小国寡民、とは小さい領土の国で、国民は少ない状態が理想である、という意味です。
普通、理想的な国家というと、領土は広く、人口は多ければ多いほど良い、というのが通常でしょう。人が多ければ、それだけ人手が増えるわけですから生産力が高まり、また、国土は広い方が資源を沢山有することが出来るから、豊かな国を実現しやすくなります。
だからこそ、古代の王から近代に続く国民国家まで、権力者たちは領土の拡大と民衆の増加を願ってきたわけです。
現代が抱える問題の一つとして、少子高齢化が叫ばれているのは、この根強い価値感が理想として残っているからでしょう。実際、そうやって私たちは豊かになってきたわけですし。
けれど、古代中国・楚の思想家。老子の考え方は真逆を行きます。
理想的な国家は、領土が少なく、民の数が少ない方が良い。
その方が、争いが少なく、平和な世の中を築ける、としたのです。
約800年近く続いた古代王朝の周が倒れ、群雄割拠の国が列挙していた春秋時代。その戦国の七雄のひとつである、楚の生まれであった老子には、争いが絶えない時代に平和を実現するためには何が必要かと、必死に考えたのでしょう。
その集大成が、この小国寡民には随所に表れています。
【本文】
①小国寡民。②使有什伯人之器而不用。③使民重死而不遠徙雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之。④使民復結縄而用之、甘其食、美其服安其居、楽其俗、隣国相望、鶏犬之声相聞、民至老死、不相往来。
-①の書き下し・訳-
①小国寡民。
小さな国家で、人口が少ない国が理想だ。
-②の書き下し・訳-
②人に什伯(じゅうはく)するの器(き)有るも用(もち)ゐざらしむ。
たとえ他国より十倍・百倍の便利な道具があったとしても、その道具を使わせないようにするべきだ。
(別訳 たとえ他国より十倍・百倍優れた人材や才能があったとしても、その才能を使わせないようにしなければならない。)
什伯=器という訳だが、転じて人の器。才能を指す意もある。
-③の書き下し・訳-
③民をして死を重んじ遠くに徙(うつ)らざらしめば、舟輿(しゅうよ)有りと雖も、之に乗る所無く、甲兵(こうへい)有りと雖も、之を陳(つら)ぬる所無し。
人民に命の尊さと重さを自覚させ、遠くへ移住しようとする考えを抱かせなければ、舟や車があったとしても、それに乗って使う必要はなくなるし、鎧や武器があってもそれを使って戦争を起こさせないようにする。
-④の書き下し・訳-
④民をして復た結縄(けつじょう)して之を用ゐ、其の食を甘(うま)しとし、其の服を美とし、其の居(きょ)に安んじ、其の俗を楽しましめば、隣国相望み、鶏犬の声相聞ゆるも、民老子に至るまで、相往来(おうらい)せず。
人々を古代の、文字がまだない時に縄を結んで契約をしていた時代の生活に立ち返らせ、人々にそれぞれの食事を美味しいと感じさせ、それぞれ身につけている服を美しいと思わせ、それぞれの住居に満足させ、自分達の風習や習慣を楽しいと感じさせるようにすれば、人々は今の生活に心から満足し、たとえ隣の国が互いに見える位置にあり、犬や鶏の声が聞こえてくるほど近くにあったとしても、年老いて死ぬまで国同士で行き来をして交流することはなくなるだろう。
【老子の思想】
突っ込みどころ満載な本文で、これを読むとほとんどの生徒が、「進化するなってこと?」と首をかしげます。
その通り。老子は、人々が争うのは先を競って色々な道具を開発するからだし、道具があるから交流をするようになり、交流をするから、争いが絶えなくなる。他を知らなければ、それを欲しいとも思わないし、今あるもので充分満足できるのだ。古代の人々は平和に暮らしていたのだから、古代の生活に戻れば、平和は実現する、と言っています。
有る意味、貧乏に戻ろう! とも受け取れる文章です。けれど、老子の目的はそもそも、豊かで恵まれた生活をしよう。才能を開花させよう、という願いではなかった。
彼の願いは、ひたすらに「争いをなくすこと」だったのです。
争いが絶えないのは、人為的・作為的な行動が争いの原因になっている。ならば、それを全て廃し、自然のありのままの生き方。「無為自然」の思想に基づいて生きようという考えを説いたわけです。
万物の根源の「道(タオ)」に沿うことを理想とし、それに反する人為を徹底的に嫌いました。同時代の孔子が説いた「仁」も、人為的だと否定したほどです。
恐らく、散々戦乱を目の当たりにしてきた老子は、「どうすれば争いが無くなるのか」「どうやったら人は人を害せずに済むのか」ということを徹底して考え、極論では有りますが、「争いが起こらないこと」を第一目的と据えて、この小国寡民を書きあげたのでしょう。
人の争いの種は、常に不平不満から発します。
何かを欲しいと思うのは、持っている人がいるからです。
ならば、持っている人をなくしてしまえばいい。それを知らないような状況にさせればいい。便利な道具や才能を持っている人でも、それを登用しなければ才能の発揮どころは有りません。そうなると優劣が無くなるから、そもそもそうなりたいという願望も無くなる。誰かに嫉妬することもなく、争いは起こらなくなる、という展開です。
たとえ物があったとしても、必要がなければ使いません。必要でないように、しむければ良い。だからこそ、言葉も便利な道具なのだから、それを使ってすらいなかった古代に戻り、今あるものを美味しい、美しい、充分だとすれば、他の場所に行きたくなくなる。行きたくないのだから、車も舟も使わなくなる。
そうすれば交流もせず、人と会うことも無くなるのだから、争う切っ掛けなど起こる筈がない、という極端な考え。
老子は国家という考え方も、真っ向反発しました。大国周の没落を見ているからこそ、「国家」は人間のエゴの塊によって人為的に生まれたものだという思想が根強く残ったのでしょう。
人は、自給自足で事足りる。最小単位の、それこそ顔と名前が全ての人で共有できるくらいの小さな単位で過ごすのが、争いを起こさない社会の理想的な有り方としたのです。
【足るを知る】
この老子の思想は、正しい、正しくない、という二極で考えるではなく、性善・性悪説と一緒で、「こういう考え方もある」という、物の考え方の一つの指針として頭の中に残しておくものです。
どうしても、どちらが正しいのかという考え方になってしまいがちなのですが、多種多様な考え方が世の中には有っていいはず。その中に、ひとつ。「古代に帰ることで、争いがなくなる」という思想がある、というだけのことです。
判定をするのではなく、理解をし、知識の一つとして頭の中に入れておく。
そんなイメージで受け取ると、老子の思想も理解しやすくなります。
老子の思想で、この小国寡民の中に色濃く浮き彫りになっている部分は、「足るを知る」ということです。
今手に入れられるものを、美味しいと感じ、美しいと思い、自分の住居に満足するという最後の文に描かれたもの。
これは、衣食住を充実させる、という意味ではありません。
豊かで、快適な暮らしを目指すのではなく、今あるものを受け入れ、許して、認める。「足るを知る」という思想です。
人はもともと、己のない部分。持っていない部分に、どうしても焦点が当たりがちです。
「ない」と感じるから、「欲しい」と感じる。「欠点」を見つけるから、「完璧」を目指そうとしてしまう。
もっとより良いものを。もっとより完璧なものを。
もちろん、人々が発展し、進化を続けるにはその思考は不可欠なものかも知れません。この考え方が、自分の外に向いているのならば、まだ良いです。
けれど、これが自分に全て向いたとしたならば、どうなるでしょうか?
常に自分の駄目な部分を見つめ、自分に駄目だしをし、一時も休まる時すらなく、常に完璧であることを要求し、頑張り続ける。
褒められても、「いや、こんなのまだまだです」と良い、常に先を。もっと上をと望むのは、一見とても良いことなのかもしれないけれど、それを続けていったとしたら……休まる時がありません。
「足るを知る」とは、自分に与えられた環境に不満を抱かず、受け入れる精神を言います。~だから、駄目なんだ。という考え方ではなく、~だったからこそ、得られたものもあるし、出来るようになったこともある、と環境や状況を受け入れてしまう。
ああ、この状況で良かったと心の底から思えた時、人は満ち足りた幸福を知り、他者を羨むことが無くなる。与えられた境遇が、唯一無二の物だと受け入れる事によって、本当の意味で自分の人生に向き合えるという思想です。
頭が悪い、容姿が醜い、背が低い、能力が無い……etc…..
それらを嘆くのではなく、受け入れ、まただからこそ出来る事もやれることもあると許容した時、心に嫉妬や妬み等の争う心ではなく、平穏・平和が訪れる、と。
出来ない事を嘆いても仕方がありません。
なら、ないものではなく、あるものに意識を集中する。そして、それがあって良かったと自分自身を、その長所も短所も全て含めて唯一無二の存在だと受け入れることに、心の平安を得る唯一の道があると、老子は言っているわけです。
~だから、駄目なんだ、ではなく、
~だからこそ、出来る事がある。と考えてみる。
~のところには、「背が低い」「お金が無い」「頭が悪い」「成績が取れない」「容姿が劣っている」「太っている」「いじめられている」
ネガティブだと思う、色んな事を入れてみてください。でも、だからこそできる事って、有るんです。本当に。
物事は、色んな考え方の切り口を知ることで、視野が広がります。
「足るを知る」
心の平安が乱されそうになった時、是非思いだしてみてください。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
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