物語るという欲望 解説その5
(解説 その1 その2 その3 その4)
【前回までのまとめ】
-脈絡のない部分が私たちの脈絡づけたい欲望に火を付ける-
映画やドラマを見ていると、
「あれ? これってどういうこと?」
「あの人があやしいんじゃ・・」
「犯人は絶対にあの人よ」
「犯人じゃないよ、絶対に!!」
という、話題で盛り上がる事ってありませんか?
大概それは話の本筋に関係ない部分だったり、とても細かい描写だったりすることが殆どなのですが、その一見「意味がない」「関係ない」と思える部分があると、私たちは俄然その物語に、のめり込んでいきます。
それは人間の性質にも関わってくるのですが、受動で物事を見ている時よりも、実際に行動して楽しんでいる。つまり、参加している時の方がとてつもなく楽しいのです。
外れている、間違った、という状態であったとしても、それは自分の脳内で行っている事だし、テストではないんだから間違ったとしても、それはそれで面白い。予想が外れたしてやられた感、敗北感にも似た爽快感は、物語を楽しんでいればいるほど、とても強いものになります。
その物語にのめり込む切っ掛けになってくれるのが、「脈絡のない」部分。「意味のない」部分です。
-自発的に解釈し続ける姿勢が観客を物語に惹き込んでいく-
では、どうして自発的に解釈しようという姿勢が、私たちを物語に惹き込んでいくのか。
それは、自発的に物語の謎の部分や、先の展開を知りたいと思った時、人は自分の意志で考えます。
その
「自分の意志で」
「誰にも強制されたものではなく」
「好きだから」
やること、というのは、物凄く力を持っていて、主人公が悩み苦しむことを同じ様に悩み、解決策はないのか。誰かが邪魔をしているのでは。どんな結末を迎えるのかと考えることが、最高の楽しみとなっていくんです。
しかも、この楽しみ。
間違い、というものが基本的に存在しません。
いや、間違っていもいいということが、確保されている。
だって、物語の先の展開が外れても、誰も文句なんか言いません。むしろ作者の展開の素晴らしさに感嘆するだけであり、当たったら当たったで、もっと当てたいと読み込むだけです。どっちに転んでも、自主的に謎を考える。解釈をしようと言う姿勢が、物語の世界にのめり込ませる。
それには、「意味のないもの」が必ず必要になってくるのです。
では、まとめの部分です。
続きを読んでいきましょう。
【第21~29段落】
-「断絶」が推論を産む-
私たちがある出来事について「この原因は何だろう?」というふうに推論するときには、つねにそこには論理の「断絶」があります。(本文より)
論理とは、つじつまが合っている事のこと。
つまり、矛盾が無い状態です。
その時には、何一つ疑問にも思わないし、そもそも「原因」を考えようなどとは思いません。
辻褄が合わない。「断絶」があるから、それを無理矢理くっつけようと、考え始めるのです。
-分からない事が「論理の飛躍」や「あやうい推論」を導く-
因果関係ということばを使うと、まるで原因と結果はあらかじめ宿命的に結びつけられているかのように思われますが、実は、「原因は何だろう?」という問いには、原因が何だか分からないときのみ発せられるのであり、したがって、そのあとなされる因果関係の説明はどこかに論理の飛躍や、足元のあやうい推論を含んでいるのです。(本文より)
これは、とても面白い展開ですよね。
私たちは全ての出来事に「因果関係」がある、と思い込んでしまっている。
その中には偶然だってあるし、たまたまのめぐり合わせだったり、根拠がないこともあったりするわけです。
けれど、その偶然の出来事にも、私たちは因果関係を求めてしまう。
「運が悪かったんだ」とか
「私って、雨女だから」とか
「どうせ自分がやっても、能力が無いんだから」とか
「所詮頑張ったって無意味なんだ」とか
そんなことを考えてしまう時って、本来「ない」ものの所に、無理矢理論理を「ある」と結びつけているわけだから、論理がとんでもなく飛躍していたり、足元がぐらついてしまうような推論になってしまったりするわけです。
(占いとかが流行るのも、これが基本的な原因とも言えます。「未来」が分からないから、原因を決めたくて、飛躍した論理(今年は運気が悪い、など)をしてしまったりする。娯楽としては、大好きですけどね、占い(笑))
多くの場合、その推論は私たちを「わけのわからない方向」に導いてゆくことになります。(本文より)
このわけのわからない方向、とは、飛躍した論理や、あやうい推論、と言うことになります。
自分が出掛ける時に、天気予報に無い土砂降りが襲ってきた、となると、「ああ、自分は呪われてるんだ……」とか、思っちゃう、ということ。
呪われて大雨なら、干ばつの水不足で苦しんでいたら、その人は呪われているどころか、天使ですよね。
論理が飛躍するって、そう言うことです(笑)
-脈絡をつけたいときは、「脈絡がない」とき-
平たく言ってしまえば、「論理的に思考する」というのは、要するに離れている二つの出来事のあいだに「脈絡をつける」ということです。そして、「脈絡をつける」ことが要請されるというのは、その二つの出来事のあいだにはとりあえず「脈絡がない」ということを意味しています。(本文より)
「脈絡がない」「論理的に繋がっていない」からこそ、人は無理やりにでもつなげようとする。
関係ないものまでもを、自分の違和感を解消したいがために、「脈絡をつける」ことを通して、論理的なつながりをその二つの出来事のあいだに創ろうとする。
勝手に、自主的に。
だからこそ、解釈って人によっては全く違っていて、気になる所も全然違っていたりするのが当たり前。
それに対する論理的な思考も、明確な原因と結果が分からない時に、私たちは初めて考え出すのです。
-「何もない」ことが、私たちの想像をかきたてる-
この、「原因」と「結果」が繋がらない事。
結果だけ見えていて、「原因」が思いつかない時に、人は極端な論理展開をし始めます。
この、論理の飛躍や、極端な思考展開は、「何もない」状態で、根拠が見えないからこそ可能になるのです。
根拠があったら、そっちに流れますけど、「何もない」ところを繋げるために、解釈を私たちはします。
論理的架橋。つまり、繋がっていない場所を繋げるために思考することを、「解釈」と私たちは呼んでいるのです。
この「何もないところには、何もないる」という事実から物語は発動します。(本文より)
何もないからこそ、物語りたくなる。
根拠など必要ない。むしろ、根拠がないからこそ、人は物語をしたくなる。
火のないところに煙は立たない、と言いますが、むしろ人間は「火の気なんか全くない」からこそ、「煙を無理やりにでも創りだす」のです。
本当に火がついていたら、煙なんか創りだす必要なんかないですものね。
無いから、創る。
人間が論理展開をする時の、基本かもしれません。
-何かがうまくいかない時に、人は物語る-
何か原因が「あって」、物語は動き出すのではありません。何かがうまくゆかないとき、何かが「ない」ときにだけ、物語は語られ始めるのです。(本文より)
「原因」があって、「結果的」に物語が動き始めるのではなく、「結果的」に何かの現象や事実があって、その「原因」を探るために、物語が動き出す。
ミステリーや謎ときの部分が、どうしても物語には必要だという、証拠のような部分です。
何かが上手くいかないとき。何かしらの、問題が発生してしまう時に、「どうして?」「何でこうなるんだ?」と疑問が沸いてくる。
その時に、人は全く関係が無いものであってもくっつけて、つなげて、自分に納得がいく理由を探そうとしてしまう。
そのことを、筆者は「物語る」という言葉で、まとめています。
【今日のまとめ】
-文章を読むために大事なこと-
評論文でも小説でもそうなのですが、必ずその文章が具体的に何を指し示しているのか。更には、筆者はこの先、展開をどうしていくつもりなのかを、考えろと指導します。
なぜか。
その展開の予想が外れても、全く無関係でも構いません。
大事なのは、「先がどうなるのかを、予想する」「訳の分からない事が書いてあったとしても、自分の実生活の何かの現象と繋げてみる」という行動を通す事によって、格段に読解力が跳ね上がるからです。
それは、受身的な読書では決して手に入らない、能動的な文の理解を促す事になります。
物事を理解しよう、と思ったら、自分でその話や話題の中に参加していくことが必須なのです。
何故ならば、その「物語る」という欲望が、私たちの論理的思考力を高め、物事に没頭する自発的な切っ掛けを与えてくれるのですから。
明日はまとめです。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
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