時でも自己を肯定する。願望も、欲望も、本音も含めて、全て肯定してみる。

そうすることで、初めて希望が見えてきます。

 

-問題提起に対する答-

そして、最後は問題提起に対する答です。

重篤な患者が望む、「希望が持てる説明」とは、どのようなものなのか。

それは、「あなたを一人にしない」というメッセージです。

「生」への肯定感は一人では決して得られません。

私たちは、共同で生きるようにメカニズムが組まれている。一緒に誰かが歩んでくれる。道は独りで進むかも知れないけれど、同じ道を進んでいる人がいて、少なくとも一人ではない。傍に誰かが居てくれる、という感覚は、とても頼もしいものです。

「死」はとても悲しいものなのかもしれない。

けれど、悲しいと感じる事が出来るのは、その人と繋がりがあるからこそです。見知らぬ誰かが死んでも、私たちは上手く捉える事が出来ませんが、とても親しい人が亡くなった時は、本当に悲しいですよね。

それは、その亡くなった人と私たちが関係があったと言うことです。

だから、悲しくなる。共に生きて、希望に満ちた「生」を過ごしていたからこそ、悲しみが溢れてくるのです。

【哲学とは】

-理解することで、思考力が上がるもの-

哲学、というととても堅苦しいイメージを持ちがちですが、実は全ての学問の元となったものです。

「なぜ?」

「どうして?」

「これはどう答えたらいいのか」

完璧な答など存在しない問い。

今回の、「死」に対するとらえ方一つとってもそうです。色んな、様々な考え方が可能になる。

哲学者が解き明かした文章を読み解くことにより、思考を理解し、どうしてその答えになるのか。その論理の展開や、考えの発展の仕方を学ぶことができます。

この文章を解説した時、高校生のある生徒は、「評論って、ただ読むだけでなく、理解をちゃんとすると、凄く生きるのに大事なことを学べるような気がします」と感想を言ってくれた子がいました。

その通りだと思います。私自身も読むたびに、解説をこうやってするたびに、気付かされることが沢山あります。

難しいと倦厭するのではなく、自分の思考や意識を深くするために。

是非、哲学書などに触れてみてください。

-完璧な解答ではなく、ひとつの考え方-

哲学なども含めて、人文系の評論文は、評論家や専門家が書いた文章は、あくまでも「個人的意見」から出発したものだということを、忘れないでください。

根拠を示し、証拠を出していますが、評論文は個人の意見です。何時か死んでしまう人間が、完璧な存在ではあり得ないように、完璧な意見。完璧な評論、というのも存在しません。

突っ込みどころは、いくらだってあります。

けれど、一つの意見である、という認識をして、それを理解することをつねに徹底してください。

-否定ではなく、理解する姿勢を保つ-

何故なら、客観性のある意見は、まず相手の意見を知る所から始まるからです。

自分の存在の肯定が希望に繋がったように、他者の意見をまず肯定し、理解に努める。

批判したくなる時もあるでしょうが、それはぐっ……とこらえて、その気持ちは小論文まで取っておきましょう(笑)

誰かの意見を、とにかく理解することにつとめる。深く、知る。

そうすることによって、違う分野を読んだりして時も、同じ様に深く知ることができますし、似たような題材の話の先を段々読めるようになってきます。

 

今回は、「死」がテーマでしたが、「死」を考える事は、同時に「生」を考える事になる評論文でした。

あなたは、あなたの「生」をまるごと、うけとめ、肯定していますか?

 

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

⇒最初から読む

死と向き合う 解説その1

死と向き合う 解説その2

死と向き合う 解説その3

死と向き合う 解説その4

死と向き合う 解説その5

 

コメント

This site is protected by wp-copyrightpro.com

タイトルとURLをコピーしました