小説読解 志賀直哉「城の崎にて」その3 ~自分の死の瞬間は、どのように迎えたいか~


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こんにちは、文LABOの松村瞳です。

死に親しみを感じている主人公の私。特に主人公が親しみを感じているのは、「死」の静けさです。静かで、停止しているのが良い。その静かに、動かない事が寂しいのだけれども、何となく気持ちが安らぐような気がしてしまう。

自分の命が危うくなる事故を経験した後、劇的な変化は訪れはしなかったけれど、「死」というものに対して、敏感に、そして惹かれて行く主人公。特にその静けさに惹かれるのですが、今回の読む部分は、この主人公の望む、静けさとは真逆の、死の「苦しみ」の部分に、焦点が当てられていきます。

鼠の首に、魚串が刺さっている……そんな光景、あまり想像したくありませんが……

【残酷なシーン 鼠を痛めつける子供たちと大人】

志賀直哉の小説が読みにくい理由は、主人公や登場人物の感情の起伏が読みとれない部分が多いからです。

この鼠の描写もそう。

淡々と、自分の視界に映った現実と、そしてその光景に連想された自分の思考を描き出しているだけとなります。

だからこそ、主人公が何を思ったのかが解りづらく、連想しなければならないので、そこが読みづらく感じてしまうのでしょう。

けれど、志賀直哉は敢えてそれを排すことによって、その光景を読者である私たちがまるでその場にいて、光景を見ているように克明に描き出すことによって、私たちに思いを感じさせようとしているように思われます。

川の中で、首に串を刺され、背中側から内側まで貫通している状態で、必死に泳いでいる鼠。その、溺れかけている鼠を見ながら、石垣に鼠が上がろうとすると、橋の上に居た子供たちと大人が、その鼠に向かって石を投げつけているのです。

しかも、笑って。

眉を顰めるような光景です。実際に目にしたら、目をそむけたくなるような光景。けれども、中国の古典思想家。荀子が述べているように、子供と言うものは、時に生き物に対して容赦がない行動をとってしまいがちです。

この子供たちが特別残酷だと言うのではなく、鼠はその性質からあまり好まれていない動物であることは、現在でも否めません。私たちは害虫だと決めた虫に対しては、案外残酷なことをしてしまうものです。(ex ゴキブリ)

 

道徳的な問題の是非はここではひとまず横に置いておきます。

小説の中でも、この光景はたまたま出くわしたもので、主人公もそれを咎めるような行動には出ていません。別に当時は珍しいことではなく、日常的な風景だったから、とも言えるのかもしれませんが、それよりも、主人公が脳裏に焼き付いたものは別なものだったからです。

【目の当たりにした、「死」の前に訪れる苦しみ】

鼠は死を逃れようと必死です。上から降ってくる小石を避け、なんとか溺れそうになる状態から抜け出そうと、川の中を必死に泳ぎます。死から、全力で逃げるために足掻き、もがき続けているその姿。それが、主人公「わたし」の脳裏に焼きつきます。

ねずみが殺されまいと、死ぬに決まった運命を担いながら、全力を尽くして逃げ回っている様子が妙に頭についた。自分は寂しい嫌な気持ちになった。(本文より)

ねずみの逃げ回る姿を見て、主人公は「寂しい嫌な気持ち」になります。

国語の問題の御約束なのですが、この場合、何が、「寂しい」気持ちを湧き起こさせ、どういうことが、「嫌」だったのかを明確にして解答をしなければ減点になってしまいます。

寂しい、とはまずどういう事なのか。

主人公は、死に親しみを感じていたわけです。特に、その静寂さに、惹かれていた。静けさ、落ち着いた雰囲気に惹かれていたわけです。

「寂しい」とは、心が満たされない状態のこと。

と言う事は、望みが砕かれたという事に繋がります。主人公の望みは、死は静寂の許に訪れ、静かな、静謐な雰囲気をまとったものであって欲しかった。けれど、それがねずみの足掻く姿を見て、砕かれたわけです。

あれが本当なのだと思った。自分が願っている静かさの前に、ああいう苦しみのあることは恐ろしいことだ。(本文より)

つまり、ねずみの足掻く姿。死にたくないと、生にしがみつき、足掻き、苦しむ姿は死の静寂とは程遠いものであり、必ず苦しみがまとわりついている。そして、それが現実だと主人公は悟るわけです。

ああ、死の前には自分の望む静寂ではなく、苦痛が、苦しみが存在するのだと。望みとは、真逆の状態を経験しなければならないのだと。それが、「寂しい」と感じる。

そして、「嫌」という感情は、そのままずば、やりたくない事、です。

好ましくない、出来れば避けたいという状況の事。

避けたいのは、死の前の苦しみです。




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けれども、ねずみの状況が、ある意味では死を迎える生物の真理であり、現実なのだろうと悟り、死の前の苦しみが避けられないという事実が、嫌なのです。

どんな動物でも、死に直面すると、もがき苦しむ。その苦しみからは絶対に逃れられない事が嫌で、死の静寂に親しみを感じている自分の心は決して満たされないものなのだと思う事が寂しいと、言っている。

そして、あのねずみの足掻いている姿は、まるで電車に轢かれた時の自分と同じであると、考えていくのです。

【死に直面した時、生きるために足掻いた自分】

今自分にあのねずみのようなことが起こったら自分はどうするだろう。自分はやはりねずみと同じような努力をしはしまいか。自分は自分のけがの場合、それに近い自分になったことを思わないではいられなかった。(本文より)

電車に轢かれてから、生きるために必死に様々なことをしたと、書いてあります。当然のことのように思いますし、自分の傷が致命傷なものであるのかどうかを気にし、致命傷でないと友人から聞いた時に、俄然元気が湧いてきたと描かれているのは、人間としてむしろ当然の姿のように思うのですが、ここで面白いことを筆者は描いています。

その、まさに生死の境を彷徨って、生きるために最善の策を講じていた時は、死の恐怖、というものに殆ど襲われなかったというのです。

しかし、致命的のものかどうかを問題としながら、ほとんど死の恐怖に襲われなかったのも自分では不思議だった。(本文より)

(略)

しかし、ふだん考えているほど、死の恐怖には襲われなかったろうという気がする。(本文より)

これは、とても面白い指摘です。

【死に対する恐怖は、死から遠いところで感じるもの】

実際に現実として死の境を彷徨っている時は、死の恐怖を感じない。

生死の境では、生きることに必死ですし、生き延びるために最善の方法はと、頭がフル回転で考えているからでしょう。恐怖を感じる余裕など、無い、と言いきっても良いかもしれません。

つまり、普段の状態。健康体で、まともな生活をしていて、死の危険など何も無い状況で、人は死の恐怖を感じる余裕が出てくる、と指摘しているのです。

問題の渦中の真っ只中に居る時と言うのは、抜け出す為に必死ですものね。だから、「怖い」とか、「恐ろしい」という感情は、自分がその状況とは程遠いからこそ、考える、感じる余裕があるのだと。

確かに、ねずみをみている「自分」は、死に直面はしていません。だからこそ、足掻く鼠を見て、恐怖する余裕が出る、という事です。

そして、今自分が生死に直面したら、どうなるだろうと、「自分」は考えていきます。

【「両方が本当」と言い切る、自分】

この鼠の最後の部分が、間違いなく問題として出題される部分です。

なので、丁寧にいきましょう。

で、またそれが今来たらどうかと思ってみて、なおかつ、あまり変わらない自分であろうと思うと「あるがまま」で、気分で願うところが、そう実際にすぐは影響はしないものに相違ない、しかも両方が本当で、影響した場合は、それでよく、しない場合でも、それでいいのだと思った。それはしかたのないことだ。(本文より)

この、両方、というのは、どういう事なのか。

これは、「自分」がここまで眺めた、「死」の姿とリンクしています。

一つは、「蜂」

もうひとつは、「ねずみ」です。

「蜂」の死は、静寂でした。静かで、動かず、じっとしていた。「自分」が惹かれた、死の姿。静謐なものです。

対し、

「ねずみ」の死は、真逆です。死の恐怖を感じる余裕などなく、生きるために足掻く。どうにか、この「死」という状況から逃れようと、必死にあがき続け、苦しみの真っ只中にいて、助かるために努力をし続ける。それこそ、死に切る瞬間まで生きるために努力し続ける。

今、自分が死に直面したら、どうなるのだろう。

そう考え、

「あるがまま」で居たいなと思っても、多分それは死に直面したら影響などしないだろう。そんな余裕など、無いに決まっている。

けれど、

「蜂」のように、静寂の中で死を迎えることが出来るのか、はたまた、「ねずみ」のように、生きることにしがみつき、足掻き、死に切るまで苦しみ続けるのか。

真逆とも言える死に対する態度ですが、そのどちらも真実であり、「あるがまま」のこの状態のまま、静かに死を受け入れたいけれど、その願いが死に直面した時に影響して、静かに受け入れられても、それはそれでいいし、影響など全くせず、電車に轢かれた時のようにそんなことを考える余裕も全て吹き飛んで、生きるために、助かるために努力をし、足掻き、苦しんでも、それはそれで良いと思える。

だってそんなもの、実際体験してみなければどうなるかなど解らないのだから、今考えても、仕方がないし、死に直面する人間の、動物としての現実を受け入れようとする「自分」の姿が垣間見えます。

 

この主人公。「自分」が考えた、死に直面した時の態度。

貴方であったなら、どうその瞬間を迎えると思いますか?

静かに、静謐の中で死を迎えたいか、いや、きっと最後まで苦しんで足掻き続ける状態で死を迎えるか。

そう考え続けた「自分」は、まぁ、今生きている状態で考えても、どうしようもないかと、考えるのを諦める、というよりは、その残酷な動物としての現実を受け入れ、認めていくしかないのだろうと前向きに享受しようとしています。

そうして、こんなふうに死ぬことに対して延々考えられるのは、ある意味では余裕の中で「生きている」状態である、とも言えるのでしょう。

本当に命が危ない状況だったら、そんなこと考える余裕はありませんものね。

そして、お話しの続きは、最後。三つ目の生き物の死に向かっていきます。

続きは、また明日。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

続きはこちら⇒小説読解 志賀直哉「城の崎にて」その4 ~「人と違う」という孤独~

 


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