こんにちは、文LABOの松村瞳です。
「城の崎にて」も、まとめとなります。
【蜂・ねずみ・いもりの死】
山の手線に轢かれ、九死に一生を得た主人公は、療養のために城崎温泉を訪れます。そして、約3週間。死について、一人延々と孤独に考え、三つの生き物の死に、出会います。
死んだ蜂はどうなったのか。その後の雨でもう土の下に入ってしまったろう。あのねずみはどうしたろう。海へ流されて、今ごろはその水ぶくれのした体をごみといっしょに海岸へでも打ち上げられていることだろう。そして死ななかった自分は今こうして歩いている。そう思った。(本文より)
「自分」が親しみを感じていた蜂の死後を思い、寂しい嫌な気分になったねずみのその後を思い、そして、死なない自分は今、こうして歩いている。
その全てが、偶然にすぎない。自分が、殺意なくいもりを殺してしまったように、全ての生物の生き死には、偶然が支配している。
偶然に死んだいもり。
偶然に生きている自分。
【感謝=ありがたいと思う気持ち がわいてこない】
自分はそれに対し、感謝しなければ済まぬような気もした。しかし実際喜びの感じは湧き上がってはこなかった。(本文より)
全ては偶然が支配しているのだから、自分を生かした偶然に感謝しようと「自分」は思うのですが、感謝に伴うはずの喜びが、どうしても湧きあがってこない。
偶然によって生きていることに「ありがとう」と思えるような喜びが湧き出てこない。だから、感謝も出来ない、と言っているのです。
ただ、感じるのは、寂しい気持ちだけです。
不確かで、足を踏む感覚もどこか現実感が無く、ただただ、辿り着いた死の結論が、寂しく、不確実で、けれども頭の中からその考えが離れていかない状態です。
自分が生きていることがただの偶然なのだと思えば思うほど、何かに生かされているとか、自分には何かやらなければならない事がある筈だと、使命感や何かしらの事を成し遂げたいという達成感もわいてこない。
ただ、今自分が此処に居ることすら、偶然で、たまたまで、生き延びているのもただ、単に運が良かっただけにすぎない。
だからこそ、その運に感謝すべきなのだと思うのだけれども、どうしても感謝の念が湧いてこないのです。「ありがとう」と思う事も、出来ない。
淡々と描かれていますが、この真理に到達した瞬間。愕然とした「自分」の動揺が、畳みかけるような文の書き方に表れています。
きっと、それを理解すればするほど、目を見開き、そして違うと思いながらも、否定も出来ない。
そんな虚しさや寂しい気持ちが、「自分」の頭の中を離れていかないのです。どうしても、振り払う事が出来ない。
【生きていること 死んでいること】
生きていることと死んでしまっていることと、それは両極ではなかった。それほどに差はないような気がした。(本文より)
私たちは、生きていることの真逆に位置するものは、死んでいることだと思ってしまいます。この「自分」も、生の反対は死と、当たり前のように思っていた。
忙しなく動いている生きている蜂たちと違って、死んでいる蜂の死骸はぴくりとも動かない。
だから、この城崎温泉に来て、蜂の死骸に出会い思ったことは、生きている物は動き、死は静寂で動かない、対照的なものだと認識するところから、始まっています。
けれど、鼠が死の前に足掻き、苦しむ姿を見て、ああ……死の静寂は良いけれど、死の前に生き物は足掻くものなのだ。生きるために、必死に生き残るための選択をするのだと、改めて自覚する。死に直面すると、穏やかに受け入れたいと思っていたとしても、実際に自分がそうであったように。そして、自害を知らないねずみが苦しみの中で足掻き続けるように、生物として死を否定してしまうのだと。
死に直面していない今、何を考えていたとしても、死に直面したら全てが吹っ飛んでしまうかもしれない。死の静寂を穏やかに受け入れられないかもしれないけれど、それはそれで仕方がないのだと、死の直前の苦しみを受け入れる姿勢を見せます。
そして、偶然にいもりを殺してしまった衝撃で、死は突然、偶然のように訪れるもので、そこに生き物の意志は全く関係が無く、ただ、偶然が全てを支配しているのだと、「自分」は衝動的にその考えに辿り着いてしまうのです。
生き物の生き死にまでもが偶然で成り立っているのならば、今こうして自分が生きていることも偶然であり、もしかしたら生と死は対極に位置するものではなく、連続するもの、続いていくもの、単なる偶然によって決まるもの。同一のもの(それほど差が無いもの)なのではないかと、独特の思考は続きます。
生きている物は、偶然に死なずに済んでいるだけの存在であり、何かのはずみや偶然によって死んでしまう事もあるのだ。その全ては偶然で、何かの意図が働いていることは、一切無い。
これは、生死に特別な意味づけをするのは、無意味だという事です。
自分は何かに生かされている。生きて、何かを果たすべき仕事があり、そういった宿命や運命を背負っているのだという認識は、ただ、その本人がそう思い込みたいから思い込んでいるだけに過ぎず、本人が生きているのは、それまで単に死がめぐってこなかっただけのことである、と。
要するに、城崎温泉に来て、延々と生死の事を考え続けたけれど、自分のその行動自体、(生死を偶然が支配しているのならば)とても無意味なものなのではないかと思った瞬間、酷く動揺し、混乱してしまった。
と、語っているのです。
そして、混乱した「自分」は、我慢できたら5週間は居たいと思っていた城崎温泉を3週間で離れます。
本来なら療養のためにもっといなければならなかったのに、3週間、延々と「死」について一人で考え続ける、という一見通常ではない思考に囚われ、それに耐えきれずにこの地を離れます。
三週間いて、自分はここを去った。それからもう三年以上になる。自分は脊椎カリエスになるだけは助かった。(本文より)
この、脊椎カリエスにならなかったことは、本来ならば運が良いと判断できることなのでしょう。けれど、生死は偶然が支配しているだけであるという考えを持ってしまった「自分」は、自分の運の良さに感謝することも、喜ぶことも無く、ああ、単に自分は死ぬ偶然から免れただけのことなのだと、達観したような、諦観のような瞳で、この事実を呟いているような気がします。
【無駄な思考が文学の原動力】
なんだよ、延々と書いてきて、こんな結論かよ!!
と、思いたくなる人も居るでしょう。「つまらない」と断ずる人も、居るかもしれません。
作者、志賀直哉の行き写しであるこの「自分」という人物が辿り着いた結論が、正しいのかどうか、という質問を良くもらうのですが、文学は正しいか間違いかを判断するものではなく、こういう考え方もあるのか、という指針を示し、一つの物事の考え方を自分の心を耕す為に知る行為です。
だからこそ、先ず理解しようと努めてみてください。
こんなふうに、この人は考えたのだと。その行為や、考えの是非を問うのは、感想文の仕事です。だからこそ、今は理解をする。理解をした後に、この考えを受け入れるかどうかを、考えてみてください。どちらでも、構いません。どちらであったとしても、それが貴方の感想です。自分の感覚を、大事にしてください。
死について、延々考えた志賀直哉。
けれども、この一見、何の得にもならない無駄なことを考えることが、文学の基礎、根幹です。目で見えないもの。専門用語で言うと「概念」といいますが、それを可視化。つまり、読めるものにしようとした。
この「城の崎にて」で言うのならば、生死の境界線が何かを、必死に可視化しようとした。けれど、考えれば考えるほど、生死の境界線など無く、同一の、差の無いものなのではないかと結論づけてしまった。
その結論に至る過程が、描かれているだけなのです。
日常の生活に溢れ、皆が知っているようで、その実はっきりとは知らない事を、言葉で描き出そうとした。誰の目にも明らかに、形を与えようとした。
【小説の神様 志賀直哉】
「小説の神様」と呼ばれる志賀直哉の凄さは、曖昧なものを語る時でも、飾らず、気取らず、そのままのありのままの文体で描き出そうとすることです。
淡々としたその文章。言葉の美しい音の紡ぎ。一見それは、何の引っかかりも無く、起伏も無く、面白みに欠けるものとして映るかもしれません。
けれど、死に直面した直後の人間がこれを描いたとするのならば、貴方はどう受け取りますか? もし、自分が死に直面したのならば、これほど淡々と書けるでしょうか。
志賀直哉の凄さは、一切の個性的文章特徴を排除したことだと思います。
その特徴をそぎ落としたことが、却って彼の文章を、彼だけに描き出せるものとして後世まで残らせた所以ではないでしょうか。
死を見つめ、死に親しみ、死は偶然に訪れるものだと辿り着いた考えに、混乱する、志賀直哉。死を考えることは、同時に生きることを考えることとも通じています。
「こう生きたい!」という願望が人一倍強かったからこそ、この結論に一番混乱したのは、誰でもない。志賀直哉、本人だったのかも、しれませんね。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
もう一度最初から読む
⇒小説読解 志賀直哉「城の崎にて」その1 ~死に直面した人間の心理~
コメント
高校の授業でこの『城崎にて』を習い、何となく理解できた程度でしたが、このページを見させていただき、かなり理解できたともに、志賀直哉の執筆の独創性とそのおもしろさに気づくことができました。ありがとうございます!
エノモト様
コメント、ありがとうございます。
面白いですよね、志賀直哉の文章。その面白さが伝わったなら、こんなに嬉しいことは有りません。
色んな小説家の文章に、触れてみてください。