今回から、内田樹さん著の「物語るという欲望」を解説します。
今回は、その1。
【イントロダクション】
-物語る、とは-
「物語る」という耳慣れない言葉。
辞書的な意味合いは、「まとまった話をする」「起承転結がある、物語を語る」ということです。
つまり、「オチをつける」「一つのまとまった展開のある話をする」という行動、ということになります。
となると、タイトルの意味は、「まとまった展開のある話をしたくなる、欲望、欲求」となります。
-どのような状態の時に、人は物語るのか-
私たちは、どのような時に物語を話したくなるのでしょうか。
面白い出来事があった時?
それとも、面白い作品に触れた時?
何か、誰かに伝えたいことが出来た時?
この評論文では、そのような誰かとの会話の中で伝えたい物語が出来た時に「話したい」と思うような、伝達の欲求ではなく、人が無意識に思い描いてしまう「物語る」という行為は、どのような条件が整った時に行われるのかを、映画、という映像作品のある実験を通して、分析されていきます。
誰かに強制されたわけでもなく、誰かに教えられたわけでもないのに、人が自然と無意識にやってしまう「物語る」という行為。
さて、それはどのようなものなのか。
本文を、読んでいきましょう。
【第1~4段落】
-映画の製作者が狙っているもの-
映画は批評家や観客の主体的な「読み込み」をもその構成要素として存在しています。(本文より)
主体的とは、どういうことでしょうか。
それは、自分がやりたくてやること。やりたいなと思って、自分の意志でやってしまうことです。
対義語は受動的、従属的。つまり、受身でやらされているという意識の許に行われる行為ではなく、やりたくて勝手にやってしまうものが、主体的な行為ということです。
では、「読み込み」とは、何でしょうか。
例えば、推理物やサスペンス物を観る時、犯人が誰なのか。続きがどうなるのか。
そんなことを考えながら観る時って、ありませんか?
ドラマや続きものならば、先がどうなるのかを、映像の中にちりばめられている様々なものをつなぎ合わせて、「きっとこうなるよ」「いいや、ああなるよ」って、友達と話した事ってありませんか?
面白い作品であればある程、「続きは、先はどうなるんだろう」「全然、先が読めない。犯人、誰だよ?」と考えながら、のめり込んでみてしまう。
その時、私たちは別段誰かに強制されて先を予想しているわけではありません。
勝手に、やりたくてやっています。
先を想像して、友達と話し合ったり、推測したり、あの時、きっとあの人はこう考えていたんだよ!!って話し合ったり……
映画を観終わった後に感想を話し合う時。そうやって、勝手に解釈をしたのを、友達と夢中になって話し合う、なんて経験。きっと誰もが一度は持っているはずです。
そう。映画の製作者は、むしろそのような観客の主体的な分析を歓迎し、計算に入れて、ある意味では狙って、映像を作っているのです。
-映画の意味形成には観客が主体的に参加している-
映画の意味形成。つまり、その映像作品を通して、何を観客に訴えかけているのか。どんなメッセージ性があるのかは、観客が解釈することです。
これは、映画だけでなく、小説や物語。つまり、ストーリー性のある創作物には、付きものなのかもしれません。
人がいれば、それぞれ考えることは違います。
なので、同じものを観たり、聞いたり、読んだりしても、解釈はそれぞれ異なってくる。だからこそ、人は自分なりにその物語や映像を解釈し、自分なりに納得する形で受け止めようとします。
それは、現代のSNS文化を観ていても、解ります。
同じものを観ていても、その感想は様々です。けれど、違う感想を抱く人が居るからこそ、
「ああ、そんな見方もあるんだ」
と、自分との違いを楽しめたりもする。
それほど、人によって解釈は様々だし、映画の作成者たちはどのようにシーンを繋げ、切り取るかで、どんな印象を観客に与えるのか。どのような推測を観客達がしてくれるのかを、予想し、ある意味ではそれを計画的にくみ取りながら、映画を作っている、と冒頭で断言されています。
まるで、映画製作者の手の平の上で観客が転がされているようですが、けれど、観客が存在しなければ、映画を作ることも出来ません。
なので、観客が自分達で勝手に参加し、意味を書き込むことは、必然的な行動なのです。
-驚くべき映像実験-
ここで、面白い実験が例示として出されています。
ソ連の名優。イワン・モジューヒンを使った、映像実験です。
この俳優がアップで映し出された後、違うカットを付け足しました。
すると、観客は俳優が何を表現しようとしていたのかを、それぞれ違うように受け取った。解釈したのです。
アップ画像A+「スープ皿」=苦々しさ。
アップ画像B+「おもちゃで遊ぶ少女」=頬笑み。
アップ画像C+「死んだ女」=深い悲しみ。
その深い感情の表現に、『さすがは名優!!』と大絶賛されたのですが、種明かしをすると、AもBもCも、全部同じ映像でした。
おんなじ映像なのに、苦々しい。微笑み。深い悲しみ。
えらい違いです(笑)
これって、俳優の演技力が凄いのではなく、私たち観客は、その後に来る映像のカットと勝手に繋げて、意味合いを作りだしてしまっていることを、証明した実験です。
しかも、勝手に、観客達が「自分で」意味を付随した。
これって、観客が嫌々やっているのではなく、むしろ進んで、楽しんで自主的に行っている事です。
そうさせる何かが、映画にはある。
-進んで意味を書きくわえる「観客」という参加者-
映画は中立的な観客に向けて発信されているのではありません。(本文より)
中立的な観客、という表現は、製作者側の味方でも敵でもない、ということです。
観客はそんな立場の人たちではなく、(むしろ、中立的って、映画を観ない人、というふうにも言えます)、観てる人たちは物語を楽しんでいるようでいて、知らず知らずのうちに、積極的に意味を解釈し、物語や映像を読み込む行為をする人たちに向けて、発信されているのです。
映画館って、映画を楽しむことしかできない場所なので、映像に集中してしまうからそうなってしまうんですよね。
映画のうちに進んで意味を書き加える観客の参与があって、映画を媒介としてコミュニケーションは成立しているのです。(本文より)
参与とは、事業や計画に関わること、参加すること、を意味します。(役職名の意味もありますが、この場合は動詞として使われています)
映画は、観客が映像を積極的に「読み込み」、意味を書き込むという参加する行為があって初めて、製作者と観客のコミュニケーションが成立する。
映画と言う創作物を通して、製作者が訴えたいことを表し、それを積極的に解釈する観客が存在し、様々な意味合いに受け止められることが感想として発信され、それが製作者に伝わり、コミュニケーションが成り立つ、という構図が成り立つのです。
【今日のまとめ】
-観客は、自ら勝手に映像に意味を書き込んでいく-
製作者の意図とは全く違ったように解釈されることもあったり、そんな風に受け取られるんだと意外な感想が出てきたりすることは、映画だけでなく、様々な創作物で起こることです。
それほど、観客や聴衆、読者、という存在は、積極的に様々な意味を付随しながら、解釈をしながら、物語を楽しみます。
それも、自分の意志で、進んで、むしろ楽しんでやってしまう。
何故、そんなことをしてしまうのでしょうか。
それは、また明日。
ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。
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