夏目漱石「こころ」21〜Kの賭け~

こころ

「こころ」解説、その21。

この解説シリーズで一番長いものとなってしまいましたが(一応覚悟はしていたんですが、やっぱり長くなりました)、それだけこの小説には解説しなければならない部分が多いということです。

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【難解小説の理解の楽しさ】

けれど、最初は全く読み方が解らず、難解な言葉と言いまわしに辟易して投げ出す子が多い作品ですが、(大概の生徒の感想は、暗い・古い・難しいの三拍子。当たっていると思います(笑))丁寧に解説をし、読解を深めると、授業をしていても読む生徒の目の色が変わる瞬間が訪れる作品でも有ります。(そして、読書家になってくれる子も多かったり……)

解らないものが解るようになる瞬間って、人間にとって最大の娯楽のような気がしてなりません。難しくて投げ出したくなるんだけど、投げ出す前にもう一回だけチャレンジしてみると、世界が変わったりする。

この小説もそうです。

題材は、なにせ人間の「エゴ」と「明治の精神」という、現代の個人主義全盛の時代には、理解しずらいものがテーマとなっています。様々な社会情勢が変わって、現代は「好きなことで生きていく」という、個人の趣味や娯楽でさえも職業に転換出来る、ある意味個人の「エゴ」を他人と共有することで生きる実感を得られる時代に、漱石の描いたこの「こころ」のテーマは、一通り読んだだけでは少し、理解が難しいかもしれません。

けれど、人間の感情というものは、どれだけ時代が変わっても、変わらないものです。

頭で理解するのではなく、そう感じてしまった。どうしても、こうなってしまった。そんな理不尽で逆らい難い「こころ」感情をテーマにした作品であるからこそ、人がどれだけ感情に振り回されてしまう動物なのかを、見ていきましょう。

今回は、昨日のエントリーで解説した、Kの自殺の謎を更に深めていきましょう。

-Kの自殺は演出?-

Kの自殺現場を見てみると、超冷静な思考と気配り、そして配慮が伺えます。自殺をするほどに思いつめていたはずならば、これはとても不自然と感じませんか?

普段の様子と変わらなかったK。自殺する人の特徴として、その前後に全くご飯を食べていないことが挙げられるのですが、(自殺か事故かを判断する時に、胃の中に残っている物を、警察は調べるそうです。消化されていない食べ物が胃のなかに残っていたら、事故または事件の可能性が高くなり、自殺の可能性は薄くなります)Kは平然と食べていたのでしょう。食べていなかったら、恐らく先生が気付いているはずです。

なら、Kの遺書に書いてあるように意志薄弱で、未来に希望も何もなく、死ぬ、という状況だったとしたならば、恐らくもっと気付くような振舞いがあったはず。

ならば。

あくまで仮定としてですが、これをKが望んでこの状況を作ったとしたならば、どうなるでしょうか。

自殺を演出、というのはとても突拍子もない意見のように思えるでしょうが、あくまで仮に、として考えてみます。

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-先生に見つけて欲しかったK-

明け方近くに襖を開けて自殺したK。

そして、遺書の宛名が先生に向けられていたこと。

それらを考慮すると、自分の遺体を先生に見つけて欲しかったのは、明らかです。どう考えても、奥さんやお嬢さんに見つけて欲しいとは思っていない。この下宿の中で、自分の遺体と最初に出会う人は先生であり、またそれを計算していたと考えるのならば、小説の中で思い当たるシーンが有ります。

見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。(本文より)

先生がまだ、Kを裏切る前の時です。

この時に、Kは深夜に自分の部屋から、先生の部屋をのぞいている。便所に行ったついでに、まだ起きているかどうかが気になったのだと言います。

けれど、便所は部屋の造りを考えると、逆側です。そして、先生は穏やかな眠りに付いていた。物音がしないし、灯りも付いていなのならば、寝ているに決まっています。

なのに、わざわざ確認した。それも、たまたま襖をあけた瞬間に先生が起きたという雰囲気も、有りません。

Kは一体、何時からそうやって眺めていたのでしょうか?

また、そうやって眺めていたのは、その日だけなのでしょうか?

もしかしたら、毎日? だとしたら、いつから?

そんな疑問が沸いてきます。たまたまだと言うのならば、何故、漱石はこのシーンを書いたのでしょう。それも、一種不気味に、印象深く描いたのでしょうか?

Kの精神が弱り果て、その奇行の一種として描いていたのならば、その他にもそのような描写があってもおかしくないのですが、生憎ここしか有りません。そして、次の日のKはとても冷静なのです。

だと、したら……

もしかして、実験をしていた、ということは考えられないでしょうか?

先生は大体毎日どれくらいの時間に寝て、布団はどちら向きで、どれくらいの隙間を開けたら、起きるのか。どれくらいの物音だったら、大丈夫なのか。寝ているのか。それとも、起きてしまうのか。

それらを毎日試して、そうやって覗いていたとするのならば……

自殺をする、まるで予行演習のようなことをしていた、ということになります。

-先生の行動の順序-

では、ここで先生のKの遺体を見つけた時の行動の順序を見てみましょう。

襖の隙間から、Kの背中を見る。

問い掛けて、返事がないから、Kの部屋に行く。そして、暗いランプの光の下で彼の遺体を見つける。

遺体を見てガタガタと震え、机の上に置いてある遺書に気付く。

遺書を読む。

内容を確認し、また元通りにして、みんなの目につくように机の上に置く。

振り返って、Kの遺体の背後にある襖にほとばしっている血潮を見る。

の流れ。

ランプの灯りが暗かった。そして、Kの血糊がはっきりと見えたと言う事は、ランプは襖がわに置いてあったと仮定することが出来ます。

この過程を見ると、本当にぞっとします

遺書に自分への憎しみや、裏切りに対する罵倒が書かれていると思い込んでいた先生は、兎に角それを調べなければならないと思ったのでしょう。けれど、一言もそんなことは書いていなかった遺書を読んで、ほっとした瞬間。

自分の罪をまるで目の前に付きつけられるように、Kの遺体と血しぶきを見るわけです。

それが、その後の先生の人生に暗い影を落とすのは、小説にも書いてある通りです。実際、その後の先生の人生は、不幸でした。傍目から見れば幸福そうに見えても、内面は不幸以外の何ものでも有りませんでした。

それが、とうとう先生自身を自分で殺すに到るまで、先生の人生はとても暗いものだった。生きているのが、辛い。死んだように生きようと、その後の遺書には綴ってあります。(是非とも小説のラストまで読んでください)

けれど、これが逆だったら……どうでしょうか?

この、Kの遺体と遺書を見つける経緯が、逆だったとしたならば……

-不幸に叩き落とされた先生-

それでも私はついに私を忘れることができませんでした。私はすぐ机の上に置いてある手紙に目をつけました。(本文より)

もし、このKの遺体を見つけた瞬間。先生が私、を忘れて、つまり我を忘れて、遺書などに気付かず、友人の身体に真っ先に駈け寄り、彼の死を悼んで泣いて許しを請うたなら。その死を、何よりも悲しんだとしたならば、どうでしょうか?

自分の卑怯な行為が、友人を自殺に追い込んでしまったという贖罪は確かに残るかもしれませんが、自分自身を未来永劫暗い、牢獄の様な人生に閉じ込めるまでの悔恨を抱えるまでになるでしょうか?

Kの遺体を、続くシーンで先生は触れていますが、頭を持ち上げた瞬間、恐ろしくてその手を離してしまいます。遺体の頭がとても重く感じられ、泣くことすら出来ない程、恐ろしかったと、綴ってあります。

そう。友人の死よりも、自分のしでかしてしまったこと。自身の罪の重さに慄き、その証明のような友人の遺体が、恐ろしくて堪らなかった。

友人の死を目の前にしても、先生が考えていることは、自分の将来や、これからの生活。自分の立場なのです。

だからこそ、その人生が傍目には幸福そうに見えても、塗炭の苦しみに彩られたものになってしまった。

エゴを優先したが故に、不幸になっていった、とすれば単純ですが、それにしては余りにも出来過ぎています。まぁ、小説なのだから虚構の世界だし、ご都合主義で当たり前、という意見もありますが、漱石がそんな稚拙な考えの許でこの小説を書いているとは、どうしても思えないのです。

-Kの賭け-

では、先生が自分のエゴに直面した以外に、このKの自殺の意味は何があったのでしょう?

利き手の反対側で頸動脈を切り、遺書が先生の部屋から入った時に、一番解りやすい、視界に入りやすい机の上に置き、その手紙に血が掛からないように、自殺したK。先生が起きやすいように襖をあけ、明け方近くに自殺を決行した。

そこから、一つの推論ですが、Kは賭けたのではないのかと、思えてきてしまうのです。

もし。

もし、この先生が自身のエゴや自己保身をかなぐり捨て、良心を取り戻し、自分の死を悲しみ、遺体に取りついて、その死を悲しんでくれたとするのならば。自分の罪を自覚し、悔み、心から自分の死を悲しんでくれるのならば、先生の未来の人生に暗い影は落ちない。自分の心の中の醜さに直面することも無く、引きずることも無い。

けれど、人の死に直面しても。それも、自分が原因で命を落としたかもしれない、裏切った友の死に直面してもまだ尚自分の存在が大事で、自分の立場を優先するというのならば、その人生に暗い影が落ちる。それこそ、Kの死から数十年経ってもKの墓に毎月訪れ、贖罪の意識から抜け出ることは無く、死んだようにただ、惰性で生き、死に場所を探す様な、生き方を選択するようになる。

その二つの道を、Kは先生に選ばせたかったのではないのか。

そんな風に、思えてなりません。

【Kの賭けの意味】

なら、そのような自分の自殺すら演出の道具として使い、とっさの場面で究極の選択を先生に押し付けたKの目的とは、何でしょうか?

もし、計算してこの状況をKが作り出し、先生の行動をある程度予測して、先生がどう考え、どんな順番で何を見るのか。それすら考え、状況を整えたとするのならば、自分の死を先生の胸の中。つまり、「こころ」に刻みつけたかったのではないか。

そんな、一種の執着にも似た様な執念を感じます。

自殺をするのならば、もっと他に、迷惑にならない場所ややり方など、幾らでも有った筈です。けれど、頸動脈を切り、その後始末がとてつもなく大変な方法をKは取っています。

冷静沈着な彼が、どうしてこのような自殺の方法を取ったのかも、また謎です。

まるで、迷惑を先生に掛けたいと思っている様な、行動です。だって、Kが死に場所に選んだのは、先生が生活に苦しんでいるKを見るに見かねて、助けてくれた、恩義ある下宿の部屋です。

そこで自殺をする。

しかも、その後、結局奥さんとお嬢さんは、先生との結婚を機に、この下宿から出、違う新居を構えます。

当たり前と言えば、当たり前ですよね。

そんな当たり前のこと。何故、Kが気が付かなかったのか。

気が付いていたのならば、わざとその場所を選んだ、と言うことになります。敢えて、先生に迷惑がかかる形を選んだ。

そして、先生に、二つの道を選ばせたとしたのならば……

もしかしたら、Kは先生に、ただならぬ感情を抱いていた、ということが浮かんできます。それこそ、お嬢さんのことで裏切られた以上の、何か、を抱えていた。

その、Kの感情については、また明日。

ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。

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