ネットが崩す公私の境 解説 その4(解説 その1 その2 その3)
【前回までのまとめ】
-著者が少数で上・読者が多数で下-
グーテンベルグが活版印刷術を発明してから、情報を発信する少数の著者と、それを読み、受け取る多数の読者の関係性が生まれた。
そして、圧倒的に情報発信者である著者の方が立場が強いため、読者はその本に書かれている内容を唯受け止めるだけになってしまい、無意識に自分で考え、議論することを放棄し、それが精神の腐敗を招いてしまうのではないかということを、哲学者ニーチェは約100年前に危険視し、警告を発した。
-ネットが壊した著者の権威性-
けれども、紙のメディア、そして映像メディアを遥かに飛び越して、インターネットというメディアの登場により、誰もが意見を書き表すこと。発言できる自由を手に入れることができた。
これは、社会の不正などに対する抵抗の手段を民衆が手に入れたという点では、とても画期的なことかもしれないが、ある程度の専門性や知識がなければ著者になれなかった時代と比べ、匿名性を利用し、自己の発言に何の責任も伴わない誹謗中傷などが平気で発言できることも可能となってしまった。
その為、多数の著者が発言し、それまで保っていた著者の権威性。読者を従わせ、感化し、教化できる力は弱まったかもしれない。
けれど、また違う問題も噴出してきた。
-ネットが情報淘汰できない理由-
何故、根拠のない意見や誹謗中傷がネット上ではまかり通ってしまうのか。
何故、吟味や淘汰ということが起きないのか。
それは、情報の非物質化、という面にある。
質量が限られている紙や時間制限のある映像メディアは、乗せられる量が限定されるため、より効果の高いものを挙げざるを得ない。そこには、吟味、選定の思考が自然に働くが、ネットはこの限界が物理的に無いため、(あっても意識されないため)量を制限する必要がない。
好きなように書いていい、ということが保証されるのだ。(その為、検索機能というものも同時に必要になる)
ならば、何でもかんでも好きに書いていいという状態が、私たちの精神に与える影響とは、どんなものだろうか。
続きを読んでいきましょう。
【第12~15段落】
-従来のメディアの距離感-
従来のメディアでは、個人が公に対して発言するには、さまざまな困難や編集者らによるチェックなどが伴っていた。(本文より)
世に出る著作や発言の全ては、多数の目に触れる前に、必ず数人の人の目にさらされます。
その時に、「これはどうだろう」「もう少し違う言葉で表現した方が良いんじゃないのか」「これは、誤解を受けるかもよ?」というように、人の目に触れることによって、他者の意見というのが解ります。
自分の発言による相手の反応。リアクションです。
その数人の人に認められないものが、世に出ても人の心を動かす事はない。だから、中途半端な意見や誹謗中傷、誤解を受ける表現や根拠のないものは、自然とその時に排除されることになります。
良くも悪くも、この距離こそ、思いを思考に、一面的な思念を十分吟味された意見へと練り上げる。(本文より)
良い部分は、少なくとも根拠のない意見や誹謗中傷は、この時点である程度は排除することができたり、表現を変えるチャンスが齎されます。
悪い部分は、発言の自由性が確保されていない。ある程度、世の中に受け止められるものしか発言することができない、という部分でしょう。
けれど、この、「思いついた!!」という時点から、「世の中に発表する」という具体的行動まで、従来のメディアはかなりの時間を要します。
人間とは不思議なもので、一時の感情に動かされた時などは、とんでもない暴言を吐いてしまったりすることがあると思うのですが、時間が経って冷静になると「ああ、あんなこと言うんじゃなかった・・・」ってなる時、ありますよね。
誰もがそんな衝動を抱えていて、そんな気持ちで文章を書いて人に見せても、大概は「これはあまり良くないよ」となるし、本人も冷静になれば自分の意見が如何に独りよがりであったか。反省できる部分も出てきます。
それ以外にも、他者の意見が入ることによって、より自分のアイデアや考えが、広く受け止められるような意見になる可能性も生まれてくる。
偉人たちの有名な言葉などは、彼や彼女一人で生まれたことなどはなく、誰もがその周囲の人々と話し、吟味し、思考を繰り返し、反論をも取り込むことによって、成り立っているのです。(参照⇒偉人の名言解説~あなたは大丈夫? 心の痛みの残酷な法則~)
「思いつき」は単なる思念です。けれども、他者と話し合い、相談し、繰り返し練り上げることによって、それは多面的な一つの「意見」になっていく。
時間もかかるし、手間暇もかかります。ある意味、とっても面倒くさい作業です。(=距離)
けれど、その面倒くさい作業を経ることで、思念が意見へと成長する。そして、誹謗中傷など、無意味に他者を傷付けるものも、量としては少なくなっていく。
他者の目が入る、ということはとても価値の高いことなんですね。
-ネット上の意見が吟味したものにならない理由-
けれど、ネットではこの「発言する前にさらされる他者の目」というものが、物理的に存在しません。
しかし、インターネットにおいては、気楽に書き連ねた文章を、自分のコンピューターに保存することと、ネット上に公開することの差は、二、三のキー操作の差にすぎない。従来のいかなるメディアとも異なり、インターネットでは〈発想〉と〈発表〉との間の落差がほとんど存在しない。(本文より)
誰もが思いついて、スマホを操作し、簡単に全世界に向けて発言できる。
ツイッターやフェイスブックなど、多数の方法が存在します。そして、それらを投稿する時、誰か他者の目に文章を読んでもらって、確認をしたり、「大丈夫かな」と相談することってありますか? 多分、殆どの人が無いですよね。
それが時に、人を傷付けてしまうものかもしれない。デマかも知れない。
自分が発言することによって、誰かが間違いを起こしてしまうかもしれないし、悪い方向に動いてしまうかもしれない。
そんなことを考えずに、発言してしまう。
そのことによって、大学を退学に追い込まれたり、決まっていた就職先から解雇されてしまったり、企業が店舗を閉めたり、様々なことが現実の世界で起こっています。
たった少し指を動かして、投稿したことによって、です。
手軽で便利。そのことがもたらす弊害を、多くの事件で解っているはずなのに、誰もが発言をやめない。SNSの利用人数は、現在も世界中で増加傾向真っ最中です。
何故、誰も発言をやめないのでしょうか?
-自我境界の曖昧化・拡大化による自己と世界の短絡化-
あるいは、〈自我境界〉が曖昧化、拡大化し、自己と世界が、いわば〈短絡〉してしまうのである。(本文より)
何故、誰もが発言をやめないのか。
それは、あまりにも便利になってしまったため、そして公に対しての発言が容易くできるようになってしまったために生まれて害です。
それは、〈自我境界〉の曖昧化。
自我境界とは、心理学用語で、自分と他人との境界線です。
解りやすく言えば、「私とあなたは違う存在で、違う意見を持ち、違う意志をもった別の存在である」という意識です。
この自我境界がしっかりしていると、自分の意見も大事に出来るし、他者の意見も大事に出来ます。
自分が考えるように、相手にもちゃんと意志がある。
自分に好き嫌いがあるように、相手にだって好き嫌いがあるし、一つの物事を自分が好きになる自由があるとすれば、相手にはそれを嫌いになる自由がちゃんと確保されている。
その線引きをしっかりできるのが、自我境界です。
自分だけのための境界ではなく、自分の境界をしっかり確立することで、他人の境界もあるのだということを理解する、ということ。
これ、難しい話ではなく、食べ物の好き嫌いで考えると、とても解りやすいんですね。
例えば、私は生クリームが吐き気がするほど大っ嫌いなんですが、別段、生クリーム大好き!!な友人が居ても、気分が悪くもなりませんし、食べている姿を見ても気分が悪くなりません。自分を否定されているような気分にもならない。ただ、私は食べない、というだけです。ありがたいことに無理矢理食べさせようとする友人は居ないので(居たら、帰ります(笑))争いにもなりません。
同じ様に、玉ねぎ大っ嫌いな友人が居るのですが、私が大好きで目の前で食べていても、顔色一つ変えませんし、私を責めることは一切ないです。
これが、〈自我境界〉
相手と自分が違うこと。違うことは、唯の事実であって、別段相手の否定や拒否には繋がりません。ただ、自分の好き嫌いはこうだ、とはっきり示しているだけのことです。
けれど、これが意見となると、話はなぜか一変します。
Aという意見が好きだ! という人は、なぜか、Aが嫌いだ! という人と、ケンカになってしまう。
自分の好きなアーティストが友人に受け入れられなかったりすると、とたんに機嫌が悪くなったり、自分が良いと思っているお店だったりブランドだったりをけなされたり、興味無くあしらわれてしまうと、途端に悲しい気持ちになってしまう事って、程度の差はあれ、経験することはありますよね。
何故これが起こるのか。
それは、自我境界が曖昧化、拡大化をしているからです。
それはどういうことかと言うと、他者との境目が曖昧で、広がっていること。
つまり、「私が好きなんだから、あなたも好きになってくれるよね?」ということです。
「自分の意見は、皆が思っていることと同じこと」
「自分が面白いと思っている事は、きっと皆も面白いと思うはず」
「これは絶対に受けるはず!!」
更には、
「私と友達付き合いしているのならば、私の意見は全て同意してくれるよね?」
という意識。
これらが更に肥大化すると、唯の意見の否定が、まるで自分の存在の否定につながってしまうかのように、受け取ってしまうことがある。
こうなってくると、自己と周囲の世界の意見が同一でなければ許せない。
本来は複雑で、様々な意見があってしかるべきなのに、短絡的に、簡単に、単純化してつなげてしまう。
「これが正解だよね。あなたもそう思うでしょう? 私と友達ならば、賛成してくれるよね。当然、そうだよね」という感覚が、生まれてしまうと言うのです。
-公私の境が崩れてしまう理由-
ここでは、プライベートとパブリックの境が溶け落ちる。(本文より)
何故、公私の境がなくなってしまうのか。
それは、自我境界の境目がはっきりとせず、拡大化してしまうから。
自分の意見と周囲の意見が同じであること。
要するに、「みんな一緒」が安心できて良いし、「自分の意見が皆に受け止められること」がとても価値のあるものだと思い込むことです。
これって、SNSの「いいねボタン」がとても如実に表しているように思います。
そうなると、「皆が良い」と思っているものが「良いもの」だと思い込み、「皆が悪い」と思っているものを「価値がない」とし、逆に「自分が良い」と思っているものが皆に受け止められて当たり前である、という意識が働いてきます。
だから、「良いこと思い付いた。良いこと知った!!」⇒「皆に知らせなくちゃ!!」という行動に、繋がってしまう。
そこに、他者の視点、思想、意見は存在しません。
自分のその発言が、もしかしたら受け入れられない現実も、存在しません。とにかく、思い付いたら、すぐ発言。これは、本来ならばごく少数の人間関係でのみ、許されることであったはずのことです。
親しい友人や、恋人、家族などに漏らしていた本音を、ネット上で発言してしまう。それらが受け入れられないと、過剰に反応・反発するのは、自分の意見が受け入れられない=自分の存在が否定された、という自我境界の曖昧さ、肥大によって起こるものです。
-筆者の危惧-
誰もが公表できるという事態は、いったい今度は何を腐敗させてしまうことになるのだろうか。(本文より)
この公私の境の消失。自我境界の曖昧化が何を生んでしまうのか。
それは、現代社会を見ていれば、良く分かるような気がしてきます。
誰もが気楽に発言をする状況に乗っかって発言するのは、ある意味ではとてつもなく他者の意見に感化されやすい状況なのでしないでしょうか。
常に他者の目を気にし、他者に振り回され、そして時に他者を振り回し。
それを繰り返した結果。
何が現代社会に起きているのでしょうか。
【今日のまとめ】
-便利なものがもたらす腐敗-
ネットが、私たちの精神に齎す害。
それは、自我境界の曖昧化と拡大です。
そして、自己と世界とのつながりが簡単に繋がってしまうと、「私の意見は全て正しいのだから、認めてね」ということがまかり通ってしまうようになっていく。
そこには、私的意見と公的意見の境目など、ありません。他者との境や、自分と違う意見の存在を否定し、徹底的に叩き潰すような行動に出てしまう時も、ある。
今、この瞬間にも、ネット上でそんなやり取り。やっている人が居るのでしょう。
そのことが、未来に何をもたらし、人間のどこを腐敗させていくのか。
明日は全体のまとめです。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
続きはこちら⇒ネットが崩す公私の境 解説その5 まとめ
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