人の本質は善でしょうか。それとも、悪でしょうか 性善・性悪説 まとめ その5~漢文解説

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こんにちは、文LABOの松村瞳です。

今回は、性善説、性悪説のまとめです。

人間の性質は善である。いいや、人間の性質は悪である、とした二つの考え方を紹介しました。→参照 人は善悪どちらの性質なのか 性善・性悪説 その1~漢文解説「孟子」(公孫丑上)~「不忍人之心」

今回は、孟子、荀子の二人の思想家の考えを比較し、どちらが正しいのか。そして、どちらの考えが理を通しているのかを語ります。

どちらの考えが、より理にかなっているでしょうか?

そして、長所があるからには、短所。欠点も見なければなりません。そこを考えてみましょう。

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【性善説の利点と欠点】

人間の性質は善である、と説いた孟子は、その道の到達点として仁徳の気持ちを基礎として、王道政治を説きました。

人の性質は善なのだから、善行を行えば必ず人の心は反応してくれる。それが通じないのは、何かしらの環境の問題が大きいのだから、人が自分の心にある善の気持ちに素直になれるように、仁に根差した行いを君主はすべきだと言う意見。

そして、孟子はその善なる性質の根拠として、井戸に落ちそうになっている子供を観たら、誰もが助けようという気持ちになる、という事を示しています。

~孟子の論の欠点~

孟子の論に対して疑問を抱くのは、彼の意見は大人ー有る程度の教養を持ち、健康な肉体を持っている存在ーを基本としているところです。

何が危険なのか。井戸に子供が落ちたらどうなってしまうのかを想像できる存在が、「あぶないっ!!」と思い、助けようと考えてしまう。

つまり、孟子の考え方は、人間の本質を説いていながら、そこに存在している人間の姿は、成人し、有る程度自分で物を考えられる存在であることが、主軸になっているという事です。

人間の本質を説くのならば、誰でも当てはまらなければならないはずであるのに、子供の存在が除外されているのが、どことなく腑に落ちない部分です。

そして、「四端の気持ち」がなければ、人間ではない、とまで強く言い切っている論説は、理想論だと感じる人も少なからずいると思います。

~孟子の論の利点~

けれども、この欠点が利点とも繋がります。

有る程度、教養を持った存在。つまり、義務教育をしっかり行った人達が多くいる状況で、環境が整えば、人は必ず善行を喜ぶし、それを破ろうとはしなくなる。ルール、規約などを厳しくしなくとも、人は人に思いやりを持って接することが出来る、と進言していることです。

罰を重くしなくとも、人が善行をするように政治を行う。国の環境を整えると、人は勝手に善行をするようになる、と語っています。

言っていることは、「それは、理想だよ」と言い放つこともできるかもしれませんが、歴史を振り返ってみても、実刑としての罰を重くするよりも、人の罪悪感を強く意識させていた時の方が犯罪数が減っています。

道徳観や、宗教観。すごーく身近な例で言うと、「お米は一粒も残しちゃいけない。バチが当たるよ」という、おばあちゃんの言葉です。

出されたものを全て綺麗に食べたり、美味しいと言ってもらえる。身体的な理由で(小食や体調不良などで量が食べれない、など)残したとしても、申し訳ないと言われたら、その食べ物を作ってくれた方は、素直に気持ちが良くなりますよね。

温かい気持ちをもらうと、素直に温かい気持ちを返したくなる。

そんな人の心の動きは、その人が持っている道徳観や知識に根差している物です。孟子は、その人の心の動きに焦点を当てて、性善説を説いたのでしょう。

王道政治を説いた、孟子らしい意見とも言えます。

【性悪説の利点と欠点】

荀子の説はその逆です。

人の本性は悪である。なぜなら、どうしても利益を好む性質が人間には備わっているから。

これは、納得のいく言葉ですね。子供であったとしても、赤ん坊であったとしても、自分にとっての利益。心地よさを求める気持ちというのは、人間に備わっている気持ちです。

だからこそ、利益の奪い合いが起こってしまうし、人に譲る気持ちというのが、芽生えなくなる。

感情のままに行動してしまった時、人は争い、奪い、秩序を乱すような混乱状態が起こってしまうのだと。

~荀子の論の欠点~

性悪説は、初読でも納得できる論理です。美しさに惹かれたり、人よりもちょっと良い思いがしたいという願望は誰にでも少なからず存在するし、心の中に獣が存在している、という表現は、多くの小説家が語っていることです。→参考 小説読解 中島敦「山月記」解説 その3~人の心に棲む獣の正体~

人の本性は悪。だからこそ、人を善の行為に導くために、後天的な教化が必要であり、そのためには、「礼」の気持ちをひろめなければいけないという、「礼治主義」を主張し、これが、荀子の弟子である韓非子などに引き継がれ、「法治主義」つまり、法による政治の統制、国家の運営法が説かれる切っ掛けとなりました。

つまり、感情に任せて動いてしまうと、必ず混乱状況に陥るのが人間なのだから、それを何かで押さえなければならない、としたわけです。

すると、国家の運営法としてはその何かは法。法律で人を縛る、と言う事になっていきます。

すると不思議なことに、人を縛り、統治する側の人間が権力を握っていくことになり、行き過ぎてしまうと国家の権力が増大する可能性も出てきます。

刑罰のとても厳しい、恐怖政治を招きかねない部分がある。その証明のように、この荀子の考え方を引き継いだ韓非子は、圧政者として名をはせた秦の始皇帝にとても好まれました。韓非子が生きながらえていたのならば、もしかしたら、始皇帝の横に韓非子が立っていたのかもしれません。(その前に同僚に罠にかけられて投獄され、毒を送りつけられるという、とても悲惨なエピソードが残っています……)

~荀子の論の利点~

けれども、個人の話までスケールを落とすと、自分の本質は悪だと自覚していると、ほっとしたり、安らいだりする時がありますよね。

不意に嫌なことが起きて、自分の中にとてつもなく嫌な感情がわき上がる瞬間が、人間なのだからどうしたってある。

四端の気持ち以外の感情も、人間には有ります。どことなく、相手のことを羨ましいと思ったり、自分は馬鹿だと思いたくなったり、やりきれなくなったり。

勉強しなきゃと思っているのに、サボってしまう……なんてこと、有りますよね。

でも、そんな時に、「そういう気持ちのときだって有るよなぁ」って認めてしまうと、逆に頑張れたりするものです。

勉強で言ったら、「サボり魔」だと自覚している人間の方が、勉強したりするんですよね。苦手だし、自分は頭が悪いから、やらなくちゃと努力する。自分の悪い部分、汚い部分を認め、受け止めると、逆に「そうならないように」「このまま放っておいたら悪い方に行く!」と思えるものです。

自分が悪だと自覚することで、逆に「そうならないように」と思う気持ちが、学ぶ姿勢を作ってくれる。

荀子の性悪説を読むたびに、そんな気持ちになってきます。

自分の中の悪の存在を認めると、コントロールが可能になる。

性悪説は、個人のコントロールと言う点では、とても理にかなった考え方です。

【結局、どちらが正しいのか】

この性善説・性悪説を教えると、決まって「どちらがより正しいのか」という議論になるのですが、ぶっちゃけ言うと、「どっちも正しい部分がある」と言う事になります。(笑)

この世に、絶対の真理という思想は有りません。欠点のない人間が存在しない。完璧な人間が存在しないように、欠点のない完璧な思想、というのは存在しないのです。

だからこそ、「貴方はどちらが好きですか?」と、何時も生徒には問いかけています。

どちらを心に置いておきたいのか。どちらが心が惹かれるのか。

それだけです。

【性善説・性悪説の共通点】

そして、この二つの思想には、奇妙な共通点があります。

性善説は、人間の本性は善だ。けれども、環境や状況によって、人は悪行に流されてしまう時がある。

性悪説は、人間の本性は悪だ。だから、感情に任せて動いてしまうと、混乱状況に陥ってしまう。

だからこそ、人は学ばなければならない、と二つの説は結んでいます。

性善説は、悪行に押し流されないよう。常に、自分の善の心に従って行動することが出来るように。環境に負けないように、悪行に手を染めないように、学ぶ必要がある。

性悪説は、感情に振り回されないように。心の中の獣を飼いならす為に、自分が崩壊しないように、自分自身のコントロール方法を、学びとらなければならない。

両者とも、勉強大事!! と結論付けています。

「えー、こんなこと習って何の役に立つの―?」

というお決まりの質問に、一つの明確な解答を与えてくれる孟子と荀子に感謝ですね。

 

貴方は、性善説、性悪説。どちらが好きですか?

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

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