内田樹さん著。「物語るという欲望」解説その2
(その1)
【前回までのまとめ】
-映画は観客の参与があって成立するもの-
映画は、まず、製作者と観客の間に存在するものであり、それを介在してコミュニケーションを成り立たせています。
観客は、映画を見ることによって、自分の意志で勝手に、その映像の意味合いを「読み込もう」とします。
つまり、
「このシーンって、~~~いう意味だったんじゃないのかな?」
と思ってしまうこと。
自分が映画を見ている時。例えばそれが謎が問いかけられている推理物だったり、ミステリーや謎ときの要素が組み込まれていた場合、
『犯人って、絶対あの人だよね』
とか、勝手に考えます。誰にも要求されていないはずなのに。
それって、どうしてなんでしょうか。
-観客は勝手に映像に意味づけを行う-
謎ときだけでなく、様々な映像や、その後に続いている映像から、観客は勝手にその登場人物の心境や心理を読みとろうとします。
全く同じ表情のカットであったとしても、その後に何が映し出されていたかで、そり人物の心を観客は全く違った物として受け取りました。
これは、製作者側が意図したものではなく、観客が勝手に描き出してしまっているのです。
人間は、そうしたくなる欲求が思考の中に存在している。
それは一体どうしてなのか。
続きを読んでいきましょう。
【第5~7段落】
-映像の意味は多義的-
映像の「意味」というものを、一義的に確定することは不可能ですし、そもそも一義的に意味を確定しがたい無数の記号が画面には映り込んでいます。(本文より)
一義的、とは、一つの意味合いという意味です。義=意味のこと。
唯の青空を映し出していても、それを「明るい空」と思う人もいれば、「何もない空っぽ」と取る人もいる。
希望と受け取る人もいれば、何も存在しない空しい気持ちを表していると受け取る人も、実際に存在しています。
そう考えると、映像はその画面の中に様々なものが映し出されています。
唯の部屋に飾ってある人形を、「可愛い」と思う人もいれば、「気味が悪い」と受け取る人もいる。
そうやって考えると、映像に映り込んだありとあらゆるものを、観客はそれぞれ違う意味合いで受け取ったとして、その種類の組み合わせは無数であると言うことが出来ます。
人によっては、例えば唯の「蜂」も、一度刺された人ならば、命の危険があるものになってしまうから、恐怖感は格段に上がりますよね。そうすると、観ただけで不快感がぞわっ、と上がってくる人もいれば、「ああ、蜂だ~」としか思わない人もいる。
だからこそ、筆者は「狙った通り」一つの意味合で観客に受け止められるようにすることは、不可能なのだと筆者は言い切っています。
物事の受け取り方は、人それぞれです。耐えきれる人もいる一方で、それが無理な人もいる。
映像は特に多数のものが映像に映り込み、視覚という一瞬で大量の情報を伝えることが出来るツールであるからこそ、製作者の意図したように受け取られないことの方が、むしろ当たり前なのです。
-映画には「作者の意図」とは関係ない映像も映りこむ-
そういったディテールは映画のストーリーラインや主題や「作者の意図」とは何の関係もありません。(本文より)
恋愛ものに、登場人物たちが使っている日常生活の生活用具は、本来唯のキャラクターのイメージを決定づける意味合いしかないはずです。
どんな好みをしているのか。雰囲気は。イメージは。それらを伝えやすくし、イメージをふくらますだけの効果しかないはずの小物が、観客に色んな意味で解釈されることは、本筋とは全く関係が無いはずです。
「作者の意図」つまり、作っている人が、「観客にこう思って欲しいなぁ」と狙って作るものと、観客の細かい解釈は、全く関係がなく、作者が狙っていない場所で行われる物です。
何故、そんなことが起きるのでしょうか。
-どうでもいい映像が観客の心に引っかかる-
しかし、ときにそれらの断片が、その無意味さゆえに、奇妙な抵抗感を観客の心の中に残すことがあります。(本文より)
意図的なもの。つまり、作者が「わざと」そこに置いたものと言うのは、意図的な臭いが漂います。要するに、「わざとらしい」
その「わざとらしい」話の展開や、物語の進み方は、作者が狙ってやっているものなので、逆に心に引っかかりません。
「あ~、こういう展開なのね」
と思ってみたこと、無いですか? なんか、意図的なのって解りますよね。
そして、そういう意図的なものは、心に残らなかったりする。
観客の心に残るのは、むしろ意味のない断片。
つまり、話の筋とは全く関係のないものが観客は気に懸るのです。むしろ、どうでも良いことだからこそ、引っかかると言って良い。
「きっと、無意味に思えるけど、何が深い意図があるのかな?」
と、考えてしまうのです。
-「解釈したい」という欲望-
どうでもいいような細部が、まるで喉に突き刺さった魚の小骨のように、映画を見終ったあとも消化されず、いつまでも私たちの記憶のうちにとどまり、重い存在感を残すことがあります。そして、私たちの中の「解釈したい」という欲望に点火するのです。(本文より)
そして、印象深いそれらのものは、物語の筋には基本的に関係がありません。
だからこそ、目立つんです。
話の筋に関わりがあるものならば、話の中できちんと説明がつく話の展開になります。
けれど、大筋とは関係ない細かなディテールは、最後まで話の筋とは無関係です。だから、すっきりしない。
あれは一体何だったんだろう
と、観終わった後も印象に残っていて、謎が存在している。観客が勝手に創り出した謎なんですけどね。
なので、謎があると、それを解析したくなるのが人間と言うものです。
それが、「解釈したい」「一体あれは何だったのかを、はっきりさせたい」という欲望に火を付ける。
そこから、観客の映画に対する参与が始まっていくわけです。
【今日のまとめ】
-観客は映像を解釈したい存在-
映像の情報量はとても沢山あります。
なにせ、視覚という情報は、膨大な量を一瞬で私たちに伝えてくれるものです。だからこそ、大筋とは関係ないものまで映り込んでしまい、関係ないからこそ、変に印象深く観客の心に残ってしまう。
だから、映画のストーリーが終わった後でも謎は残ってしまい、残るが故に、何かを意味づけしたくなる。
何故ならば、「謎」がそこに存在しているからです。
という流れになる。
そんな性質を、人間は持っているのです。
何故そんな性質を人が持っているかは、また明日。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
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