こころは見えるのか? 解説、その2
(解説 その1)
【前回までのまとめ】
-「こころはある」でも「見えない」-
「こころはあるか?」と問われると「ある」と問われた全員が即答するのに、「じゃあ、見たことは?」と聞かれると、「うーん……」とみなが言葉に詰まる。
これって、凄くおかしなことです。
存在を信じているのに、姿は無い。見たことも、触れたこともないのに、「ある」と即答できる。
これって、どういうことなのでしょうか。
「こころ」とは、本当はどこに存在しているのでしょうか。
-見えないものを見えると仮定して、徹底して現実的に考える-
筆者は、その見えないものを、まず「見える」と仮定して、徹底的に考えます。
「見える」存在であるのならば、それは具体的な形と、身体の中のどこかに治まって、片付けられているはず。
なら、それはどこに片付けられているのか。それが、要所要所で表に出てくるのか。だとしたら、それはどんな時なのか。戻る時は、いつなのか。
そんなことを延々と考えてしまうと、具体的なことを試してみるよりも、頭で堅く考えてしまいがちです。そうすると、新しい視点なんて、持てない。
なら、今までと違う考え方をしたいのならば、頭で観念的に考えるのではなく、具体的な例示。実験を通して考えてみよう、と話は進んでいきます。
では、先を読んでみましょう。
【第5~10段落】
-体と「こころ」のかかわり-
ひとの表情やそぶり、そして言葉。言ってみれば、ひとの存在の現れや感触のようなものの、それらは「こころ」とのかかわりでどのようなものとして「ある」と言ったらよいのか。(本文より)
ひとの表情やそぶり・言葉=ひとの存在の現れや感触のようなもの、ということです。
前半が具体例。後半が抽象でまとめたもの。
ひとが見せる表情。笑顔や悔しい顔。怒っている顔や、悲しんでいる様子。身振り手振り、言葉や、声の高低、速い遅い、などなど。
それらは「こころ」とどのような関係があるのか、と考えが続いていきます。
これで、全く「ない」とは、私たちは言い切れません。
微妙な表情が、全ての心を表しているのだとして、その研究を学問にまで応用したのが、心理学や読心術となります。
-体の一定のパタンが脈絡を生みだす-
これら一定のパタンを描くふるまいや佇まいの趨勢が前後の脈絡から浮き立ってくるときに、ひとがそのように言うものなのであろう。(本文より)
「だれかが悲しんでいる」という設定があったとして、
・押し殺した声
・避けるような子船
・潤んだ眼
・うつむき加減の変化に乏しい顔
・落ちた肩
・緩慢な身ぶり
人は、このような一定のパタンに分けられる行動をしますよね。
趨勢とは、なりゆきのこと。物事が之からどうなっていくのか、ということが目の前に存在する人の表情や声、態度、振舞いから理解できそうな時に、「ああ、この人は悲しいんだ」と気がつきます。
当たり前と言えば当たり前なんですが、と言うことは、私たちは「感情」や「こころ」そのものを観ているのではなく、あくまでも観ているのはその「人」の通常とかけ離れた「動き」であり、そこからなんとなく、「ああ、この人はこんな感情をもっているのだな」と推測していることが、書かれています。
私たちは、人の行動から、感情を推測している。つまり、「こころ」は人の身ぶり手ぶりから、態度から、「見える」のではないか。
結論が少し、見えるような書き方を筆者はしてくれています。
-ヨハンソンのおもしろい心理学実験-
ヨハンソンら知覚心理学者たちのおもしろい実験がある。(本文より)
人の身体の関節に発色する光点をつけて、暗闇の中。つまり、人の形は全く解らない中で、実験者に観察してもらう実験をしました。
光点が静止しているときには、点のつくる無意味なパタンが知覚されるだけである。しかし、光点が動いたとたんに、光点が人の身体に付いていること、付けている人が男性か女性か、何歳ぐらいかということがきわめて容易に知覚される。(本文より)
面白いことに、止まっていると「人」だと解らないのに、動いた途端に「人」だと解る。それもかなり細かいところまで、光の点だけで判別することが私たちは可能だという、実験結果が出ました。
つまり、個性や、評論上の特徴を全て廃した情報だけでも、私たちは正確に「人」の動きを把握できるだけの観察能力がある。
この、観察者が「動き」「変化」を感じ取ることによって明らかになる、理解することが出来る不変なものを、不変項と表現されています。
例えば、足をせわしなく動かしているのならば、「焦っているのかな」「イライラしているのかな」と、予想します。
そして、それは大抵当たっています。このことを、筆者は不変項と言っているのです。
-「見る」行為がピックアップしている不変項-
「見る」というのは、このように見えるもののなかから「不変項」を「ピックアップ」することだと考えられているとすれば、この不変項は「わずかな配列の変形だけでも」感知される。(本文より)
確実に、この変化はこの感情に当てはまる。と確実に思えるものが、「不変項」です。
涙を流していて、声が震え、うつむき、人の視線を避ける。
ああ、この人は悲しいんだな、と身体や態度の変化から、間違いないと確信できるものが不変項。そして、それを様々な振る舞いや態度の中から選び出し、ピックアップすることが、「見る」という行為です。
何気なく「見て」いる光景の中から、私たちは色んなものを取捨選択して、選びだしたものを「認知」しているのです。
視界に映っていても、気付けないものや、見落としているものも沢山ありますよね。
その中でも、不変項は特徴的なものとして私たちは選びだしている。
つまり、その不変項の変化には、とても敏感になっている。反応しやすくなっている事が、挙げられます。
【今日のまとめ】
-身体の動きが脈絡を生みだす-
頭で考えるのではなく、実際の具体的な人間の身ぶりや手ぶり、態度、声、視線、その表情の些細な変化まで、「目で見える」光景が、人の感情。こころを推測させることがある。
そして、その脈絡や趨勢が、人に他者の「こころ」を推測させているのです。
-人は、人の身体の動きで様々なものを知覚している-
身体の動きは、様々な情報を私たちに与えている事を、ある心理学実験が明らかにします。
その実験を通し、人は動きがあるものに反応し、動きがある人間の動きを、優先して取ってしまう傾向があり、それが「感情」とリンクし、「こころ」が「見える」のです。
そう考えると、「こころ」には居場所も何も必要ではありません。こころがあるのは、頭でも、脳でも、胸でも心臓でもなく、私たちが動かすこの身体の表面、態度そのものに宿っていると言ってもいい。
私たちの皮膚の上に。外界との境目に、「こころ」は存在しているのです。
では、何故人は、そのような他者の身体の動きで、「こころ」を「見て」てるのか。
それはまた明日。
続きはこちら⇒こころは見える? 解説その3
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
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