今回から、行動生態学者の長谷川眞理子さんが書いた、『ラップトップ抱えた「石器人」』の解説を取り上げます。
【イントロダクション】
ラップトップとは、ノートパソコンのこと。
現代風に言うのならば、タブレットやスマートフォンでも良いのかもしれません。
つまり、
ラップトップ=最先端技術を結晶したもの。
石器人=まだ農耕を始めていない、石を削り取って作りだした石器を道具として使っていた人類。
-タイトルに含まれた対比-
新しいものと、古いもの。
それを組み合わせた題名となります。
題名からして、対比ですよね。
題名が印象的な物の場合、「これが意味しているのは、何なのだろう」と読む前に想像することは凄く大事です。
予想する、と言うことは何事においてもとても大事。評論文においても、先を想像しながら読む、と言うことは、とても大事です。
では、冒頭から読んで行きましょう。
【第1~4段落】
-最先端技術が起こした有り得ない事故 原子力発電所の例-
1999年に起きた東海村ウラン燃料加工施設における臨界事故は信じられない事故だった。(本文より)
まず、冒頭からショッキングな事故の話題が具体例として挙げられています。
ウラン燃料加工施設。つまり、科学的な物質を加工する専門施設である筈の場所で、スペシャリスト達が放射能発生物質を扱っていたにも関わらず起こった、とんでもない事故です。
理由は、次の文章に列挙されています。その理由の内容が、とんでもなかったりする。
・安全確保マニュアルの簡略化。
(安全には必要なはずなのに、面倒な手順を省いた)
その他、原子力発電所によるトラブルは、現在にかけても頻発しています。
・安全手続きの無視。
・トラブル隠し
などなど。
つまり、技術的なエラーが直接的な原因ではなく、運用する側。人間側の、ヒューマンエラーによる人災が原因であると、筆者は述べています。
こんな管理では、いつか大きな事故が起こってもおかしくない。(本文より)
冒頭だけ読んで、この話を「ああ、原子力に関する話なのかな?」と思うには、まだ早いです。
多くの評論文を読んでくると分かりますが、冒頭で述べられている事はほんの切り口にすぎないものであることが殆ど。
この評論を書いた時期に起こっていたセンセーショナルな科学的施設で起こった事例を挙げ、筆者が何を言おうとしているかを探らなければなりません。
科学は現代の知識の最先端を詰め込んだようなものです。けれども、それを扱う施設でミスが起こる。その御簾の原因は、技術的な欠陥ではなく、全て人の安全意識が抜け落ちてしまったが故だと。
何故、そんなことが起こってしまうのでしょう。
-NASAの人為的ミスがもたらした大事故-
2003年2月1日には、アメリカのスペースシャトル・コロンビアが大気圏突入の際に分解し、七人の宇宙飛行士が亡くなった。(本文より)
またしても、科学的な施設で起こった、事故です。
スペースシャトルが発射時に事故を発生させ、飛べなかったり、爆発してしまったりする映像は本当に多くを見たことがありますが、技術的に未熟だった過去ならばいざ知らず、成功率が高くなった現在で起こる事故は、何が原因なのか。
事故の原因究明は長い時間をかけて検証される為に、明確な原因は本文の中では言及されていません。
けれど、危険だと見なされていた物体を、部品として採用していたことが関係していることが、示されています。
疑問はあったが改善の名案はなく、これまでうまくいったということから、NASAはその危険性を問題にしなかったらしい。(本文より)
危ないと言うことは、指摘されていた。
問題はあったと、皆が解っていた。
けれども、「今まで大丈夫だったんだから、次も大丈夫だろう」という意識が、気付けば大事故を引き起こしていた。
これは、私たちの生活の到る所に潜む感覚です。
今までが大丈夫だったからといって、次も大丈夫だとは限らない。
次は何かしらのエラーや障害が起こって、今まで通用していたものが通用しなくなるかもしれないのに、NASAという、とても優秀な頭脳・能力を保持している人たちでさえ、そんな当たり前のことに気付けなかった。
いいえ、皆気付いていたとしても、具体的な行動に移す事はしなかった。
何故なら、「今まで、問題なかったんだから良いじゃないか」という、意識を皆が持っていたからです。
優秀な科学者であったとしても、それが働く。ならば、科学に精通していない人々ならば、この傾向はどれくらい強くなるのでしょうか。
-リスクの認識と想像力-
リスクの認識に何か問題があるようだ。(本文より)
リスクとは、危険です。
どれが危険で、どれが危険でないのか。それを察知する能力は、私たち人間に基から備わっているはずです。特に、日常生活における危険性は、日々の生活の中で把握できているはず。
自分がどれだけ自分の体を制御できるのか。
自分が動かす機械や道具も含めて、その操作を失敗した時の災難も、想像することができます。もちろん、成功も想像できる。
いつものように、慣れているやり方で、人は日々を過ごそうとする。
そして、それらはみな、自分一人で行うことだ。(本文より)
私たちは、自分が関わること。それも、一人で行うことならば、成功も、そして失敗の災難も、想像することができるのです。
想像ができるのならば、対処をすることも可能です。
例えば、受験勉強を怠れば、当然志望校に合格することが難しくなる。それが想像できるから。そして、時間制限があるからこそ、皆、必死になって勉強する。
想像力が、人を行動に駆り立てる事は間違いありません。
つまり、一人で行えることに対しては、リスクの認識に問題点はない。
ならば、問題点が起こる時は、どんな時なのか。
そう。わざわざ筆者が「一人」と掲げている事に、ピンとくる人は、評論文をよくわかっている。対比です。
一人・個人の反対はどんな言葉か。
そう。「集団」です。
集団・組織・団体になってしまうと、人はリスクの認識に問題が起こってしまう。
例示として挙げられているものは、原子力発電所、ウラン燃料加工施設・NASA。全て、団体です。
人は、集団になってしまうと、問題意識、危機意識、リスク認識にエラーが発生してしまう。それを筆者は暗にほのめかしています。
この、明確に書いていないけれども、ほのめかしている事は、良く問題になりやすいので要チェック。
つまり、自分の体や、自分一人のことであるのならば、危険やリスクは実感として把握できる。
テストでの失敗は、個人の失敗です。それって、君ら学生にとってはとっってもリアルな危機感であるはずです。
けれど、自分の所属している学校の偏差値や平均点が下がっているらしい、と聞いて、「やばいんじゃないのか?」と思う人は、どれだけ居るでしょうか?
・「自分の偏差値が、40切った」
という状態と、
・「自分の学校の偏差値が、どうやら40を切ったらしい」
という状態。
さて、背筋が寒くなるのは一体どちらかと考えると、理解できると思います。そう。「うわっ、やばい!!」って、団体になればなるほど、薄れていくんですよね。
それは何故なのか。
-実感できないリスクは、存在しないのも同じ-
しかし、十分危険だが微量な放射能の存在は、人間の感覚器官には感知されない。(本文より)
私たちは、「危険だ!!」と思うから、自分の身を危険にさらす現象に対して、身構える。つまり、準備したり、対処したりすることができます。
けれど、この「危険だ!」と思う感覚が働かないものに対しては、身構える事が出来ません。
子どもが、危険なはずの火や刃物に不用意に近付くのも、それが扱いを間違うと危険なものだという意識がないからです。
だから、身構えないし、準備もしない。それで一度、火や刃物が危険なものなのだと、火傷や切り傷を経験することによって、意識がその危険性に向きます。だから、対処ができる。
けれど、危険たけれども微量な放射能は、頭では危険だと分かっていても、目には見えないし、その効果は長い時間を掛けて人体をむしばむものです。
だから、危険だと実感がわきにくい。
しかも、原子力発電所もNASAも、一人ひとりは巨大な作業のほんの一部を担っているだけであって、自分自身の判断ミスがどれほど最終産物の危険に貢献するかは、これまた実感できない。(本文より)
団体での作業は、一人ひとりが組織の歯車となって仕事をこなします。
効率化を図るためには必要なことなのですが、そうなると、全体を把握している人はほんの一握りになり、けれども、分野別に仕事を分担しているので、危機を実感することが、全体を把握していたとしても、厳しくなる。
人は、実感できるもの、体感や経験を持っているものに対しては、危機に対して対処や準備ができます。
けれど、組織の歯車として働いていると、あまりに団体の中に入ってしまうので、危機に対する実感がわかなくなり、また、全体像が見えないゆえにリアルに危険を感じることも、頭や理論では分かっていても、想像することが出来ずに居ます。
だからこそ、自分のちょっとしたミスが、全体にどれだけの影響を及ぼすのか。その想像がつかず、また実感も薄いからこそ、感覚が鈍くなってしまう。
今まで大丈夫だったんだから、自分が指摘しなくとも、危なかったら他の誰かが気付くだろう。
団体であるが故に、それを全員がしてしまったらどうなるのか。
それは、原子力施設や、NASAの大事故が証明しています。
どうして、そんなことが起こってしまうのか。
続きはまた明日です。
ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。
続きはこちら⇒ラップトップ抱えた「石器人」 解説その2
コメント