夏目漱石「こころ」25〜先生が自殺した理由~

こころ

「こころ」解説、その25。

Kの自殺後。自分から孤独になり、死んだように生き続けた先生。

その先生が、「明治の精神に殉ずる」と、最後に自殺を選びます。切っ掛けになったのは、明治天皇が崩御し、その後を追う様に乃木大将が殉死をしたことです。

その乃木大将の遺書に書かれた言葉が、先生の意識を殉死へと向かわせるのです。

明治の精神とは何だったのか。

そして、それに殉ずる、ということは、明治時代という時代は、どんな時代であったのか。それも含めて、解説します。

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【先生にとって死は楽になる方法だった】

生きることが苦痛で仕方がない。死んだような気になって、一切の幸せから背を向けて、お嬢さんや奥さんを大切に扱うことが、まるで義務のように課せられた仕事のように毎日生活をしながら、孤独の影に苛まれていきます。

けれども、外からの刺激で、何かをしよう! と試みた時も有ったのですが、その度にこころの声が先生に聴こえてくるのです。「お前は、そんなことを行う資格などない」と。

その内なる声。自分で自分と話しあっていると、聴こえてくる心の声です。

それに対し、憤り、怒り、「何故人の邪魔をするのか!?」と問い掛けると、返事は冷たくこう返ってくるだけなのです。

「自分で能く知っている癖に」と。

これは、辛い……

もちろん、先生が罪の意識に苛まれているのはある意味当然の結果だとも思うのですが、自分が傷付きたくない。完璧な存在でありたいと、道徳的に、人道的な路に立って、妻や、その義理の母を愛し、優しくすればするほど、自分の本心は、「偽善者め」と自分を笑っている。

「お前はそんな、お綺麗な人間では無い。自分で自分の汚さは、よく知っている筈だろう?」と他人に親切にするたびに、お嬢さんに優しくするたびに、心の奥から聴こえてくる声に、責め苛まれていく。

何かをやりたい。何か、行動をしたいと願い、いざ動こうとすると、「そんなことをする権利は、お前に無い。よく思い出せ」と「こころ」が暴れるのです。

過去を思い出せ。好き勝手に動いた結果。自分の「こころ」に、「衝動」に、素直になって行動した結果は、どうなった? また、Kのような人間を作り出すつもりなのか? また、誰かを不幸にするつもりなのか?

と、常に頭の中で繰り返される。

希望を抱いたり、心躍る瞬間を体験した時に、まるで楽しいことを体験する権利など無いと、冷水を浴びせるようにやる気を奪っていく。

そうして、部屋に閉じこもる生活が、ずっと続いていくのです。

そんな先生にとって、死は安らぎでした。

面白いのが、この先生の本心とも言える、こころの奥底から聴こえる声は、あらゆる行動を止めるのに、自殺だけは止めないのです。

これは、先生が本心では、「もう生きてなどいたくない」「こんな苦しみを感じ続ける生活から、解放されたい」と願っていることが、伺えます。死ぬことだけが、安らぎ。生きることに、希望など見い出せない。

希望に満ち溢れ、偉くなるつもりで上京し、野心を胸に抱いて、未来に希望を抱いていた筈なのに、「失敗をしたくない」「醜い自分を他人に知られたくない」「人からよく思われたい」そんな欲望の声を聞き、抑制できずに行動し続けた結果。生きることに、希望など何一つ見い出せずに、何も動くことすら出来ない未来が待っていた。

もう、この苦しみから解放され、自由になりたいと。それには、「死」しか無いと、思い込むようになります。

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【他者からは見えない苦しみ】

どう考えても、現代で言うのならば、うつ病や精神疾患を抱えている状態であることが解ります。ノイローゼ状態よりも、より追い詰められた状態であることは、先ず間違いないでしょう。

奥さんと無理心中をする考えも有ったのですが、妻を自分の罪の道連れにするのは、酷く痛ましく思えて思いとどまります。同時に、自分に先立たれたお嬢さんの悲しみを思うと、それもまた出来ない。

そんなじりじりとした状況に生かされて、けれどもその生は苦しみに彩られて、他人がどう言おうとも、塗炭の苦しみを味わっていた。

他人からは、働かなくても食べていける財力と、美しい妻。そして、本人は帝国大学を卒業し、学のある知識人の様な雰囲気を醸し出している。どう見ても、周囲からは羨ましがられる状態の筈です。夫婦仲睦まじく、幸せそのものであるように見えるのに、本人は死にたがっている。苦しいと、心では訴え続けている。

外見からは、何一つその人の苦しみなど理解は出来ないこと。心に抱えている辛さは、自分の醜さを他者に知らせる、話す勇気を持たなければ、生き地獄の様な状態に追い込まれる事を、小説、という形を通して、漱石が私達に今なお、訴え続けているような気がしてしまいます。

そして、ある転機が先生に訪れます。

そう。明治天皇の崩御と、乃木大将の殉死です。

【乃木大将の遺書】

乃木大将。言わずと知れた、日本陸軍の軍人であり、日清・日露戦争で前線指揮を任された人です。この人に関しては、とっても沢山のエピソードがあるので、興味ある方は調べていただきたいのですが、日本帝国陸軍の超が付くエリートで有り、社会的身分は申し分ないほどに出世を果たしている人なのですが、その乃木大将が殉死の際、書き残したものが新聞に掲載され、それを先生は読みました。

西南戦争で、自分が失敗をしてからというもの、その失敗の罪の責任を果たすために死のう死のうと思いつつ、生きてきた。

この言葉に、先生は惹きつけられました。

傍目から見たら、雲の上の様な存在の人で有ったとしても、若い時にしてしまった失敗の苦しみをずっと胸に抱え、死ぬ機会を待ち続けていた。

まるで、自分と同じではないかと、思ったのでしょう。

私はそういう人に取って、生きていた35年が苦しいのか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか。どっちが苦しいのだろうと考えました。(本文56章より)

【先生の死の決断】

死ぬ瞬間の痛みや苦しみと、この生き地獄の様な時間を生き続けることと、どちらが辛いのか。

乃木大将の死の理由は、よく解らない。彼の人となりを知っている訳ではないし、直接話したことも無い。だから、よく理解出来ずにはいるけれど、生き地獄のような苦しい時間を耐え、辛い人生を歩んできたことに、恐らく先生は強く惹かれたのでしょう。

自分と同じ様な感覚を持っている人がいる。その人が、苦しい時間を終わらせたのだと。

ならば、自分もそうしようと、決断した。

辛い生活からの解放、と取るのか。また、先生が自分だけの事を考え、自分が一番楽になる方法を選択出来る勇気を、乃木大将のエピソードに見出したのかは、解りません。

けれど、現代の医学的な見地で判断すれば、躁鬱病で有った場合、鬱状態の時は、死ぬ事など考えられず、何事にもやる気など起きないものですが、逆に躁状態に切り替わると、急に何もかものやる気が込み上げてくる、と言います。「自殺」と言う事にも、やる気が出てきてしまう。

極端から極端に行ってしまうのです。

【明治と言う時代】

この殉死を決定づけるシーンの前に、お嬢さんと先生の会話で、「明治の精神に殉ずるつもりだ」と書かれています。

更に、お嬢さんが、「男女の心はどうしてぴたりと一つにないのかしら?」と先生に問い掛け、「若い時なら可能だろうね」と返事をした先生の答に、お嬢さんは溜め息を零します。

これも、擦れ違いが起きている瞬間なのですが、先生はその後。人間の罪、というものを強く意識するようになります。

この人間の罪、がなんなのか。

ヒントはお嬢さんの台詞で有り、その前後のやり取りにあります。

女性は男性よりも、多少常識を外れていても、自分だけに注がれる愛情を喜ぶ性質がある、ということが書かれていますが、これは、私を特別扱いしてほしい、と願う気持ちが女性に強いと言っています。

現代の感覚で読むと、ここのおかしさ。そして、その後に先生が気付く人間の罪が理解できなくなります。

これは、明治時代に外国から輸入された、「個人主義」という考え方です。

周りがどうであろうと関係ない。個人の利益を重視し、自分の存在を確立させることを目的とする、近代的な考え方です。

だからこそ、先生よりも年下なお嬢さんは、この個人主義的な考え方を当たり前の様に肯定していました。

けれど、先生は違ったのです。

人道的、道徳的な立場から、人に親切にすべきだし、家族にも愛情を持って接するべきだし、道行く人々にも、同等の親切心を配らなければならない。

つまり、道徳的に。社会が求める行いをすべきである、というのが、江戸時代から続く封建制度の名残を残した、全体主義的な考え方、が先生の思考の基本と捉える事が出来ます。

世間様が許さない、という言葉に代表される様に、全体の和を乱さない考え方は日本古来から続いてきた考え方です。

けれど、明治はそれを民衆の意識を教育によって変化させるのではなく、明治維新に代表される、一連の改革は外国の、特にヨーロッパ社会の常識と意識を取りこんだものでもありました。

個人主義は、そこで輸入された考えかたです。

周りが望む行動を。雰囲気を、和を乱さない生き方を。これが旧来のやり方だとすると、まるで先生の性格そのものです。

周囲が望む様な行動を常に取り続け、和を乱さず、争いごとを極力避け(負けたくないから)、平和を保つようにする。そこに、個人の幸福は関係がない。全ての臣民は、天皇の考えに従うべきである、という支配的な考え方を当然の様に受け入れていると、全く真逆の個人主義は、別です。

周囲のことなど関係がない。生きることは幸せなことで、常に希望に溢れている。

そんな個人主義的な考え方をお嬢さんが持っていることを、先生は何気ない、男女のこころが一つになるのは~という質問から、気付いたのです。

だからこそ、周囲皆に愛情を振りまくのではなく、自分一人を特別に扱ってほしいし、お互いに誰よりも思いあっていれば、心が一つになることも可能だと、お嬢さんは考えていた。

己の欲望を素直に認め、それを前面に押し出して罪の意識も無い。

だからこそ、ゾッとしたのです。

道徳的に、人道的に。この世には理想とされる生き方が常に存在し、それに反さない様に生きていくべきだ。道徳的に、家族には親切にするのだから、お嬢さんを大切に扱うのです。自分がそうしたいからではなく、人道的にその方が好ましいとされているから、行動する。

そこから外れた行為をしたが故に、友人を自殺に追いやり、こんなにも苦しい人生を自分が生きているのに、お嬢さんはその差に気が付いても居ない。むしろ、何も悪くないと言い切るのではないか。

ならば、自分が信じてきた人道的な道や道徳は何だったんだと、自分の根幹が揺らぐ恐ろしさを体感した直後。明治天皇の崩御を聞いた。

新しい考え=個人の考えや欲望を肯定する個人主義。
明治という時代の考え=人道的、道徳的立場に立って、社会に求められる人間になろうと努力する、旧時代の全体的考え方。

明治と言う窮屈な時代を生きてきた先生は、自身の欲望を肯定し、そのことに何一つ苦しんでいないお嬢さんを見て、人間の罪を感じるのです。欲望。エゴを肯定する個人主義とは、どうしても相容れない。それを肯定することは、自分は自分の欲望の為に、Kを自殺に追い込んでしまった。ここまで苦しみ抜いてきたことも、あっさり受け入れられてしまうことを、否定したかった。受け入れられなかった。

だって、受け入れてしまったら、今まで自分が散々苦しんできたのは、間違いだと言うことになってしまう。それは、どうしても先生には出来なかったのです。

さて、今日はここまで。

明日は、まとめです。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

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