今回から、哲学者、鷲田清一さんの「こころは見える?」の解説をしていきます。
掲載されている教科書は、大修館書店の現代文B下巻。
【問題提起から始まる評論文】
-こころは見えるのか?-
この評論文の面白いところは、「こころは見えるのか?」というタイトルそのままの質問から始まっている事です。
鷲田さんの文章の特徴とも言えるのですが、とても平易なことばで、哲学者が書く文章としては平がながおおく、とても優しい文章で書いていてくれます。
けれど、そこは評論文。やっぱり、難解な部分や難しい表現は随所に有ります。
-優しい文章ほど、落とし穴がある-
優しい文章=理解しやすい、と思いがちですが、実は、実際は逆です。
大概試験に出てくるような文章は、平易な部分。分かりやすい部分と、いきなり分からない難解な部分のセットになることが多く、また、簡単に読むことが出来るので、実際は分かっていないものも、なんとなく分かっていると勘違いをしてしまう傾向が強いことも、挙げられます。
簡単な文章ほど、読解は慎重に。丁寧に確認する姿勢が必要となってきます。
-問題提起にどう答えればいいかを探っていく文章-
この「こころは目に見えるものなのか?」という、誰もが明確な答など持たなさそうな分野に、筆者。鷲田さんは、誰もが分かりやすい形や、心理学の実験結果を利用して、明確な説明を付随していきます。
さて、こころ見えるのでしょうか? 見えるのならば、そればどんな形をして、どんな場所に存在し、どんな時に表に出て見える形となっていくのか。
それを本文から探っていきましょう。
【第1~4段落】
-筆者からの問いかけ-
「こころがあると思うか。」と問われて、「ない。」と断言するひとはおそらくはいない。では、「こころを見たことがあるか。」と問われたらどうだろうか。「見た。」と言い切るひともおそらくはいないだろう。(本文より)
冒頭のポイントです。
・こころは必ずある。存在する。
・けれど、こころを見た人はいない。
この、相反する二つの状態が同時に成り立っているのが、「こころ」という私たち全員が知っていて、持っているものです。
その存在は確かで、全ての人間があると思っているけれど、誰も、こころの形や姿を見たことは無い。
存在は皆が知っているし、確実にあると断言するのに、その形を観たことがないもの。
「こころ」の他に例示を挙げるのならば、「神」や「精霊」「お化け」等の神秘系から、「運」などの偶然が関わってくるものまで、結構ありますが、それでも訊いた全員が「ある」と断言するもので、観たことのないものは、個人個人の価値観によって揺らぐはずなのに、不思議と「こころ」は誰もが確実にあると思っているところが、不思議なのです。
-答は誰に訊いても同じであることの不思議-
けれども奇妙なことである。一度も見たことがないのに、そして各人が「そこにある」と思う場所はまちまちなのに、それでもみながひとしく「こころはある」と考えるのはどうしたわけだろう?(本文より)
「こころ」が存在するものとして考えると、一体どこに有るのかと、考えてしまいますよね。
胸に有るのか、それとも、脳に存在しているのか。
今は脳科学の研究が進んでいるので、私たちの精神をつかさどっているのは脳だと分かりますが、ことばの中には胸、胸から喉にかけて、心臓、なんて意見も有ります。
頭に有るのか、胸にあるのか。「こころ」が形があって、具体的に見えるものだったら、当然置き場所が存在するはずです。
けれど、その置き場所は人によってバラバラ。
なのに、私たちはゆるぎなく、「こころある!!」と断言している。
見えない。有る場所も、人によって違う。こころが存在している場所ですら、様々な意見がある中で、どうして誰もその存在を疑わないのか。
-こころは見えると、まず仮定して考えてみる-
見えないという前提を外して、こころは見えるのだ、見えないと言うひとにもほんとうは見えているのだ、と考えてみたらどうなるだろうか。(本文より)
哲学者の意見として、「見えない」という一般論をまず、疑います。
「見えたらどうなるんだろう」と、まず仮定してみる。
学者の凄いところは、この「前提を疑ってみる」「反対を考えてみる」という思考実験を試す事です。
人は、当たり前のことほど疑問を抱きません。誰も、こころが見えるなんて、考えたこともない。その考えたこともないことを考えてみるのが、学者です。
そして、見えるとするのならば、どうやって見えるのか。
実体は有るのか、無いのか。
有るのならば、どこに片付けてあるのか。量は、大きさは、種類は……と、どんどん考えていきます。
-実体あるものが外部への<表出>しているのか-
もしこころというものが存在するのだとしたら、そのさまざまな具体的様態として考えることができる。が、こころとは、「悲しみ」や「怒り」、「迷い」や「焦り」、「浮つき」や「鬱ぎ」などを具体的な様態としてもつ<実体>なのだろうか。(本文より)
様態とは、あり様のこと。
具体的なあり方を、一つ一つしているのだろうか。
例えば、「悲しみ」はびりびりに破れが入っている形なのか。「怒り」はとげとげしい形? 「迷い」はもやっとした雲みたいな。「焦り」は、汗が沢山ついていそう。そんな、具体的な形や有り方をひとつひとつの「こころ」が持っていたとして、それは胸の中のどこにしまっあるのでしょうか。
「悲しみ」のこころの形は、心臓の横に? 「迷い」は胃の近く辺りとか、肋骨の裏あたりにいるのかなと、「そんなのないに決まっているじゃないか!!」と否定せずに、考えてみる。
それも、出来る限り具体的に。
そうやって考える過程で、新しい意見や、新しい物事の捉え方のヒントがひそんでいるのです。だから、学者は、明確な知識にたどり着くまでは、その前に膨大に結果的に無駄になることを考えているんですね。
-経験と思考の違い-
ここには思考のあまりにも執拗な枠組みが、経験を一つ一つ反芻する前にそこに過剰に差し込まれているように思われる。実体と様態。存在と表出、内部と外部といった枠組みが。(本文より)
うだくだと、頭で考える、思考していると、
実体と様態。つまり、実体があるのならば、それはどんな形をしているのか。
存在と表出。つまり、身体の中のどこかに「こころ」が存在しているのならば、いつ、どの瞬間に外に出てくるのか。表に現れてくるのか。
内部と外部。つまり、実体がある「こころ」は、身体の内部に有る時を、「存在する」と言って良いのか。それとも、身体の外部に現れている時を「存在している」とすればいいのか。
これ……読んでて、嫌になりませんか?
そうやって、「頭で考えている」と、実際に人はどんな時に悲しみや怒りを感じるのかなという、「具体例」の検証が無くなってしまう。
これって、人文系の研究者たちに対する、強烈な皮肉に聞こえてしまうのは、私だけでしょうか。筆者・鷲田さんが人文系の哲学の学者で有るからこそ、実証や、具体例の検証。実験をせずに、机から動かず、悶々と頭の中だけで「考え」てしまい、経験の検証。つまり、実験や経験の分析をしない。直接具体的に「こころ」がどんな時に私たちは「見える」のかを調べずに、まず頭で考えてしまう。
そんな癖が、私たちにはある。
けれど、そうやって考えても、堂々巡りで、解答など得られません。答は、明確で有るべきものです。
けれど、思考をしてしまうと、とにかく色んな枠組みが入ってきて、ごちゃごちゃになる。
だから、具体的な事例でまず、考えよう。
どんな時に、私たちはこころを「見て」いるのか、ということを、実例。実験結果で、観て行こう。
と言う風に、論は進んでいきます。
【今日のまとめ】
-答が当然決まっているものにも、敢えて逆を考える-
学者にとってこれはとても大切な視点であり、更に言うのならば、私たちの生活の中にもこの視点は、使えます。
当然だ!! と思うと、人は何も考えようとしなくなる。
だからこそ、何も考えてないものほど、敢えて考えてみる。皆が当然だと思っているものを、もしかして違うのではないかと、逆を試してみる。
それが柔軟な思考や、新しい発想をもたらすから、今回もそれを筆者は行っています。
「こころ」はあるけど、見えないもの。
という常識を、「もしかして、見えているのでは?」と敢えて考えてみる。
-逆説を常に自分に問いかけるのが哲学者-
哲学は、全ての学問の基礎です。
そして、哲学って意外に簡単で、自分が当然だと思い込んでいる事に気付き、もしかして自分達はそうやって思い込みたいから疑問を抱かないだけで、実際は違うのではないかと、敢えて皆と逆を考え、確かめ、分析し、検証する。
「こころは見える」と前提し、実体があるものとするのならば、一体どこに私たちはそれをしまっているのか。なら、こころは質量があるのかどうか。様態は、表出は……と、どんどん疑問は沸いてきますが、私たちはぐたぐた考えがちで、実際の実例を検証しないよね。
だから、具体例を考えてみよう。
「こころ」が目に見えるような実験って、あるのかな? と続いていくわけです。
さて、「こころ」はどんな時に「目で見える」のでしょうか。
続きはまた明日。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
続きはこちら⇒こころは見える? 解説その2
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