物語るという欲望 解説その3

物語るという欲望

物語るという欲望 解説その3
(その1 その2)

【前回までのまとめ】

-観客は映像を勝手に解釈する-

ソ連の名優の表情のカットを利用した映像実験を行うと、同じ映像であるのに、観客はその次に映し出された映像を見て、勝手にその前の俳優の表情から読みとれる感情を推測したのですが、後に来る映像が変わると、人間の感情もそれにつられて変わっていくという実験が行われました。

私たちは、様々なものに影響を受けている、ということの実証をしたこの実験結果。

それは、映画と言う映像表現の中で、如実に現れました。

観客は、物語の進行とは全く関係が無く、映像に映り込んでしまったものを見つけ、「これはもしかしたら意味があるのではないか」と考え、様々な解釈をしてしまう。

そんな自主的な解釈の参加をしてしまうのが、「観客」です。

-作者の意図しない観客の解釈-

更に面白いのは、これが作者の意図に全く関係が無い部分を、観客が拾い上げてしまう、という面です。

作者の意図する部分は、物語の重要な部分です。なので、そこにはどうしても作為性。つまり、作りものの雰囲気が漂います。観客もそれを解って、仮の世界観を楽しんでいる。

 

「こんなにうまくいくはずないじゃん」

 

「なんで、こんなに邪魔が入るんだよ!!」

とか、勝手なことを想いながら、現実には有り得ない世界を楽しむのですが、そこに記憶の引っかき傷のようなものが発生します。

 

映像は情報の塊。

何気なく映ってしまった、物語の本筋とは全く関係が無い物を、観客は「関係が無い」からこそ、妙に印象に残ってしまい、勝手に

 

「あれって、何だったんだろう……意味あったのかな?」

 

 

と考え始める。

そうして生まれるのが、様々な解釈です。

映画の感想やコメントなどを見ていても、それぞれが全く違う部分を取り上げていたりしますよね。人によって感想が違うのは、その人の中で気にかかる部分が違うから。

なので、解釈も様々生まれてくるのです。

では、何故そんなことが起こってしまうのか。

普段は見過ごしてしまうことに足を止め、じっくり考えるのが哲学や思想です。

「何でそんなことするんだろうな」と、続きを読みながら考えてみましょう。

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【第8~11段落】

自由になりたい。けれど、自由の裏側には孤独が常にある。

-観客の解釈したい欲求に火をつける原因-

映画には必然的に「それか何を意味するのかよく分からないもの」が映り込んでいます。(本文より)

最近観た映画を思い浮かべてください。

ドラマとかでも構いません。その時に、

「あれ、意味があったのかな?」

と思うようなものが映っていた時ってありませんか?

 

とか、

「あれ、絶対に後から関わってくるはず!!」

と思ったものが、意外にも最後まで触れられずに終わっちゃったりとか。

 

私は、とっても良くあります(笑)

それこそが私たちを解釈へと動機づける、意味生成の動力ではないでしょうか。(本文より)

でも、その無駄なもの。

話の本筋とは全く違うものが入り込むことによって、観客は

「あれ? これって何だろう?」

 

「もしかして気がついているの、私だけ?」

みたいな期待も込めて、引っかかるものがあればある程、自分の予想が当たってほしいから観まくる。

 

その物語にのめり込んでしまう作用が働きます。

だって、当たってほしいですよね。自分の予想(大概は当たりません(笑))

けれど、そうやって自分で解釈をすると、当たっているのか外れているのかが気になって、結局先を知りたくて自然と必死になって映画を見続けてしまう。

結果的に自分の予想が外れたとしても、注意深く物語を見ていれば、その世界に自然とのめり込んでしまい、どっぷりとその世界に浸かって、楽しめてしまうという。

その物語を楽しむためには、その世界に浸かる必要性があります。

それには、物語の予想や展開を、自分の意志で参加して、自分の解釈があたるのか外れるのかを楽しむのが、一番です。何かを理解するには、楽しんでするのが一番なんですよね。

-「物語」と「反-物語」の関係-

バルトはこれを「反-物語」と形容しましたが、「物語」と「反-物語」のあいだにあるのは、相殺相克の関係ではありません。(本文より)

「物語」=作者が意図する、物語の本流。本筋。
「反物語」=観客が自主的に物語に関係ないものを勝手に解釈する、本筋には関係のないもの。

です。

その二つが、相殺相克の関係ではない。

相殺=お互いに作用し合って、その効果をゼロ、または差引されてしまうこと。
相克=「そうこく」と読みます。元は占いの言葉。お互いが相手に勝とう(克)として、結果的につぶし合いになってしまうこと。

要するに、相殺相克って、互いにつぶし合って、ゼロになっちゃうこと。効果が出ない事、です。

物語と反-物語は、こういう関係にはならないんです。

え? 観客、違う解釈しているのに、何で?? と思うかもしれませんが、つぶし合いにはならない。

何故ならば、作者の意図することは、物語に観客を惹きつけ、その世界にどっぷりつかってもらうこと。その世界観を楽しんでもらうことです。

けれど、それは中立的な立場。つまり、部外者には出来ない事です。

その世界に自分の意志で参加し、色んな事を考え、疑問を抱えながらも、その世界を見続けることがとても大事になってくる。

そして、物語の最後のエンドマークまでみると、ひとまずの物語は終わっているので、満足感は得られます。自分の予想が外れたとしても、

「あー、外れたかぁ」

とは思いますが、それって物語を楽しんでいなければ出来ない事なのです。

 

結果的に外れても、楽しめる。だから、「反-物語」を観客が持っている事は、結果的に映画を心の底から楽しむことに繋がってしまう。お互いに、潰しあわないんです。

エンドマークに向けてすべてを整序しようとする物語の力と、それにあらがって物語を開放状態にとどめ置こうとする「反物語」の力とのあいだの緊張から、すべての物語はその生命と開放性を汲み出している。(本文より)

全てを整序する物語の力は、作者の意図する道筋です。
そして、開放状態とは、自由に何でもかんでも考える=観客の解釈です。

 

「好きに考えさせてー」

というやつですね。

 

で、そうやって勝手に観客が考えようとする力と、作者の意図の力が上手い具合に緊張を生みだして、映画を飽きさせないし、夢中にさせる効果を発揮し、創りものの世界をより生き生きと、魅力的なものとしている。

どんな解釈をしても、それはあなたの自由だよ。取りあえず物語はエンドマークを付けるけど、そっから先は、あなたの想像と解釈の自由だよ、と、開放性。自由度を遺してくれている。

想像の余地を残してくれている作品が、名作と言われる所以です。

-無意味なものが意味のあるものを際立たせる-

物語は「反-物語」を滋養にして、「反-物語」の干渉と抵抗に遭遇して、巨大化し、増殖し、重層化し、神話化する。(本文より)

作者が意図する、本来のストーリーの道筋は、それとは別な観客の解釈を栄養分として働きます。

物語に熱中してくれる切っ掛けとして、その観客の予想や解釈が作者の意図を追い越していたり、全くの真逆だったり、外れていれば外れているほど、本来の意図している意味合いが観客に伝わった時に衝撃が強く、深みが出て、すごい!という感覚を引きずり出す。

つまり、観客の解釈が強ければ強いほど、物語は面白くなる。観客はおもしろいと感じてくれる、という事になります。

神話とは、古くから人々に語り継がれた神様の物語です。

面白い映画を観たら、人に話したくなりますよね。

そうやって、語り継がれる事。話される作品は、人の心に残り、時代が移っても話される作品になります。

これが、神話化する、ということ。

神話化する映画には、必ず、観客の解釈が入り込む行動があるのです。また、そうでなければ心に響く物語にはならない。

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意味は無意味なものに媒介されて深みを獲得してゆく。(本文より)

不思議なのですが、この物語に全く関係がない部分があるからこそ、人は物語に夢中になります。

SNS。特にTwitterで良く見られる現象ですが、テレビなどで映画が放送される時。

その映画を見ているのに、同時にタイムラインにはその映画の場面場面の解釈や説明、感じたことなどの、感想や考察、解釈を記したツイートが山のように溢れます。

もちろん、そこには話の筋に全く関係がないものも溢れている。

けれど、そうやって解釈を書くのは解釈したい欲望があるからです。

人は映画を観ながら、こんなにもたくさんのことを感じ、考え、積極的に思考しながら観ているのかと思うほどに。

しかも、大概それは楽しんでやっていることがほとんどです。義務でもなんでもなく、やりたくてやってる。

それをそのまま読書感想文で書けば良いのに!とちょっと思うぐらいです。

外れていても、当たっていても別にどっちでも良い。

そうやって解釈を繰り返していく事によって、結果的に物語の理解は深まっていく。

人から聞くのではなく、自分の頭で推測し、解釈する事で、より物語は楽しめるものになっていくのです。

 

-逆説的な事象-

意味のないものが、かえって意味あるものの価値を高めていく。

逆説を考えることは、正説を考えるのがコツです。

ここで言うのならば、

意味のない光景は、物語の解釈には邪魔なだけである。という考え方のこと。

たしかに、筆者の意図通りに進む物語の方が、スッキリしてより質のいい物語なのではないか……と思いがちです。

けれど、実際はそうではないのです。

無意味なものに溢れていた方が、物語の深みは増す、理解度が高まる、と言うのです。

物語が作者の意図的に進むだけだったら、それはただの論理展開。実験結果や、計算の過程のようなものになってしまいます。

もちろん、それはそれで素晴らしいのですが、全てが綺麗にまとまっているものに、人間は惹かれない特徴がある。むしろ、欠陥があった方が。違う無意味なものに溢れていた方が、より魅力的に映る。

それが何故なのか。

何故無意味なものに溢れていた方が、人は解釈しようという欲望が生まれてくるのか。

筆者はそこを掘り下げようとしているのです。

【今日のまとめ】

-無意味なものは邪魔なのではなく、それがあるから物語が深みを増す-

人は、映像に映り込んだ様々なものを勝手に解釈しようとする。

その行動が、人々を映画に熱中させ、結果的に人の心に感動を生み出す源泉ともなり、より深く物語を理解できるきっかけとなる。

筆者はさらに考察を続けます。

何故、そんなことが結果的に起こるのか。

その理由です。

続きはまた明日。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

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