小説読解 夏目漱石「こころ」11~エゴに満ちた見せかけの善意~


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「こころ」解説その11。今回は、昨日の続きのシーンです。
(参考⇒小説読解 夏目漱石「こころ」10~復讐以上に残酷な行為~

大修館書店発行では、191p上段2段落目~
筑摩書房発行では、164p下段~
小説段落番号41の後半の場面となります。

この場面は多くの定期テストで取り上げられるシーンであり、この小説のクライマックスに向けてのターニングポイントであり、大きな謎に満ちているシーンでもあります。

記述のポイントになる部分も沢山出てきますので、さっそく見ていきましょう。

【Kの精進とは】

Kはお寺の息子です。お坊さんなることはありませんでしたが、それでも彼の興味は「道」と呼ばれる、人としての理想的なあり方や、この世の真理を追究することに注がれていました。

 

勉強一筋。その為には、他のものは一切排除!な硬い人です。

それを小説では、「精進」という言葉で表しています。

Kは昔から精進という言葉が好きでした。私はその言葉の中に、禁欲という意味も籠っているのだろうと解釈していました。しかし後で実際を聞いてみると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なのですから、摂欲や禁欲は無論、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨げになるのです。(本文より)

Kが人生を生きる上に置いて、先ず第一に守らなければならなかったのは、この「精進」でした。

理想のあり方。この世の真理を追究して学問一筋に生きるためには、余計なもの。欲望に満ちた行いは、全て切り捨てるべきだという考え方です。

小説にもある通り、お坊さんよりもお坊さんらしい考え方ですよね。そして、それを大学で学びながら実践ているK。

その「精進」の意味の中には、学問以外のものは全て、自分の心を惑わす余計なものとして扱っていたのでしょう。

それが、欲を離れた恋であっても、という表現は、明治時代特有のものです。

明治維新後、ヨーロッパの文明が一挙に押し寄せてきた日本の中では、近代化を急ぐべく、欧米化が良しとされ、その中でキリスト教的恋愛観。つまり、肉欲を伴わない、精神的な愛。プラトニックラブ。純愛が恋とされました。

なので、男性としてセクシャルな意味で女性を求めるのではなく、魂やその人間性に触れて、肉欲を介さずに相手を思うことを、恋としていたのです。

ですが、人間の欲に塗れない、高潔な恋。精神的な、崇高なものとしての愛情や恋心までもを、Kは道の追及の為には邪魔なものだとしているのだと、先生は考えていたわけです。

【先生が感じたKからの侮蔑】

Kが自活生活をしている時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。その頃からお嬢さんを思っていた私は、いきおいどうしても彼に反対しなければならなかったのです。私が反対すると、彼はいつでも気の毒そうな顔をしました。そこには同情よりも侮蔑の方がよけいに現れていました。(本文より)

過去、何度もこの「恋」について、先生とKは話しています。先生は、お嬢さんへ惚れていた事実がありますから、「恋は学問には邪魔なもの」と主張するKの意見には従えないわけです。

「いや、恋は学問の邪魔にはならない。むしろ、学問への意欲を強めてくれるはずだ」と主張する先生に対し、Kは気の毒そうな顔をした、と有ります。

気の毒、とは他人の不幸や不運に心が痛むこと、を指します。

つまり、少なくともKは、先生が自分の主張。「恋は学問に邪魔な存在である」という主張を先生が納得できない事に対して、「不運で不幸なこと」「私の言うことが理解できない、可哀想な存在」と見なした、と先生は思っているわけです。

もちろん、先生の目を通している考えですから、本当にKがそう考えていたかは解りません。けれど、先生はそう感じた、と言っているのです。

同情よりも侮蔑、という表現。

同情とは、他者の気持ちを感じ、相手を可哀想に思うこと、です。
侮蔑とは、人を侮り、無視したような態度を取ること。見下し、蔑むこと。軽蔑の意味です。

つまり、先生にとってKの態度は、自分と気持ちを分かち合ってくれる態度のものではなく、見下し、軽蔑されたと受け止めたのです。

君は、学問一筋に生きるつもりがないのだなと、まるで神から裁きでも受けたかのような思いをした。学問以外に大事なものがあると言うことは、それは向上を目指す学生の立場では、あってはならない事だ。そんなことすら、君は理解できないのか? と、言われているような気分になったのでしょう。そして、途中で議論が平行線をたどることを理解したKは、先生に対して、話すことをやめてしまいます。

それを先生は、侮蔑ととったのでしょう。

【善意のふりをした心の中のエゴ】

英語の古い言葉に、地獄への道は善意で敷き詰められている(The road to hell is paved with good intentions)というものがあります。




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地獄へ続く道は、善意。つまり、よかれと思っていた気持ちで、敷き詰められている。良いことをしていると思っても、それが後々悪い方向へと続いていく可能性がある、という言葉です。

この言葉は、色んな事を考えさせられます。

人が、他者にとって「良い人」であろうとすることは、一体どんな意味を持つのでしょうか。

全て、とは言いませんが、良い行いをしようとする人は、どうしても他者に欲思われたいという欲。エゴがあります。それを自覚しているのならば良いのですが、自覚なく、他者の為だと善意の行いをする人は、その奥底に自分のエゴを抱えている。それがめぐりめぐって、自分に報いを齎してくる。

ここのシーンの先生も、善意のように彩った、当然のようなことを語っていますが、その実、心の中は自分のエゴ。利益が、一番の関心事です。

自分の恋の邪魔になるであろうKを、立ち向かうのでしなく、Kの意志で諦めさせることにより、排除しようとしていたのです。

私はこの一言で、彼がせっかく積み上げた過去を蹴散らしたつもりではありません。かえってそれを今までどおり積み重ねてゆかせようとしたのです。それが道に達しようが、天に届こうが、私は構いません。私はただKが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は単なる利己心の発現でした。(本文より)

Kに、今まで通り、学問一筋の生活をそのまま進ませ、昔の彼が主張していたとおり、彼にとって恋は学問の邪魔になるものだという意識を思い出させ、Kの心に芽生えた恋心を、彼自身の手でつぶさせようとした。

それは、Kの望むことを後押ししたのでしありません。むしろ、自分の利害とぶつかるけれど、自分の手を汚すことなく、目的を達成させる道があったので、先生はその道を選んだだけです。

Kと直接対峙し、自分もお嬢さんが好きなんだと正面から向かい合うことをせず、彼の昔の言葉を使って、お嬢さんに恋する前のK自身がどんな存在であったのかを思い出させることで、諦めさせようとした。

それによってどんなにKが苦しもうが、辛い思いをしようが、どうでもよかった。なぜなら、自分の利害とぶつかるのだから、容赦はしていられなかったのです。

それを善意の、友達の顔をして、先生は行いました。

友達の視点から、「昔、お前はこう言っていたが、その言葉に。今まで貫き通してきた生活に、背を向けて、学問を諦めて、お嬢さんへの恋に進むのか?今まで生きてきた目的を、全て捨ててしまえるのか?」と、あくまでも善意のアドバイスのつもりで、語っているのです。

【居直り強盗】

「ばかだ。」とやがてKが答えました。「僕はばかだ。」(本文より)

このシーンは、作中。一切感情らしい感情を見せなかったKの、唯一ともいっていいぐらい、心情が欲現れているシーンです。

ある意味先生が攻撃側に回ったことにより、動揺せずに彼の様子を見る事が出来たからこそ、聞きとれた言葉なのですが、この言葉はKにとっては、珍しい言葉です。

僕はばかだ、と言っています。自分で、自分が愚かだと言っている。では、どういう自分の行動、または気持ち、こころが愚かだと、言っているのか。

残念ながら、ここは解りません。問題になることも、殆ど無いでしょう。なぜなら、解らないからです。

夏目漱石は、Kが何を持ってここで自分のことを「ばか」と評したのか。その明確な理由を提示してはくれていません。

ただ、表面的に取るのならば、「学問に命を、人生を掛けると決めていたのに、恋に迷ってしまうなんて、なんて僕はバカなんだ」と言うことになるのでしょうが、それだけの意味であるのならば、次の描写は何のためなのでしょうか?

私はおもわずぎょっとしました。私にはKがその刹那に居直り強盗のごとく感ぜられたのです。しかしそれにしては彼の声がいかにも力に乏しいということに気が付きました。(本文より)

先生がぎょっとするほど、一瞬だけ居直り強盗のごとくみえた。

居直り強盗とは、盗みに入ったこそどろが、現場を見つけられてしまい、急に豹変して強盗(暴力をふるい、盗みを働くこと)になってしまうこと、です。

そこから転じて、「悪いことをしても、開き直って正当化する態度。または行為」ということ。

人に恋をすることは悪いことではないはずなのですが、Kの学問の邪魔になるという考えからは、悪いこと、に入る筈です。けれど、それを開き直る。つまり、「恋をしたっていいじゃないか!」と、開き直ること。

先生には、Kの態度が一瞬、そんな風に開き直ったように見えたのですね。けれども、それにしては彼の声は暗い。力強さがない。だから、先生は困惑するわけです。

どっちなんだ? 諦めるのか? それとも、開き直って一心に突き進むのか?

どちらなのか、Kの目を見て判断しようとするのですが、下を向いている彼の瞳は、見えません。

さて、先生の「精神的に向上心のない者はばかだ。」という言葉。

Kに対して、どのような意味を持ち、どんな効果をもたらしたのか。

本来の彼の考えや目標を思い出させ、恋におぼれている暇など無いと、学年の道に邁進させるつもりで、先生が言い放ったこの言葉。

Kに何かを決心させるまでには至らず、結局彼を傷付ける事は出来たけれど、諦めさせることができたのか、どうか。

この続きはまた明日。

ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。

 


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