夏目漱石「こころ」26〜まとめ~


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さて。このブログ一、長いエントリーとなってしまいました。この「こころ」解説も、26回目。

今回は、まとめをしていきます。

そして、様々な解釈をされているこの「こころ」で、明治の大文豪で、現在も日本を代表する作家である夏目漱石が描こうとしたのは、一体何であったのか。

ここまで学校でテストで問われることは有りませんし、小説の解説はそれを読んだ人がそれぞれで持てば良い物だと思っているので、これが正解、と言うわけではありませんが、ざっくりとした理解の為のガイダンスになるかと思います。

【「こころ」の物語の特徴】

小説家はその作品の内容。一種の虚構の世界である、仮の人間。キャラクターを作り、その人間の行動を通して、読者に何かを訴えてきます。

この、偽物の世界が、奇妙にも現実では見過ごしてしまう物事を、明確に浮彫にし、気付かせてくれる。嘘で作られた世界の筈なのに、その方が実際の現実よりも現実らしいものがあるという特徴があります。

この「こころ」も、そう。

先生やK、そして、先生の叔父。等といったキャラクターの起こした出来事が、人間の姿を私達に訴えてくるようです。

大きなテーマは人間のエゴ。エゴイズム。自己中心的な考え方。利己主義、といったものですが、これを優先してしまったが為に、人はどうなってしまうのか。

そして、このエゴと言うもの。

これが如何にコントロールが利かないものであるか。それに負けてしまう時は、如何にあっさりと、自覚なくやってしまうものなのか。

それを、Kを裏切る過程の先生のこころの動きを通して、示しています。

そして、エゴは利益を人から奪い取ろうとするときも暴れますが、自己保身に走る時も、暴れます。様々な理由を付けていたとしても、自分の醜い部分。悪の部分や、汚い部分は、必ず人間は心のどこかに持っているものです。その醜さを認め、受け入れた時にそれを他人に話せるようになり、エゴも含めて自分という人間を自分自身で認められるのですが、それはとても辛い作業です。

どうしたって、自分は良い存在だと思いたいのが人間という存在です。正しい事をしている。自分は、間違っていない、と思いたい。

けれど、人間は脆く、弱いものです。常に正しい事なんか、出来るわけがないし、そんなこと出来たら、その人は最早人間では無い存在です。

ある意味、それを先生は、外部から叔父に味合わされ、自分は絶対に人の信頼を裏切るような人間にはならないと強く誓った筈なのに、恋愛が絡むと、あっさりと友人を裏切ってしまいます。

そんな個人の欲望を優先させてしまう事が、先生は我慢がならなかった。個人の欲望を認めてしまう事を、先生はどうしても避け続け、それを認められず、死んだように生き、喜びを一切感じることなく、感じたとしても、すぐさま心の奥底から聴こえる声に引き戻されて、牢獄の様な世界で生き続けた。

何故、先生は自分の醜さを認めることが出来なかったのでしょうか?

それは、丁度この「こころ」と同時期に読む、有名な評論文に、ひとつヒントがあります。

【明治と言う時代の考え方】

明治はちょうど、近代化が始まった時代です。

長い身分社会が続いていた江戸幕府が崩壊し、階級の差がなく、誰もが好きな事を言う事が出来、政治に参加することも、訴えることも、政治家になることだって許された。

ただの支配される民衆から、国民国家の国民として扱われる様になった時代です。

いきなり評論文の様な解説になってしまいますが、近代化。欧米化という環境の変化は、それだけ生きている人に絶大な影響を及ぼしました。

精神的には、江戸時代の身分制度が残っている。それはどう言う事かと言われれば、周囲に期待される様な振舞いを常に要求され、それを守ることによって生活が保障されていた世界が、身分社会です。

接する人々は全て同じ階級の人々で、そこで求められるお約束を破らなければ、何も考えずに生きていくことが出来た、ある意味精神的には楽な世界だったのです。

何が正しい事なのか、何が間違っているか、なんて事は、考えなくとも良かった。だって、全てが身分社会で動いているのです。先例がきちんとあり、それを壊さない行いであれば、誰からも批判されず、また自分もそのあり方に疑問など抱く必要も無かったのです。

先生の立場から言うのならば、学生として。学問を志す人間として、相応しい行いをすれば良かった。学問の徒は、明治時代のエリート候補です。だからこそ、偉くなることが目的で有ったと本文に書いてあったように、偉くなること。それが学者になることであれ、社会的な地位の向上を望むのであれ、社会の常に上層部を目指すことが、大学生。特に、帝国大学の学生だったことに求められていた期待のはずです。

それに沿う様な行動を守っていれば、良かったのが身分社会。

けれど、ここで近代化の波が押し寄せます。




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そう。西洋的な考え方の、超個人主義です。個人の欲望を肯定し、自分の考えを表に出すことによって成熟した社会を形成する考え方です。

これは、夏目漱石がある演説の中で語っていることなのですが、西洋は何百年もかけて、市民たちが学び、自分達で政治を行うことの大切さを知った上で、身分社会から近代化を成し遂げた。いわば、内部からの革命であったこと。民衆の意識が、大きく変わっていったこと。その年数がとても長い時間を要したこと、等を語った後。日本の欠点を鋭く指摘します。

西洋の近代革命は、何百年もかけて民衆が成し遂げた意識変革の表れであり、緩やかな変化であったが故に、混乱もありませんでした。けれど、日本はどうでしょうか?

内部からの変化ではなく、外部からの押し付けられた変化であり、何百年もかかったのを、その外側だけを数十年で身につけようとすることは、とてつもなく危なく、きっと日本人の精神は混乱をきたすだろう、という演説をしているのです。

まさしく、このこころのテーマであり、封建社会の考え方と、近代的な制度が外側からやってきて、見た目は大丈夫そうに見えるけれど、実際はとんでもない混乱が起きている、という内容は、「である」ことと「すること」の評論文でも、語られていることです。(参照⇒評論文解説『「である」ことと「する」こと』丸山真男著 その1~権利の上にねむる者~)

【封建制度と個人主義】

封建制度的な生活の方が、精神的には楽です。

なにせ、生まれた瞬間からどうふるまえば良いのかを、全て社会が決めてくれているのです。考えることは、その規範にどれだけ自分が沿って行動しているのか。その一点に絞られるので、ある意味では何も考えずに生活することが出来た。

和を大事にする日本人ですが、周囲の社会に求められている状態にどこまでこたえられるか。それが生きる意味であった旧時代の考え方を持っていた先生が、近代化の波に晒され、個人主義。自分の考えを表に出すことを肯定する考え方を身に付けていきます。

個人主義の良いところは、自分の意志を自由に話し、肯定することが出来るところにあります。好きな事をしていい。もう古い時代が終わったのだからと、民衆たちは浮かれますが、そんないい事ばっかで有る筈も無い。

個人主義とは、自分で考え、自分の人生を選択する責務が任されている事です。現代で有るのならば、それは当たり前の事なのかもしれませんが、明治時代はそんな、責任の部分は誰も語ってくれません。

自由、と言う事は、その裏側に果たさなければいけない義務とセットで有り、自分で考え、選ぶ必要がある。そこには、誰も自分の人生を決めてくれません。道徳も、時代に沿って移り変わっていく。確固たる、「こうすべき」という「人道」も、揺らぎ始めます。

そんな中、旧来の考え方を引きずっていた先生が、個人主義の考え方の浸透の為に、信頼していた人に裏切られ、そして自分も友人を裏切ってしまう選択をしてしまったことに愕然とし、道徳的な規範に反す行いをしてしまったにも関わらず、罰せられることなく、生きながらえてしまった。

選択をすることによって、何かしらの不利な部分が出てきてしまう。今まで、考えなくとも生きていけたことを、考える必要が出てきてしまう。

それらに気付き、けれども自分の頭で考え、自分の責任を背負って何かしらの行動をするには、先生の頭は旧時代の考え方を引きずっていました。引きずり過ぎていました。

だからこそ、明治と言う時代が終わる瞬間に、新しい時代に対応できないが故に、自殺の道を選び、自分で自分の人生を終わらせてしまったのは、変化する社会や道徳、規範などに人間の気持ちはすぐに対応する事など出来るものではないと、漱石は訴えたかったのでは無いでしょうか。

【「こころ」という厄介な存在】

傍目から見て幸せそうであったとしても、内実本当に幸せかどうかなんて誰も解らない。本人ですら、自分の利己的な部分を知らず、周囲の誰かを傷付けていることすら、気付いていないのかもしれない。

それらが全て、エゴ。自分をよく見せたい。自分の利益を守りたいという、誰もが持って当たり前の感情から始まっているけれども、「どうするのが正解なのか」を考えるのが規範社会・身分社会であるのならば、「自分の頭で考えて決めた行いだ」と決められるのが、近代主義・個人主義の考え方です。

誰から非難されても構わない。私は好きな女性と結婚する為に、お前が邪魔だから、汚い手を使って手に入れた。

と、選択出来るのが、個人主義です。勿論、それに対する制裁は受けなければなりませんが、選択の自由とはそういうことです。自由の後ろには、常に責任と義務が生ずるのが、近代思想の世界です。

けれど、先生は、Kに自分が裏切ったことがバレた瞬間。どの方法が一番正しく、一番その場に相応しいのだろうか、を延々とぐるぐる考え続け、結局動けない。

そんな状態で相応しいと思われる道徳や規範が先生の中に存在しなかった。当たり前です。そんな道徳、あるとするのならば、嘘をついた事を素直に謝る、という行動しか、思いつくことはありません。

けれど、先生とKは友達でした。少なくとも先生はそう思っていた。

だから、昔からの友達のKを裏切り、友で無くなってしまう瞬間が、今までの自分の価値観を揺らがすことになってしまうから、そんなことは出来なかった。

先生は常に、死ぬまでKとはこの関係が続くだろうと、漠然と思っていた筈です。昔からの友人で、友人が困っていたら助けるのが、道徳的に正しい事なんだと信じてKの引っ越しを強行した先生です。

だからこそ、変わらない世界でこの先生は生きたかった。自分で考え、自分で行動することなど、怖くて出来なかった。それはそうです。自分の行動の全ての責任が、自分の肩に圧し掛かってくる。そんな生活、先生はしたことがないのです。

だからこそ、個人の感情が暴走してしまったことに驚き、慄き、そして罰せられることも無いまま、自分は利益を得てしまった。

罪を背負い、罪人という存在へ、変化した。その変化を受け止めようと頑張ってみたけれど、旧来の考え方を変えられそうにない。だから、丁度いいから自殺する。きっと、これからの新しい世界の中に蔓延する精神は、自分にはきっと相容れないものだからと、命を立ってしまうのです。

【後悔の本当の意味】

あの時、ああして居れば。あの時、思いとどまっておけば……

反省など、日常的に誰もがしてしまうものです。けれど、この先生は全ての自分の失敗を、周囲に露呈することなく、片付けてしまいたかった。

それはある意味では、失敗を失敗として受け止めない、という事と同じ意味です。反省をせず、事なきを得てしまったが故に、先生は自分の欠点を訂正する機会を悉く無くしてしまうのです。

失敗を嫌い、認められない人は、自己正当化が激しいと言います。先生も、Kが亡くなってしまうまでは、上野の公園などのシーンも、自分の行いを反省するどころか、ある意味良い手がらだと有頂天になっていました。

お嬢さんを手に入れる為に、必要な事だったんだと開き直ることも出来ず、さりとて自分の罪を暴露する勇気も持ちえていない。

嫌なことから避け続けた結果。先生の人生はどうなったでしょうか?

彼は、読んだ人が抱く、理想の生活をしている人でしょうか?

漱石からの「こうならないでね」という強いメッセージが、読むたびに伝わってくるようです。

是非、失敗すること。後悔することの大切さ。そしてそれを周囲の人々に知られても大丈夫であることを、読みとってください。

ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。


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