声の諸相 解説その3
【前回までのまとめ】
-饒舌よりも寡黙-
語ることが上手いこと。すぱっと問い掛けられた時に、答えられることはいい事の様に思われていますが、人は質問されて初めて答を考えるものです。
だからこそ、躊躇いも何もなく答えられる時、というのは、あらかじめ答を用意している時しか有り得ない。
だからこそ、すらすらと澱みの無い語りをきくと、どうしても人は「胡散臭い」と思ってしまうのです。
言葉が下手で、つっかえながら喋る人は、どうしてもマイナスかも、と思ってしまうかもしれませんが、逆に酷く人間らしかったりします。
説明が上手い事を否定している訳ではなく、話が上手い人を否定しているわけでも有りません。
けれども、ある程度「用意されたものだな」と思うと、人は語りに「嘘」を感じてしまう。
なにも用意していない、つまり、今、この瞬間目の前に居る自分の事を考えて喋ってくれていると思えるから、つかえり、止まったり、良い淀むことのほうが、人間らしいと筆者は感じています。
-沈黙は深い感情表現方法-
更に、どんな時に人は沈黙するのか。
それは考えていることに、言葉が間に合わない時です。
確かに考えていることは沢山ある。けれども、上手く当てはまる言葉が見つからない。若しくは、これでいいのかどうかが解らない。
そんな時に、人は黙るのです。
けれども、そんな黙る時に、人は真剣に何かを探してくれています。唸ったり、一生懸命何かを思い出そうと足掻いている雰囲気は伝わります。
それは、「貴方にちゃんと伝えたいことがある」ということを伝えてくれている。何かしら、言いたいこと。伝えたいものがある。それを伝えてくれている。
だからこそ、その沈黙は、多くを語るよりも多くのことを伝えてくれる。少なくとも、気持ちは伝わってくる。
「ああ、この人は何か自分に伝える為に、いろいろ考えていてくれているのだ。だから、黙っているのだ」という、相手側の理由が伝わってくる。
ちゃんとした理由があって、黙っている。沈黙している、という事だけは、伝わってくる。それがとても人間らしくて、温かい。気持ちが、あったかくなる。
そんな人間らしい気持ちを伝える力が、沈黙にはあることを、筆者は言ってくれています。
では、続きです。
【第4段落】
-訥弁が良いとは決めつけたくない心理-
能弁は軽薄であり、訥弁がよい、ときめつけたいわけではない。(本文より)
全ての場合において、じゃあ口べたが良いし、口べたな人は信頼できるし、人間味に溢れている、と、この筆者の主張を聞いていると、思いたくなりますよね。
そうであるのならば、どれだけ楽か。
けれど、現実はそうは甘くありません。
世界的に独裁者として有名なアドルフ・ヒトラーや、ソ連邦の書記長。スターリンなど、プライベートではとても口べたで有ったということは、結構有名です。
特に、ヒトラーは女性と話すのがとても苦手で、演説の勉強を始める前は上手く喋ることができなかったとも伝わっています。(そんな人が、演説の舞台に立った途端、人が変ったように滑らかに話し出したところに、ヒトラーという人物の興味深さも含まれているのですが)
だから、全ての場面で訥弁。口下手な人が良い、という、まるで科学の方程式のように、100%大丈夫、とはいかないんだけど、と注意を入れています。
人間って、それだけ複雑、ってことですよね。
-語りたいという衝動-
口舌の滑らかさがどうのということではなく、内奥からもりもりとせりあがってくる語りたいという衝迫につづき、口の先からいままさに放たれようとするわが言葉の意外な浅さ、貧しさ、あざとさにかろうじて気付いて息を呑み、そのまま発語しそびれて、表現衝動と表現放棄(断念)のあいだの闇に宙づりになってもがき、言葉ならぬ意味不明の訥音を苦しげにもらす、数秒あるいは数分間。(本文より)
この、筆者が長々と語っている文章。
分かりやすい例示を挙げるのならば、何かに強烈に感動した時を少し思い出してください。
それがなんでも構いません。
音楽でも、絵画でも、漫画でも、自然の風景でも、味覚でも、写真でも、何かしらの言葉でも良い。
本当に感動した時、人はそれを誰かに伝えたくなります。
けれども、一言。「面白かったんだ」とか、「凄かったんだ」としか言葉が出てこない時、頭のなかで思う筈です。
「いいや、違う。そんなんじゃない。自分が感じた心の動きは、こんな言葉で表現出来るものじゃない!!」
という、もどかしさ。
これに気付いた時、人は一瞬言うのを躊躇って、でも、「言いたい、伝えたい」という衝動にも似た感覚と、言葉が見つからなくてもどかしい。「ああ、言えない、見つからない」という、表現断念との間で、行ったり来たりを繰り返してしまう。
そんな時に、数秒や数分間、黙り込んでしまったり、言い掛けて止めたり、考え込んだり、色んな事をしてしまうのです。
-言葉がひきずる影と負い目-
それこそが言葉が固有の影としてひきずる負い目にも似た知であり思想ではないのか……と、ぐずぐずおもうのである。(本文より)
物事には、限界が必ずあります。
言葉もそう。
表現の道具、とされていますが、例えば、「嬉しい」や「悲しい」や「美味しい」「楽しい」にも、段階がちゃんとある。
けれども、その段階を表せるものは、「言葉」には無いわけです。
もちろん、様々な組み合わせや、例えによって可能になっているのかもしれない。ある意味、その言葉の限界に挑戦しているのが、詩人や歌人、小説家の人々でしょう。
小説家は、決して架空の人物であるキャラクターの心情を、「嬉しい」「悲しい」「楽しい」「くやしい」という言葉で、決して表現しません。
それをしてしまうと、表現が薄っぺらく感じてしまう。深みが表現できなくなってしまうのです。
此処に、言葉の限界。影。負い目、が存在します。
人の心や思想、考えている事を伝える道具である筈なのに、限界が存在する。
深みや、重みを言葉そのものでは表現できはしない。
それらを表現するには、直接的な一単語では足りないと人間は感じてしまうのです。
だからこそ、それ以外の様々な表現方法を人は産み出した。これからも、産み出し続けていくでしょう。
その言葉の限界を知っている、と言う事が、知識であり、思想ではないか、と筆者は語っています。
その限界を超える為に、様々な方法を考える。それが、知識であり、思想とも言える、と。
だから、その伝える方法を考える時。人は、黙るしか方法が無くなってしまうのです。
-のどの奥の沸騰音が最も伝わる力を持っている-
言いたいことがある。けれども、上手く言葉が見つからない。
そんな時、息を吸った瞬間に声でも音でも無いような、唸り声か、音か、分からないようなものが喉から漏れ出します。
それをのどの奥の沸騰音、と筆者は語っている。
その時、人は「ああ、この人は自分の事を考えてくれている。伝えようとしてくれている」という、信頼感を抱く。
不思議ですよね。
「私を信頼してください」
という言葉には全く反応しないのに、むしろ胡散臭さが漂うぐらいなのに、一生懸命考えてくれている無言の時間の方が多くのことを伝えてくれる。
そう言う風に考えると、映画やドラマなどの無言のシーンが、何故心に異様に残っているのかを、振り返ることができます。
言葉は、物を伝える力に限界がある。
私たちはそれを知っているから、使い方を工夫したいと考える。それだけ、伝えたいことの方が、大きいのだと言うことです。
【まとめ】
能弁より、訥弁が全ての場合で良いわけではありません。
訥弁の人でも、とんでもないペテン師も存在しますが、けれども、言いたい衝動にかられた時、人は言葉の浅さに気づき、「確かに言葉にしたらこれだけなんだけど、でも、言いたいことはこれ以上なのに!!」という狭間で苦しむ。
その言葉の限界に向き合って、もがき苦しむ時に漏れ出る音に、私たちの心が反応するのです。
明日は、ラストの説明です。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
続きはこちら⇒声の諸相 解説その4
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