ネットが崩す公私の境 解説その1

ネットが崩す公私の境

今回から、黒崎政男さん著の「ネットが崩す公私の境」を解説として取り上げます。

そろそろ、中間テストの時期。準備で大変だと思いますが、「知の体力」でも解説したように、テストで点を取るためではなく、理解するために時間を割いてみてください。

全く理解できない。どうしてもできないのだったら、あなたの能力が劣っているのではなく、やり方がまずいのだと言うこと。違う方法を試してみるべきなのだということを、考えてください。(参照⇒数学のススメ ~数学偏差値学年最下位だった私が、高等数学をやり直したわけ その1~)

では、本文解説です。

「神は死んだ」と書いた、ドイツの哲学者ニーチェ

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【高校生が大っ嫌いな哲学論】

-哲学とは-

この「哲学」「哲学論」

センター試験にも度々出題され、今回の評論で取り上げられるニーチェを代表とし、その他にはカント、ヘーゲル、ベンサム、マルクス、ヤスパース、ハイデッカー、サルトル、ユング、マックス=ウェーバー、古代に目を向ければ、ソクラテス、プラトン、アリストテレス…………etcetc

例を挙げればきりがないのですが(それぐらい多い!!)、こんなに覚えられないよっ!!と高校生が悲鳴を挙げるのはとっても理解ができます。

でも、実はちゃんと理解をすれば、一つ一つの論理は非常に簡潔ですっきりしている。むしろ知った後のほうが、楽になる。

要するに、人間が常にやっている「考える事」を徹底的にやった人たち、のことです。

「今、自分たちが当然だと思って疑問にも思っていないことって、本当に『当然』なのか? だったら、その『当然』はいつから生まれたのか。なら、その『当然』はいつ消えるんだろうか。」

そんなことを延々と考えた。

その軌跡なんですね。哲学書って。

すごーくスモールダウンして考えると、学校の校則って、当然のように皆受け止めているけれど、もともとなんで「校則」なんてものができたのか。

「制服」って何のためにあるのか。
「テスト」ってどうして出来たのか。
作った人は、どんな意図があって作ったのか。

ということを、考えたことってありませんか?

「なんで校則守んなきゃいけないんだよーっっ!!」って、一度は考えたことがありますよね。哲学者たちは、そこで文句や愚痴を言うだけでなく、「これ、作った人は何を考えてこんな決まりを作ったんだろう。それを守らせることで、何を達成したいんだろう」ってことを、考える。

それだけのことです。

-哲学者の意見を用いた評論-

この、所謂「考えること」を徹底的にそれこそ人生を掛けて「考えた」哲学者たちの意見は、良く評論文に引用されます。

その場合、引用のしようの仕方は、大きく二つに分かれます。

ひとつは、哲学者の意見・未来予知を現在の社会に照らし合わせて、当たっているとする使い方。
もう一つは、その意見のほころびを見つけ、欠点を指摘し、踏み台にして自分の意見を補強する使い方。

今回は、ニーチェの言葉を引用し、この指摘が当たっているとする評論文です。

-一般論=現代の状態-

この哲学者の意見を冒頭に持ってきた場合、皆が常識だと思っている一般論は、現代社会の状況であることが殆どです。

なので、一般論=現代社会の問題点。と思って大丈夫。

それを否定する文章であることを、認識する。

-要旨(哲学者の言葉)⇒一般論(現代社会)⇒一般論の否定⇒要旨(哲学者の言葉+筆者の意見)-

となると、論旨の順番が見えてきます。

この場合、ニーチェの言葉を「当たっている」とするのですから、筆者の意見と一致していることを見抜きます。

ならば、冒頭のニーチェの意見は、筆者の意見と同一。つまり、要旨です。

なら、

要旨⇒要旨と反する一般論(現代社会の縮図)⇒一般論の否定⇒要旨

と繋がるはず。

 

-哲学者の警鐘が当たっている現代の図-

現代社会の縮図は、今の社会の問題点であり、それを一世紀前の哲学者が予言していたこととぴったり一致しますよね、という形に持っていきたいことを、まず概略として理解すること。

その問題点に気付いてほしい。

自分が当然と思いやっている事が、長い目で見ればどういうことに繋がっていくのかを、理解してほしいから、哲学者であるニーチェも、筆者、黒崎政男さんも書いているのです。

「気付く」ということは、一種とてもきつく、辛いことです。何せ、自分がやっている、正しいと思い込んでいたものが「違う」と解るわけですから。

けれど、間違いをし続け、それが誰かを傷付けているのかもしれないと知らないままに過ごす事と、どちらが良いことでしょうか。

あなたは、気付くことと、気付かないままに過ごす事と、どちらを選びますか?

では、本文を読んでいきましょう。

【第1~3段落】

-思想家ニーチェの言葉-

読書する暇つぶし屋を私は憎む。あと一世紀も読者なるものが存在し続けるなら、やがて精神そのものが悪臭を放つようになるだろう。誰もが読むことができるという事態は、長い目で見れば、書くことばかりか、考えることまで腐敗させる。」(本文より)

これは、筆者の言葉ではなく、ニーチェの「ツァラトゥストラはこう言った」という題名の本の中からの引用です。

この著作を書いた後。ニーチェは精神病院に入院し、そのまま病死をしてしまうのですが、この題名にもある、ツァラトゥストラ。これは、超人、という意味です。

それまでキリスト教の絶対者。「神」の存在を信じて生きていたニーチェは、ある時、「神は死んだ」と宣言します。

「神」という想像上の誰かに自分の意志や思想を支配されることなく、「自分の力で考え、自分の意志で生きる」強さを持った超人=主体的な人間になろう。という考えを表しました。

人間は、とても弱い。

弱いから、誰かにすがりたくなる。そのすがる先が、絶対者=神、宗教、だった。

けれど、誰かにすがっている人間が、何か新しいことなど出来るはずもありません。

そうではなく、自分で考え、自分で意志を持ち、その意志に従って恐れず生きる存在を、超人、と設定したのです。

なので、この「ツァラトゥストラはこう言った」は、自分の意志で生きている超人ならば、こう考える、という考え方を表したものだと考えると、とても解りやすい。

けど、この本文の引用は、「? 何これ? 何で読書が駄目なの? 読書って良いものじゃないの????」と、はてなが飛びますよね。(笑)

哲学者の言葉は難解だし、少し理解するのに時間がかかりますが、だったら解りやすい言葉で噛み砕けばいいのです。

-考えることが腐敗する、とは-

この「考える事が腐敗する」という部分を起点に考えましょう。

ニーチェは「暇つぶしの読書=何も考えていない読者が沢山発生する=考えが腐敗する」と言っているのです。

ニーチェのこの言葉は、少数の著書が多数の読者を啓蒙し教化する、という活字書物文化の特質を揶揄したものと考えられる。(本文より)

はい、少し難しい言葉が出てきました。

評論の特徴として、今まで知らなかった言葉が沢山出てくるので、焦らず、しっかり調べる事。

できるのならば、自分の力で辞書を引きましょう。

誰かに教えてもらうのではなく、自分の力でまず調べてみる。その行動がとても大事です。困ったら、頼ればいい。けれど、最初から頼るのは無しです。

啓蒙、とは、啓蒙主義などで中学歴史で言葉を知っていることはあると思いますが、無知の人を導いて、正しい知識に導くこと、というのが辞書的な意味です。

けれど、啓蒙って言葉を選ばずに言うのならば、「物を知らない馬鹿に教えてやるよ」という行動に陥りがちになってしまう。

さらに、教化という言葉。

これは、「教える」という漢字と「化ける」という漢字を知っているので、するっと読み飛ばしてしまいそうなんですが、

教化とは、人を教え導き、良い方向に導くことという意味もありますが、ある一定の教えに感化させること、という意味もあります。

つまり、ここでは教化の悪い意味。教化=洗脳、に近い意味合いで使っています。

つまり、少数の著者が自分の考えを本に書き、それを読んだ人々が「これが正しいことなんだ!!」と思い込み、検証や反証、根拠を確認したり、話しあったり、論議したりという面倒な手間を省き、「こう書いてあったから真実なんだろう」と書いてある内容に感化され、教化、洗脳され、その考えが如何にも正しいものであると思い込むことです。

これを、ニーチェは、「暇つぶし屋の読者」と言い表した。

-誰かが言っていた言葉をそのまま正しいと思い込む人間の愚かさ-

「だってー、テレビでこう言ってたもの!!」
「あ、それA先生が昨日言ってたー」
「新聞にこう書いてあったから、多分それが正しいんだろうな」

これは、誰もが陥ることです。

誰かが正しい。皆が正しいと思っている事に、誰も疑問を挟まない。最もらしく語る言葉を、不特定多数の人が何の意識も疑問も持たずに、「本になって出版されているものなのだから、これは正しい知識なのだろう」と勝手に思い込んでしまう。

それを「読者」とニーチェは名付けました。

ニーチェが生きた時代は、ちょうど19世紀中ごろから末期にかけてです。科学技術が発達し、聖書を始めとする、今まで自分が信じてきたものが間違いだと言うこと。少なくとも、嘘が混じっていることに気付き、「何故、私はこれを正しいと思い込んでいたのだろうか。何故、誰も疑問に思わないのだろうか」ということに、彼は気付きます。

そうして、本や書物になっていることに、人間は簡単に感化され、教化・洗脳されてしまうことに気付く。

これは、今の世界でもそうです。

テレビや新聞、マスメディアで言われている事が、本当に真実なのか。いちいち考える事が面倒だから、それが正しいと思い込んでいるだけではないか。

何故なら、皆が正しいと思い込んでいる常識に「異」を唱える事は、とても勇気が居る事です。

「皆と同じ」は、本当に楽なんですね。

何せ考えなくていい。それに染まるだけで良い。

染まらないものに、人は嫌悪感を示す時すらあります。同調圧力というやつですね。

これが蔓延すると、どうなるのか。

そう。誰も自分で考えなくなる。

考える事の腐敗、です。

-血をもって全身全霊で書かれたものの意味-

ニーチェが評価するのは、「血をもって」全身全霊で「書かれたもの」だけであり、暇つぶしの気楽な読書態度では、その「書かれたもの」の精神を読み解くことはできないのである。(本文より)

ニーチェが評価するもの。

それは、主体的な考えを持った人物が、描く思想です。

誰に頼ったものでも、依存もしていない。自分の考えをしっかりと持ち、それに対する根拠や反証、確認を冷静な目で分析し、自分の人生を掛けて見つけた思想。

誰に非難されようと、間違いだと言われようとも、自分の感覚を信じ、自分が導き出した結果を信頼し、恐れずに形にしたもの、のこと。

だからこそ、それらにはある意味、覚悟が込められています。

例示として出すのならば、ダーウィンの「進化論」や、コペルニクスの「地動説」など、その時代の常識に真っ向から反する意見を、科学的データを根拠とし、自分の感覚に従って発表した二人。

だからこそ、「えー、常識と違うじゃん」と、誰かが正しいと言ったことだけを拠り所にし、自分の頭で考える事のない人間には、彼らの覚悟を込めた意見は理解できるようなものではない、ときっぱり言い切っているのです。

「血をもって」とは、その人の人生を掛けて、もしくは、他者からの批判によって傷付くことすら恐れずに、発言する覚悟、という意味です。

 

【今日のまとめ】

-哲学者を知ろう-

暇つぶしの読書=一部の人間による、一定の思想の教化行動に染まることであり、一種の洗脳になる。

つまり、物を自分で考える力のない、自主的な思想のない、思考能力のない人間は、教化され、洗脳され、人の良いなりになってしまう。それが考える事の腐敗に通じる。

一部の人間に支配され、言いなりになってしまう。

そんなことを、私たちは望むのだろうかと思い、それを警告として文章に遺したニーチェ。

彼の考えは、それほど理解できないものでしょうか。

誰かが言った言葉に支配され、良いように動かされることが、私たちの望むことでしょうか?

続きは、このニーチェの指摘が当たっている現代社会を読み解きます。

今日はここまで。

続きはまた明日。

ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。

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