小説読解 志賀直哉「城の崎にて」その2 ~蜂の死~


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こんにちは、文LABOの松村瞳です。

まずは、昨日のおさらい。

【死に親しむ、とは】

生死の境を体験したら、何かが変わるだろうな……

例えば、自分が自動車事故に遭ったり、地震などの災害に遭ったとしたならば、何か生きることにして価値観が変わるのでは。生き残ったのだから、何かしら「生きる意味」を見出したり、何かしらやり遂げなければならない事や使命感を抱いたりすることがあるのでしないかと、期待していた主人公すが、全くと言って良いほど、そんな特別な感覚は訪れてこず、あるのは「死に対する親しみ」のみが湧きあがってきています。

この、「死に対する親しみ」

言い換えるのならば、死んだ者に対する興味、と言って良いかもしれません。死んだ存在。命がない、生きていないもの。そんな存在に、主人公は心ひかれていくようになるのです。

 

【主人公の目にとまった蜂の死骸】

ある朝のこと、自分は一匹の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。(本文より)

この主人公は、小説家志賀直哉、本人です。

身体を療養しながら、やることと言えば、本を読むか、小説を書くか。それ以外は、温泉に入るか、散歩をするか、寝るか。要するに、暇な時間をだらだらと過ごしていた。

特に、志賀直哉はなぜか病弱と言うイメージがありますが、(理由は、この「城の崎にて」の療養生活小説が有名になったから)本人は、とてもスポーツマンで、健康体だったそうです。(そうでなければ、電車にひかれて無事だったというエピソードもうなずけるというか、何というか……中々出来ない体験ですよね。)

だからこそ、動きたくとも身体が満足に動かない状況と言うのは、もどかしかったのでしょう。動けない人間と言うのは、自然、見るものに興味が引かれていきます。

その彼の視界に移り、彼が興味を惹かれたものが、蜂の死骸だったのです。

その蜂の死骸を、彼は手に取るわけでもなく、片付けるわけでもなく、ただ、じっと眺めていたのです。

「死んだ存在」というものに、興味をひたすらに惹かれていた。

この状態が、小説の中で描かれている、「死への親しみ」だったのでしょう。

劇的な変化は訪れなかったのだけれども、事故を境に、どうにも「死んだもの」に興味が引かれて仕方がない。動かないその姿が、「寂しいけれど、静かである」と、その動かない様子を、延々と彼は飽きることなく眺めていきます。

【動かないものへの、親しみ】

よくよく考えると、少し怖い状況ですよね。

事故に遭い、死ぬような目に遭った人が身体を休めている時に、延々と蜂の死骸を黙って。ただ、黙って眺めている姿。

現実に目の前に居たのならば、心療内科医のところに連れて行こうかなと、ちょっと心配になってしまいそうな光景です。

けれど、劇的な変化は訪れなくとも、静かに、けれども確かに主人公の心の中に変化が訪れていました。

これは、人の心理的変化と言うのは、明確な切っ掛けがあって訪れるものもあるけれど、それは本当にとても稀なことで、現実は死ぬような目に遭ったとしても変化はゆっくりと。そして静かに訪れるという事を、暗に示しています。

忙しく立ち働いている蜂にはいかにも生きているものという感じを与えた。その脇に一匹、朝も昼も夕も、見るたびに一つの所に全く動かずにうつ向きに転がっているのを見ると、それがまたいかにも死んだものという感じを与えるのだ。(本文より)

綺麗な対比で描かれている、生きているものと死んだもの。

生きているものは忙しなく動き、死んでいるものは動かない。当たり前と言えば当たり前なのですが、それを屋根の上に転がっている蜂を見ながら、思うわけです。

ああ、死んでいるという事は、動かない、という事なのだ……

と。

そして、スポーツマンである主人公も、今は療養で動いていません。だからこそ、動かないもの=死、に対して、親和性。親しみを覚える。ああ、今の自分と似ているなと、思ってしまう。動かない事に、どんどん興味が惹かれてくる。




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せわしくせわしく働いてばかりいた蜂が全く動くことがなくなったのだから静かである。自分はその静かさに親しみを感じた。(本文より)

死=動かない=静か=親しみ、親近感を得る。

まるで、今の自分と同じような状況だと、そう思いながら、動かない存在に心惹かれて行きます。これは、「死にたい」と思っていることではありません。

「死にたい」というのは、あくまで動的な行動です。主体性を持っていて、言い方が悪いかもしれませんが、ある意味自分の意志で、やる気があって、行うものです。死ぬ意識、という明確な「死にたい」という目標がある行動です。

主人公の意識は、そうではありません。

そんな動的な感情ではなく、ただ、今の怪我で動いていない自分は、死んで、動けない状態の死骸の蜂の静けさと似ているなと、淡々と感じているだけです。

死骸を見ながら、「ああ、似ているな」と思う。

そして、ならば動かない存在」という物を描き出してみたいと、執筆中の小説の中に出てくる登場人物で、死んでしまう存在の意識を描いてみたいという願望までもを抱いています。

しまいに殺されて墓の下にいる、その静かさを自分は書きたいと思った。(本文より)

似ているから、今ならば死んでいる動かない存在の意識を描き出せるかもしれないと、思ったという事です。だから、その真逆にあたる、「暗夜行路」の主人公。父との確執に苦しみ、反発し行動し続ける主人公の姿とは真逆だったので、頭が混乱して弱ったとまで、書き添えてあります。

そりゃそうですよね。

動かない存在を描きたいと思いながら、抱えている長編の主人公は、ある意味では行動力溢れる存在です。真逆のタイプを同時に書けないから、結局その墓の下の妻の存在は書かずじまいなのですが、動かない事はまるで死んでいるのと同じで、良く似ていると蜂の死骸を見ながら主人公、志賀直哉は思うわけです。

自分の意志で何かをせず、死んだ蜂が雨水に押し流されてしまったように、周りの状況に流されて、静かに動かず、為すがままにされているという状況は、死んでいることなのだろうと。

【通常とは違う精神状態】

本当に淡々と進んでいる小説なので、うっかり読み飛ばしてしまいそうなのですが、これ。

個人的に静かな狂気。一種の冷たい恐ろしさを私は感じたのですが、皆さまどうでしょうか?

蜂の死骸をただじいっと眺め続ける。

生物学的な興味や、標本にしたいという欲求ではなく、

「あ~、死んでるなぁ。動いてないなぁ。静かだなぁ、なんだか、僕と似ているなぁ……」

と、思っているわけですよね。朝と、昼と、夕方と、その日の次の朝にも、蜂に興味が向いている。何かが気になって仕方がない状態。

事故に遭って、特別な変化はなかったと書いてありますが、充分異常な精神状態だと思うのですが……

常に死と接し、死と語らい、死と仲良くなる……

死に親しみを感じるって、傍から見たら「おい、ちょっと大丈夫か?」と問いかけたい状態です。

そんな、少し通常とはずれた感覚で、主人公の目にはまたひとつ。命を落とす存在が、強烈に目に焼きつきます。

続きはまた明日。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

続きはこちら⇒小説読解 志賀直哉「城の崎にて」その3 ~自分の死の瞬間は、どのように迎えたいか~


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