ファンタジー・ワールドの誕生 解説その2


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「ファンタジー・ワールドの誕生」解説 その2

このタイトルの意味も、皮肉がきいています。ファンタジーって、作り物の世界の事。それが誕生した、と言う事は、誰かが作り上げた世界が出来たよ~ってことです。

このお話のなかでのファンタジー・ワールドは、恐らくセピック川周辺の領域の事です。けれど、そこに生きている人々にとって、そこはリアルな現実の世界。

では、「誰にとっての」ファンタジー・ワールドなのか。続きを読んでいきましょう。

【第3段落 その1】

-社会的断絶-

さて、此処から本題にはいっていくので、細かくいきます。

評論での最大の難点は、解らないままに先に読み進んでしまうことにあります。適当に、解らなくとも取り合えず音にすることは出来るので、つらっと読み進めてしまい、結局後になにも残らない。なーんとなーく解った気にはなるんだけど、「で、何書いてあんの?」な状態になってしまうことが多い。

それを回避するためには、面倒だろうが厄介だろうが、ちょっとずつ読み進めるのが一番です。ここはちょっと我慢して、丁寧に読みましょう。解らないことがあったら、遠慮なくコメントで質問してください。

この写真撮影という行動のなかには、現地人と西欧人とのあいだに横たわるさまざまな社会的断絶を象徴するいくつかの構図が見事に示されている。(本文より)

はい、出てきましたね。「社会的断絶」

評論文にはこうした、複合語。造語に近い、掛け合わせの様な言葉が多用されている時があります。筆者のオリジナルな言葉使いだと思ってしまえば良い。

要するに、熟語の意味の足し算です。

社会的、って何なのか。

ポイントになるのが、「的」という漢字です。

辞書を引っ張ると、

「社会=人間の営む集団活動、生活の事」
「社会的=社会に関するさま、社会性がある様」

とあります。

と言う事は、社会的断絶、とは、人間が営む集団的な生活に関わる、様々な事柄に、共通項がなく、断絶している。途絶えている。全く共通性が見られない、ということを意味します。

西欧人と現地人は、同じ人間である筈なのに、集団生活に関わる様々な情報は、一切共通項がない。同じ存在と思えないぐらい、断ち切られた別個の存在である、と言っています。

それを象徴しているのが、写真撮影という行動に表れていると。

いくつかの構図が見事に描き出されている、と筆者は書いていますが、その一つ目が、スナップ写真が無色透明なアイテムになってしまう、という興味深い記述があります。

-無色透明のアイテム化-

その一つは、写真のフレームによって切り取られたこの土地の風景や人々が、その時点で、周囲のいかなる社会的・文化的・政治的コンテクストからも切り離されてしまうという事実だ。(本文より)

写真を撮る、と言う事は当たり前の様に思われるかもしれませんが、けれど、撮り方によって、撮りたいものと要らないものを無意識に意識している事は無いでしょうか?

インスタ文化が全盛期な昨今ですが、日常的に写真を撮る時も、背景に何か邪魔なものが映っていたら、それをどけようとしますよね。そして、自分が見せたいものだけを、見せたいように撮る。

この撮る行為を、筆者は「切り取る」と表現しています。

観光客は現地人の立ち姿が写真として欲しいだけであって、彼らが背景として持っているその風景や、土地の様子、人々なども、取捨選択して、自分の撮りたいように撮っている。

そのことで、自分の手に入れたい情報だけを写真に焼き付け、それ以外の邪魔な要素は削ぎ落すという行動は、現地人が抱えている社会的な背景、文化的なものや、政治的な状況は、全く関係なく切り取られてしまう、と言うのです。

言葉を選ばずに解説すれば、要するに現地人がどのような生活をしていようと、観光客は関係が無いのです。

今、この瞬間に現地人の姿を写真に収めることさえ出来れば良い。それさえ撮ることが出来たら、彼がその日の夜に疫病や戦乱て死んでしまったとしても、それで良いのです。と言うよりも、意識のなかにそれらは入らない。

だつて、社会的・文化的・政治的コンテクスト(状況)を切り落とすのですから、どんな背景を持っていようと、どれだけ苦しんでいようと、全く気にしないのです。




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観光客には、それで良い。現地人の写真が取れれば、それで良いのです。

インスタで可愛い写真が撮れるからと、評判になっているお店に押しかけて、大量に食べ物を注文して並べて写真を撮り、食べもせずに満足して帰る人達の頭の中には、その料理を作るまでにされたであろう、従業員さん達の苦労は、全く関係が無いのです。片付ける人がどれだけ空しい気分になるのかとか、自分達の後ろにどれだけ人が並んでいるか、ということも含めて、全く意識のなかに入っていない。

周囲の状況から切り取る。切り離される、とは、そういうこと。

意識のなかに、彼らの状況や状態は一切考えられて無いということを、言っています。かなり強い表現ですよね。

脱文脈化されたスナップ写真は、したがっていともたやすく撮影者である観光客自身の固有の「物語」のなかに組み込まれていくための無色透明なアイテムへと変貌することになる。(本文より)

背景を切り落とす、ということはどんな事を意味するのか。それは、相手の状況や環境などを全く加味せず、考えず、「ねーねー、これ、この前旅行で撮ってきたんだ!! 凄いでしょう!!」という、観光客の思い出話のなかに組み込まれる、一つの素材=無色透明なアイテムになってしまう、ということです。

もちろん、写真を撮ることによって、状況や環境を伝えることを目的とした写真も、存在します。戦争報道の写真などが、特にそうですよね。それは社会的・文化的・政治的コンテクストを切り落としてなどいません。寧ろ、それを感じて欲しい。考えて欲しいと、写真に状況や環境を説明付けしているものも沢山あります。(高校生で、英語の教科書がCROWNの人は、ⅠのLesson8-Not So Long Agoを読むと、それが理解出来るかと)

けれど、この筆者は、「食人族ツアー」に参加している西欧人からは、そんな態度や雰囲気は一切感じられなかった。一種の、旅のアクセサリーのように、写真を撮っていたことを、皮肉交じりに書いています。

【第3段落 その2】

筆者の指摘はそこで終わりません。

これだけならば、ただの西欧批判で終わっているのですが、もうひとつ。筆者は面白いことを指摘しています。

-防御のための手段-

それは、カメラで写真を撮る行為そのものが、観光客が自分自身を守るための防御的な行動だ、というのです。

しかしもう一つのより重要な点は、写真機という道具自体が、ここでは一種の防御のための手段として利用されていることである。(本文より)

カメラが防御?? はっ? って成りますよね。意味解りません。

けれど、冷静に考えてみてください。防御って事は、何かを守っていることになる。ヘルメットって頭を守るための道具ですよね。なら、カメラで守れるのは、身体の何処の部分でしょうか?

そう、目です。

土地のあらゆる文化的コードから孤立した観光客たちは、その孤独で居心地の悪い状況がひきおこす原住民との直接的な身体的接触への恐怖を、たくみに写真機のレンズの背後に隠れることによって回避する。(本文より)

目を、見るものから守る。

変な言い方なのかもしれませんが、カメラのファインダーで目を守ることによって、全身を。そして、意識。思考を守ることにも繋がります。

それぐらい、観光客たちは怖い思いをしている。恐怖を抱いているのです。

何故? と思う前に、ちょっと考えてみてください。

自分が、急に全然知らない土地に引っ越しをして、転校することになり、その学校に初登校する日。

出来れば、環境は今住んでいる環境とは似ても似つかない場所の方がいいです。

田舎に住んでいるなら、東京のど真ん中の私立高とか。
逆に都会の高校に通っているなら、山の中の限界集落とか。
北海道なら、沖縄みたいな場所。
雪国なら、雪が全く降らない太平洋側。

なんていう風に、全然環境が知らない場所。それこそ、文化も違うのならば、英語も喋れないのに、アメリカの高校に転校で放り出された状況とかを、考えてみる。

まぁ、怖いですよね。普通。

右も左も解らないところに放り出されたら、人間どうしたって緊張するものです。

この観光客達もそうだった。全く知らない、自分達が知りもしない文化的背景を持っているジャングルのど真ん中。現地人には解る色んな事が、観光客には解りません。自分の知識や、今まで積み上げてきた経験。直感が、全くと言っていいほど、働かないのです。

孤立はやはり、不安です。でも、その不安から自分の身体を守る様に、カメラを構える。直接、自分の身体。目で直接見、手で触れるのではなく、全てカメラというひとつのクッション越しに見る。

そうすることで、無意識に自分達を守っているのはではないか。

そんな風に、筆者は捉えているのです。

-不安から逃れての「凝視」を可能にするカメラ-

すなわち、写真機は、彼らがセピック川のジャングルに立ち現れるあらゆる光景をなんの当惑も畏れもなく「凝視」するために、まさに必要不可欠な視覚的防衛の道具になっているのである。(本文より)

「食人族ツアー」の映像をおさめた「カンニバル・ツアーズ」を私は直接見たことが無いので何とも言えないのですが、この筆者の表記から類推するのならば、それだけ、観光客達の態度が異質だったのでしょう。

あれだけはしゃぎ、明るく、目を輝かせていたのに、その場に来たら直接現地人を見ることも無く、また近寄りもしない。皆、遠巻きに眺め、そして、カメラを構えて必死に写真を撮っている。

その行為が、無色透明の、自分の思い出の道具作りのための行為、とも受け取れるのですが、それにしたって態度がおかしい。

ここでは書かれていませんが、もしかしたら怯えるような態度や、現地人を避けるような動きがその映像には映っていたのかもしれません。

人は、思考や考えが無意識に態度や行動に出ます。身体の距離は心の距離と同義語です。

それらが垣間見える瞬間があった。そして、その不安を取り払う様に、カメラを構える姿が多く見えた。

もしかして、写真を撮りたいのではなく、カメラを通してしかピントを合わせて見られないのかもしれない。

それ位、自分の背負っている文化的な背景とは全く別の所に移動し、存在するということは、人間にとって居心地の悪い事であり、ストレスなのだと言う事も、暗に示しています。

けれど、そのストレスを感じさせなくする道具が、カメラなのだと。

もしかすると、自分が首から下げているカメラを触っていることによって、先進国の文化。技術の象徴を確かめ、自分達の文化的背景を確認することによって、安堵や安心を得ている行為、とも受け取れます。

ジャングルにカメラは、流石に異質で、現地の文化では無く、西欧の文化圏のものですからね。

カメラが、そんな安心を得る道具であり、自分を守る防御のための道具であった。そうなっていた、と観光客の行為を指摘しています。

観光客達が常に続けている行動の、一つ目。写真を撮る事の分析が終わりました。(参照⇒ファンタジー・ワールドの誕生 解説その1)

では、もう一つの行動は何でしょうか。

それは、また明日。

ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。

続きはこちら

ファンタジー・ワールドの誕生 解説その3

 


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