徒然草「花は盛りに」をわかりやすく解説その4~教養の浅い人とは~


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徒然草、「花は盛りに」解説。その4。

今回は、教科書に抜粋されている部分の最後です。

夜桜って綺麗ですけど、その下は見たくないですよね……

【兼好法師の好む、物の見方】

この部分では、兼好さんの物を見る楽しさがつづられています。これを読むと、毎回毎回、「自分はどうかな」と我が身の態度を振り返りたくなってしまいます。

今で言うのならば、美術館とか博物館の楽しみ方や、映画やテーマパークなどの娯楽物、それから食べ物や観光、音楽、文化など、様々な場面に言い換えられる気がします。

きっと、兼好さん。

今の世の中に生きていたならば、兼好さんは大っ嫌いなもの多いんだろうなぁ、とちょっと想像してしまいます。

ここに書かれているものの見方、ちゃんと出来ているかなぁ。そんな風に思ってしまうくらい、結構鋭いことが書いてあります。

-第4段落ざっくりあらすじ-

物を楽しむって、それを直接目で見るだけじゃないよね。想像して、心で楽しむことを知っている人が、本当の楽しみ方を知っているんだと思う。教養があって、人格が優れている、魅力的な人って、なんでも距離をとって楽しめる人で、その逆は、何でもかんでも傍によって、自分で独占しようとするのって、品がないよね。

な、内容です。

では、続き。いってみましょう。

【第4段落】

-第1文目-

すべて、月・花をばさのみ目にて見るものかは。

()
すべて、月や花というものは、そんな風に目だけで見るものなのだろうか。いや、そんなことはないだろう。

(文法)
/ 格助詞 連体形・体言接続
/ 係助詞 「は」の変形。をば、で濁音化する。(結びは終止形)

/ 副詞 そのような、の意味。(指示語)
のみ/ 副助詞 限定、断定の意

見る/ マ行上一「見る」の連体形
もの/ 体言
かは/ 係助詞 疑問・反語(ここでは反語の意)

(解説)

「さ」の内容がポイントです。

そのように、このように、と訳される部分ですが、試験でもよく「この部分が指し示す内容を具体的に答えなさい」という問題が出ます。

「さ」の内容は、そのように目で見るものだろうか、の「そのように」が指し示しているものです。

つまり、満開の桜の花を直接見に行ったり、満月をずっと見続けたりする態度のこと。

直接見るだけがその物事を味わうことではなく、間接的に観る。つまり、直接目で見なくとも、その物事を楽しむ楽しみ方が存在する、と言いたいわけです。

-第2文目-

春は家を立ち去らでも、月の夜は閨の内ながらも思へるこそ、いとたのもしう、をかしけれ。

()
春はわざわざ家から出て行かなくても、月の夜は寝室の中にいたままでも、月や花の姿を想像して楽しむのは、直接見るよりもかえって、心が豊かになって、趣深いものだ。

(文法)
立ち去ら/ラ行四段「立ち去る」の未然形
/打ち消しの接続助詞「で」(未然接続)
/係助詞 並列・列挙(結びは終止形)

思へ/ハ行四段「思ふ」の已然形
/完了の助動詞「り」の連体形(さみしいの「り」)
さみしいの「り」 サ変の未然形、四段の已然形接続は、完了の「り」
こそ/係助詞 強意(結びは已然形)

をかしけれ/形容詞シク活用「をかし」の已然形(係助詞結び)

(解説)

人間の想像力って、豊かです。

けれど、その想像力も、使って始めて豊かさが深まる。つまり、誰もが持っているものだけれども、「直接観ること」だけに焦点を置いていると、それ以外の物の見方に価値を置こうとしない。




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「ああ、観れないから、今年は楽しめないんだ」

という風に、諦めてしまうのは想像力がない。頭を使っていないから、教養がないと兼好さんは言っている訳です。この考え方って、なんだか最新の脳科学の評論文と似通った部分があります。

私たちの脳は使おうとすれば、無限大の可能性を秘めている。
(参照⇒可能無限 解説 その9 まとめ)

けれど、直接観ることだけが価値のあることだと固定してしまうと、それだけの価値観で動いてしまう。それ以外の楽しみ方を試さないのは、とても残念で勿体ないとも言えます。

直接観ることが劣っているのではなく、価値が無いと言っているわけでもありません。

観れない現実を受け入れ、その状態でも花や月を楽しもうとする、人の工夫や想像力、そして、それを愛し、いとおしむその心が、風流を解する心。教養がある人だと、言いたいのです。

 

-第3文目-

よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまもなほざりなり。

()
人格や教養に優れている人は、むやみに物を好むようには見えないし、ものを面白がり、楽しむ様子もあっさりとしている。

(文法)
見え/ヤ行下二「見ゆ」の未然形
上一の「見る」と混同しない事。
/打ち消しの助動詞「ず」の終止形

なほざりなり/形容動詞ナリ活用「なほざりなり」の終止形

(解説)

兼好さんの思いっ切り個人的な好みが出ている意見ですが、けれども、物事の真髄を付いています。

例えば、ディズニーランドとか、USJとか、テーマパークを例に挙げてみましょう。

とても大好きで、何度もパークを訪れたことがあったり、大体のアトラクションを知っていたりすると、あまり乗ることに執着しません。雰囲気を楽しんだり、混んでいる日はアトラクションを乗る為に長時間並んだり、効果的に回ろう、なんてあんまり考えずに楽しみますよね。

それは、慣れているからです。

けれど、初めてそこを訪れて、一日しか時間がない、となったら貴方はどうなるでしょうか?

朝早く、誰よりも早くいって、どうしたら効率的に回れるかを考え、一つでも多くのアトラクションを乗ろうと、必死になるのではないでしょうか?

そう。その物事に慣れていない、初めての体験だと、人はどうしても貪欲になってしまいます。けれど、それに慣れている人。つまり、物事を楽しむことに長けている人だと、距離を取り、余裕を持って楽しむことができる。

観るだけでなく、違う楽しみ方をしてみたり、行けなくともその残念な気持ちすら、味わう事を楽しんだりする。

観れなくて残念だな。行けなくて悲しいな、きっと楽しいんだろうなと思う感情すら、教養のある人は歌に詠み込んだり、何かで表したりして、マイナスの気持ちすら深く感じて人生を豊かに出来る。

けれど、体験することだけが主軸になってしまうと、それが出来なかった時に何も楽しむことができません。マイナスな感情は全て駄目なものと決めてしまうと、物の違う見方ができなくなってしまいます。

その、視点が固定してしまうこと。

モノの見方の柔軟性。視点を変えるということが、どれだけ生を豊かにするのか。

逆に、それを固定してしまう事が、どれだけ人生を貧しくするのか。

それが、教養の無い人。と筆者は言っているのです。

-第4文目-

片田舎の人こそ、色濃くよろづはもて興ずれ。

()
田舎者に住んでいる教養のない人ほど、そういうことに却ってしつこく、何事もおもしろがってもてはやす。

(文法)
こそ/ 係助詞 強意 (結びは已然形)

もて興ずれ/ サ変複合動詞「もて興ず」の已然形(係助詞の結び)
※「興」+「す」(濁音化)のため、サ変動詞と判断。

(解説)

田舎住みの人から、とんでもなく怒られそうな勢いの文ですが、(今なら確実に炎上しますかね。けど、炎上しても兼好さんは全く気にしないと思いますが)田舎者が教養がない、と言っている訳ではなく、この時期の都は京。そして、田舎は京以外全ての場所です。

けれど、権力は鎌倉の武士たちが保持している状態です。

なので、これって遠回しに、片田舎=鎌倉に住んでいる武士たち、と言う風にも、受け取れます。

けれど、物に慣れない。つまり、和歌など文化的な面に関して慣れない人々は、それをしっかり味わおうと、粘着し、執着する。

教養があり、満たされている人は、それを楽しむことをさらっとこなしてしまう。

そして、兼好さんが好むのは、このさらっと楽しむ、執着しない物の観方です。

-第5文目-

花のもとには、ねぢ寄り立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み、連歌して、果ては、大きなる枝、心なく折取りぬ。

()
教養のない人たちは、花見に行けば、花の木の下で自分の体をねじり込ませるように割り込んで行って、わき目もふらずにじっと見つめ続け、酒を飲んだり、連歌をしたりして、しまいには大きな枝を平気で折り取ってしまう。

(文法)

せ/ サ変動詞「す」の未然形
ず/ 打ち消しの助動詞「ず」の連用形
まもり/ ラ行四段動詞「まもる」の連用形
て/ 接続助詞「て」(連用形接続)

折取り/ ラ行四段動詞「折取る」の連用形
ぬ/ 完了の助動詞「ぬ」の終止形

(解説)

そして、教養の無い人の説明です。

結構容赦がない。(笑)

まるで、今の花見の風景を批判しているように感じるのですが、これを書いている時。兼好さんの目の前でこのように花見をしていたのは、誰だったのか。

兼好さんは基本、農民などに対してはとても好意的です。けれど、教養がない、とばっさり言い切っているのは、教養があって当たり前の人。

例えば、この時期に権力を行使してわがもの顔にふるまっていた、鎌倉幕府の地頭や守護などのことを指し示しているのではないかと、ちょっと思ってしまいます。

人の上に立つ存在ならば、そんな不様な花見の仕方をするなと言いたいのかなと思うと、この文章。

兼好さんが何に腹を立てているのかも、少し理解ができます。

-第6文目-

泉には手・足さしひたして、雪には下り立ちて跡つけなど、よろづのもの、よそながら見ることはなし。

()
春だけでなく、夏には泉に手や足を突っ込んでひたして涼をとり、冬には真っ白な雪原に下り立ち、自分の足跡を付けようとするなど、すべての物事において、すこし離れた場所から見て楽しむ、という態度がない。

(文法)
さしひたし/ サ行四段動詞「さしひたす」の連用形
て/ 接続助詞(連用形接続)

下り立ち/ タ行四段動詞「下り立つ」の連用形
て/ 接続助詞(連用形接続)

(解説)

えー? 水とかに手を付けたりしたら駄目なの? 

と、言われそうですが、時代は鎌倉です。

この時期、行動力があり、色んな場所に動いていた人は……と、考えると「ああ……」と思えたりするかと。

自分の足跡を雪に付ける、というのも、「自分の場所としたい」という、所有欲がなせる技、とも言えます。

真っ白な雪原を、何故観るだけで楽しめないのだ。

どうしても、自分の跡を付けなくては我慢出来ないのか。

兼好さんの目の前で、雪に足跡を付けて楽しんでいる誰かの姿が少し見えてくるようです。

全てを楽しみ尽くしたい=自分が征服したい、独占したい、損をしたくない。

そんな、楽しみ方は二流で有り、よそながら観る。つまり、距離を取って楽しむやり方を身につけられれば、こんな不快な思いをしなくても済むのにと、言いたいわけです。

【私たちは、どのように物事を楽しんでいるのか】

この段を読んでいると、私たちのものの見方、楽しみ方がどうなのか。ちょっと振り返りたくなります。

けれど、確かに慣れ親しんでいるものは、色んな楽しみ方をしようと思えるし、強く執着して、「今だけだし!」という気持ちにはなりません。

物の見方に、柔軟性があるのか。

執着していないか。

余裕を持っているのだろうか。

そんな風に、この段を読むと、自分の行動を振り返りたくなります。

あっ、ちなみに。

「私……大丈夫だろうか。品の無い、教養の無い人間になっていないだろうか」

と考えられる人は、大概大丈夫です。

品の無い人は、何故か自信たっぷりに、「私は大丈夫だし」と思うんですよね。

さて、貴方はどうでしょうか。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。


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