知らないと被害拡大 SNS承認欲求という魔物

SNS
creades / Pixabay

こんにちは、文LABOの松村瞳です。

SNS問題、その2です。

今はSNS全盛期。少し古くなりますが、mixiから始まり、Twitter、Facebook、そして今は、Instagram。おそらく、後数年もしないうちに新しい何かしらのサービスが始まることは目に見えています。

より簡単に、より直感的に自分が撮ったものや考えたことを形にして、世に送り出すことが出来る。クリエイティブな才能を持った人にはとてもありがたい世界ですし、それを享受する側も、無料で色んなものが楽しめるとても良い世界のように思われます。しかも、それが手のひらサイズの、何時でもどこでも持ち歩けるものでほんの数秒でアクセスできる状態です。

いつでもどこでも、自分の投稿した物を見てくれる人が存在する。誰かと繋がっている感覚が得られる。とても、素晴らしいものだと思います。

けれど。

物事には、利点だけが詰まっている、という事は殆どありません。利点が大きければ大きいほど、それだけ欠点もまた大きくなるのは世の道理です。だからこそ、欠点を知る、という事はとても大事なことになってきます。

ないよりは、あった方がうれしいですよね。実際。でも……

 

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【人間は快楽に弱い動物】

人間、というよりも動物全般に言えることですが、私たちは快楽を重視するように脳が出来あがっています。

それは、その快楽を追求した方が生き延びる可能性が高いからです。人間の脳は、そうやって進化を遂げてきました。

心地いいと感じるもの。満足感を得られるものや、幸福感だったり、温かいと感じたり、人によっては苦しみでしかない運動も、一度動き出せば適度なものならば気分をすっきりとさせてくれるし、身体を動かすことで解消される不快さは確かに存在します。

欲求、というのは、生き延びるために脳に刻み込まれたもので、それを得ようとすることは生命活動に必要な行動であることが殆どです。その欲求を満たすと、快楽が得られるようにシステムが組み込まれている。

要するに、快楽を得る行為=生き延びる行為に直結しているのですね。

【脳は超が付くほどサボり魔】

しかも、私たちの脳は全体重の比率から考えるとわずか10%~15%の重みしか存在しないのに、人間の体の中で一番カロリーを喰う、とても効率の悪い器官です。

例えて言うのならば、超燃費の悪いガソリン車を想像してもらえると解りやすいかと。

満タンにしても、1リットルで3キロぐらいしか走れない車。

ハイブリッドカーと比べると、お話しにならない距離しか走れません。

私たちの脳は、そんな状態で稼働しているから、如何に楽に快楽を得ようかと、常に省エネモードで動き続けています。省けるものは省きたい。楽したい。

そう。

脳って、物凄く、サボり魔なんです。

だから、楽に快楽が得られる状況なら、それに飛びついてしまうのが人間の愚かしいところなんですが、脳の構造から考えると、むしろそれって当り前なんですよね。

簡単に快楽が得られるのならば、それに飛びついてしまう。むしろ、如何に楽をして快楽を得られるのかを、必死になって考える。

一見、悪いように思えるかもしれませんが、私たちが科学的に進歩出来たのも、この快楽を如何に楽をして得られるか。如何に欲求を簡単に満たせるかを追求したからこそ、なんです。

【「いいね」の数は承認欲求を刺激する】

話をSNSに戻します。

これを書いている2017年現在。殆どのSNSでは、「いいね」ボタンや、他者の投稿内容を気軽に褒める機能が必ず付いています。そして、他者にそれをおすすめする、リツイートやシェアなどの拡散機能も付いています。

自分の投稿した内容が、人に喜ばれている。人から褒められている。

これは、人間の快楽に直結します。

何故なら、人が他者から褒められる、という事は現実社会の中では、どれだけ存在するでしょうか。

質問です。

あなたは、現実社会の中で、人から「それ、凄いね!」とか、「やっぱりあなたの作るものって、素敵だよね」「これ、良いじゃん!」と、直接目の前で褒められたことは、何時ですか?

多くの方が、これを訊くと、ちょっと考えるんですよね。

何時だっただろう。褒められたのって、何時だ? と恐らく首をかしげて考えるはずです。元気に、「今日先生に褒められた―!」と報告してくれるのは、小学校低学年までですよね。高校生にもなれば、褒められることなんかぐっと少なくなるのが当たり前。大学生、大人になったら、もっと頻度が低くなるのが、現状です。

そう。現実世界で人に褒められる。認められるという事は、滅多にないことだと言う事。

その滅多にない、「褒められる」という行為が、SNSの「いいね」だと、簡単に、手軽に。しかも、具体的な数字付きで、目に見える形で得られてしまうのです。

皆が夢中になるわけも、ちょっと理解できますよね。

人間は社会性のある動物。つまり、集団生活の中で活動をする存在です。兎ではないですが、寂しいと死んでしまうのは、動物だけではなく、人間も同じなのです。孤独や孤立は、寿命を確実に縮めてしまうという実験結果もあるぐらい。

これは、現代ではなく、私たちの遺伝子に刻み込まれている情報が、孤立しては生きていけない、それこそ狩猟採集民族だったころのものが刻み込まれているからだと言われています。孤立や孤独は、強烈な不安をもたらすんですね。このままだと生き抜けないぞ!と警告してくる。早く仲間の許へと急げと、緊急信号を発してくる。

けれど、実際は動かなくとも現代は生き続けられるわけです。そうすると、脳内ホルモンのバランスが崩れ、実際に過多になってしまったその不安衝動が、行き所がなくて自分の身体を攻撃するものに変化してしまう事が解っています。

だからこそ、孤独を私たちは強烈に恐れますし、なんとかして他者に認められたいと考えてしまう。

しかし、現実世界では褒められることは本当に少ないです。当たり前ですよね。何かしらの成果を出さなければ、称賛は得られない。その結果や成果を出すには、それなりの積み上げが必要となります。栄光の陰には、必ず努力が必要になってくるのは、自明の理です。

なかなか得られない、他者からの承認。認められたい。褒められたい。別段、悪い気持ちではありません。人間だったら、当たり前のように抱くものです。上手く使えば、モチベーションにも繋がる、大事な気持ちです。けれど、この「承認欲求」というものに振り回されるようになると、悲劇が待っています。

【承認欲求は決して満たされない欲求】

この承認欲求は、心の中の化けものだと思ってください。

小説読解の「山月記」でも紹介した、「心の中に棲む猛獣」です。小説読解 中島敦「山月記」解説 その3~人の心に棲む獣の正体~

人の欲求というものは、肥大していくものです。一つクリアすれば、その次へ。それがクリアできれば、また次へと、進んでいく。この探求精神や欲求が私たちを前へ進ませ、進化させる原動力でもあるのですが、扱い方を誤ってしまうととんでもないことになってしまいます。

本来、この承認、という物は明らかに物理的に数字化されるようなものではなかったはずです。

自分の努力を解ってくれる、身近な人の励ましだったり、広く認められずとも、自分の姿を見守ってくれている、大事な人の一言。これは対人関係のコミニュケーションにも関わってくることですが、自分にとってとても大事な人からの信頼できる言葉は、自信を与えてくれます。この自信が精神の安定を生み、余裕を持たせ、本当に自分が進みたい方向へと意識を向けさせてくれるのですが、それは誰かと比べるような物では、本来なかったはずなのです。

それを解りやすく、誰の目にも明らかな数字化を行った。「見える化」をしてしまったことにより、簡単に他者と比較できるようになってしまった。

ここに、競争心理が産まれます。

人よりも、友達よりも皆に認められたい。いいねが欲しい。よりもっと、褒められたい。

数が見えるようになってしまったことで、より多くの称賛を。より、沢山。あの子よりも多く。あいつよりも、上へ……

きりがないです。

更に、ここで脳が余計なことをするんですね。

そう。省エネです。

手っ取り早く、楽に褒められないかなと。楽に、快楽を得られないかなと常にサボるポイントを脳は探しているので、この得難い承認欲求を満たせる場所を見つけたら、何度もそこに行かせようとします。

数の比較×承認欲求=SNSへどっぷりはまっていく、という恐ろしい方程式が成立してしまうのです。

【人に振り回される時間】

本来、SNSは、他者との気軽なコミュニケーションツールであり、自分の好きなものを同じように好きな相手と繋がろう。距離を飛び越えて、好きなものを共有しよう、というものであったはず。

けれど、この「いいね」の数を稼ぐために、他人の注目がどこに注がれているのか。誰が「いいね」を稼いでいるのかを、常に気にするようになっていきます。

人は、自分が誰かの写真や言葉に「いいね」を押す時は気軽に行っているはずなのに、自分がそれをもらう時は、まるでそれだけ人に称賛されているように感じてしまう生き物。

「いいね」ボタンは、するのとされるのでは、全く意味の重さが違う受け取り方をしてしまうものです。

そうして、人からの評価を常に気にし、どういった投稿が皆に喜ばれるのか。そればかりを気にするようになってしまい、皆に気に入られるように。他者に喜ばれるようにと、発言や投稿が変わっていきます。

行為と言うのは、自分が気が付かないうちにエスカレートしてしまうもの。

そうやって他者の目を気にして、「いいね」を稼ぐために投稿を続けていくと、本来の自分が何を好きで、何を発信したかったのかも、解らなくなっていきます。もしそれが人に評価されないものであった時、「いいね」が稼げなかった時。

あなただったら、どうしますか?

人から認められずとも、好きなものを続けていきますか?

それとも、簡単に認められる、皆が良いと言っているものに、迎合していきますか?

【他者に支配されていく】

テレビなどのマスメディアも、SNSを意識した番組作りになっています。ありとあらゆる場所が、SNSで投稿され、拡散されることを意識して店づくりや商品を作っているような風潮すらある現在。

皆が褒めてくれるから。これが人気だからと必死にそれに時間を費やすことは、ある意味、自分の感覚が他者に支配されていくことと何ら変わりがありません。

これが受けているから。

今、これが流行りだから。きっと写真を撮って投稿したら「いいね」が貰えるから。

そうやり続けて行って、出来あがるのは、自分の意志ではなく、常に他者の視線を意識し、振り回され続け、皆が良いというものを無条件に信じてしまう。評価されているものを受け手入れてしまう脳の、出来上がりです。

【自分の頭で考えられない人間に】

本来、文章を読み、それを読解し、考える、という行為は、人の意見を冷静に分析し、それが正しいかどうか。論理が通っているかどうかを、考え、熟考する行為です。

「誰かが良いと言っていたから」「テレビでこれが人気だと言っていたから」「SNSで人気だったから」

先ほど述べたとおり、脳はサボり魔です。自分で確認することを面倒だと、厭う傾向があります。

けれど、学習。勉強、何かを学ぶ、という行為。知識と言うものは、他者の評価ではなく、「自分自身でそれを分析、判断する力を持つ」ことが目的です。

これは本当に正しいことなのか。間違いではないのか。自分の感覚は、正常なのか。相手の意見の論理性はどこにあるのか。

それら分析する力を身につけるために、先人たちの知恵を借りるのが、勉強です。

他者の称賛を請い、それを得るために人気の物に群がる行為は、ある意味では自分の知識や感覚、判断力を麻痺させていることと同義です。

人が何をどう言おうとも、自分はこれが好きだと感じる。誰の称賛を得られずとも、これをしていることがただひたすらに好き。

本来、人から称賛を得られる人と言うのは、他人ではなく、己の感覚を信じ、その直感や知性を磨きあげた人です。周囲が正しいと言っていることに安易に迎合するのではなく、一旦それに耳を傾けても、自分の意見や論理、直感の方が正しいかどうかを常に吟味し、確かめ、人と違う事に不安を覚えるではなく、むしろ己の感覚を信じ切った人間が、大成します。

【勉強は孤独なもの】

勉強は、己との対話の時間です。常に、一人。教えられる時は、皆と一緒に受けることが出来ますが、それを身につける行為は一人で孤独に行うものです。

だからこそ、その孤独に負けそうな時。

安易に承認を得られるSNSよりも、身近な人にその不安を話してみてはどうでしょうか?

デジタル上の数でしか表わせないものよりも、身近な自分のことを解ってくれる人が数人いれば、案外大丈夫なものです。そして、その不安と向き合い、乗り越えた先にはきっと「いいね」の数では得られないものが、あなたを待っているはずです。

「いいね」が沢山もらえたんだと、喜んでいる人がいて、その自慢にちょっとイラっ、としたのならば、一言こう言い返してやりましょう。

「それ、受験(試験・成績・成果・仕事)に、何か役に立つの?」

って。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

明日は、具体的にどれぐらい使うと成績が下がっていくのか。具体的な数値を説明します。

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