死と向き合う 解説その1

死と向き合う
sasint / Pixabay

今回から、筑摩書房精選現代文Bの清水哲郎さん著「死と向き合う」を解説として取り上げます。

哲学者である筆者が、丁寧に「死」というものはどういうものなのか。それを考えた過程も含め、書かれた評論文です。

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【逆説的な論理】

-「死」を考えることは「生」を考えることでもある-

この評論文では、「死」という、私たち生物が決して逃れられないものであり、誰もが経験するものであるはずなのに、誰もその実態を知らない。

ある意味、その存在を真剣に考えたことなど、これを読む高校生の年齢では、よほど特殊な事情が無い限り、皆無と言っていいでしょう。

身内の誰かが亡くなったり、自分自身が病気や事故などで、実際に「死」を身近に感じたことがなければ、考える必要など無いはずです。

けれど不思議なのが、こうやって「死」とは何か。「死」に直面すると、人はどんな考え方になるのか、ということを考えて行くことは、同時に、「どう生きるのか」ということを考える事にもなっていきます。

この評論文では、重篤な疾患。つまり、治る見込みのない思い病を抱えてしまい、ほぼ確実に命の期限が切られてしまった人々が、何を望み、何を考えるのかを思考する過程で、「どのような生を過ごしたいのか」という考えに行きついていきます。

 

-「どう死にたいか」は「どう生きたいか」と繋がっている-

「死」までの時間が限られてしまった。自分が生きる時間が限られてしまった時。

そして、それが解った時。

人は、残された時間をまず「どう生きるのか」を考えます。

どのように生きたいのか。

不思議ですよね。今までも、ちゃんと「生きて」いたはずなのに、「どのように生きようか」ということは、考えずに生きてきた。

けれども、「死」が身近になると、「どう生きるのか」を自然と人間は考えるようになります。残り少ないそれを、絶望で消費したいのか。それとも、違う何かを望むのか。

それを丁寧に筆者は思考し、結論へと導いていってくれます。

 

-哲学・文学は何かしら壁にぶつかった時に必要になる-

「哲学」と聞くと、堅苦しい、何かむずかしいものであるかのように、思うかもしれません。

「文学」も同じかもしれませんね。

確かに、必要ではない人には、全く触れる必要など何一つないものなのかもしれません。その「必要でない人」は、幸福な人です。

親兄弟と仲が良く、ケンカも無く、学校生活に不自由なことは何一つも感じたことはなく、不安も恐怖も感じず、毎日が楽しい人には必要がありませんし、読む必要もないと思います。(国語の授業は別かもしれませんが)

けれど、何かしらに苦しみ、答えが解らずにもがき、理不尽なことに足掻き、悩みながらも、それでも前に進みたい。この苦しみの正体を知りたい。それを乗り越えたいと感じる人に、哲学や文学は一筋の光にも似た何かを見せてくれるものです。

その、「哲学」を専門に研究している筆者の文章です。

では、読み解いていきましょう。

知の賢者と呼ばれる哲学者たち。全ての学問の素でもあります。

【第1~2段落】

-医療現場においての切実な問いかけ-

「患者が最後まで希望を持つことができるためにはどうしたらよいか。」ということは、ことに重篤な疾患にかかわる医療現場において切実な問いである。(本文より)

重篤な疾患、とは非常に思い病で、命の危険に関わる可能性があることを示す言葉です。

つまり、どんどん弱っていく患者。「死」に確実に向かっていく患者に対し、「希望」この場合、「生きる希望」ということになるのでしょう。それを「死」の瞬間まで持たせるためには、一体どうすればいいのか、という、大変重い問いかけからこの評論文は始まっています。

さて、この究極の問いかけ。

貴方ならば、どういう方法を思いつくでしょうか。

書いてある内容を、「仮に自分がもしその立場だったとしたならば。」もしくは、「自分の親・祖父・祖母・身内の誰か、が重篤な病だとして、自分はその人にどのような希望を抱いてほしいか」「その為には、自分はどのように関わっていけるのか」というように、我が身事で考えてみてください。

そして、考えれば考えるほど、これがとても難しい問だと言うことが、すぐに解ると思います。

-患者の希望とは何か、という問題提起-

重篤な病に冒された患者は、このような過程を経る、と本文には書いてあります。

・病気であることを知らされる。
・状態がどんどん悪くなる。
・有効な対処法もないことを知る。
・自分の体がだんだん悪くなっていくのを実感する。
・できる事がどんどん減っていく。

この状態の人のそばに寄り添って、貴方はどんな言葉をかけ、毎日どのような気分で接しますか?

このような場合においても患者側は「希望を持てるような説明をして欲しい。」と医療側に要請する。それにどう応えることができるだろうか。(本文より)

このような場合、とは「重い病に侵され、死を間近に感じるようになった場合」です。

その時でも、患者は、人間は、「希望を持ちたい」と思う。

では、それに応えるために、医療関係者は考えます。

「何が、一体患者が望んでいる「希望」なのか」ということを。

希望の正体が解らなければ、適切な答えなど出来るはずもありません。

この「希望」とはどういったものなのか。

そこに、焦点が絞られてきます。

-患者の希望に対する、一般的な思い込み-

このような状況で、「希望」とはしばしば、「治るかもしれない。」という望みのことだと思われている。(本文より)

細かい部分なのですが、この「思われている。」という部分に、気が付ける人。気になる人は、評論文が読めている人です。

そう。これは筆者の意見を述べるための評論文なのに、「思われている。」という表現は、筆者の意見ではありません。

誰の意見なのか。

そう。私たち、一般人。病気に侵された患者本人やその周囲の人々も、含まれるかもしれませんが、「死」をまだ身近に感じたことのない人たち全般を指します。

「希望」=「治るかもしれないこと」だと、一般人からは「思われている」のです。

と言うことは、そう。医療従事者や、この筆者。哲学者でもある清水哲郎さんは、違う意見を持っている事が、細かい言葉尻ですが、そこからうかがえます。

「そんな細かい表現、解るかよ!!」と思うかもしれませんが、「神は細部に宿る=大事なことは、細かいところにさらりと書いてある」ということを、念頭においてください。

これが見抜けるようになると、「一般論」がどこに書いてあるのかに、すぐ気が付けるようになります。

そして、多くの評論文は、この「一般論」に対する、真逆の意見。実はそうではない、というアンチテーゼをぶつけ、その真実を暴くために書かれているものだということを、忘れずに意識しておいてください。

それだけで、評論文を読む時の目標が決まります。

まず、「一般論」を探す。そして、筆者がこの論理をひっくり返すつもりなのだと解って、そのアンチテーゼを次に探すのです。

 

-常識に対する筆者のアンチテーゼ-

だが、希望とはこうした内容の予測のことなのだろうか。(本文より)

病状への「希望的」観測。

つまり、「治るかもしれない」「進行が自分は通常に比べて遅い方だ……(だから、もしかしたら生き伸びるかもしれない)」という、淡い思いのことです。

確かに、このような「治ることも、まれにある」「進行が遅れる場合も、なくはない(あるにはある)」という情報は、知らなければそんな事を考える事も出来ないので、「良い」経過は必要かもしれません。

けれども、患者が求める「希望」とは、そんな病状の報告だけで良いのでしょうか。

仮に「良い」病状報告だけをし続けて、患者は「死」の瞬間まで「希望」を持ち続けていられるのでしょうか。

必ず、私たちは「死」を迎えると言うのに。

「良い」経過報告は、どこかのタイミングで、必ず「悪い」報告になる瞬間がやってきます。

そしたら、患者の求める「希望」は無くなってしまう、と言うことなのでしょうか。

医療従事者は、常にその疑問と向き合い、そして生きている患者に向き合っています。

患者が本当に必要としている「希望」の正体とは何なのか。

それは私たちが思い込んでいる、「治ること」や「回復したこと」では、無い。少なくとも、答えには不十分であることが、ここで示唆されています。

【まとめ】

第1~2段落は導入です。

医療従事者達が日々直面する、「死」に向き合い続ける患者たちが求める、「希望が持てるような説明」とは、一体何なのか。

少なくともそれは、「治ること」「回復すること」という単純なものではない。

もっと別の、違う何か。

その何かを、続きで読んでいきましょう。

今日はここまで。

続きはまた明日です。

ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。

続きはこちら⇒死と向き合う 解説その2

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