ものとことば 解説その5
今回は、全体のまとめです。(その1 その2 その3 その4)
【導入部分の例示】
この評論文は、まず導入の部分で、日常生活からの例が示されています。
-私たちの生活は「もの」と「ことば」に溢れている-
普段生活の中では気にもしませんが、私たちの生活は驚くほど「もの」に溢れ、それに対応する「ことば」に溢れています。
「ことば」がついていない「もの」は存在しない。それは、機械の中の部品ですら、名前がちゃんと付いています。
けれど、それらを私たちは日々の生活の中で意識したことがあるでしょうか?
-「名前」がないものは存在しないことになる-
「もの」にちゃんとそれぞれ「ことば」がついている事は、知識として解っています。けれども、じゃあ、それらすべての名称を知っているかと問われると、正直解りませんよね。
数多ある元素記号や、スマホの中の部品ですらも、毎日触っているものですら、その中身はどんな「もの」で構成されているかは不透明です。
つまり、それって目の前に「もの」があったとしても、「なまえ」「ことば」「名称」を知らなければ、それは自分にとって「無いもの」として認知されているのも同じこと。
「ことば」で名付けられていない「もの」は、存在しない。
全ての「もの」には「ことば」で名付けられている事にも繋がりますが、逆を言えば、適切な「ことば」を知らなければ、その「もの」は存在しないのも同じである、ということになります。
【一般論の呈示と否定】
-一般論「もの」が存在し、それにあう「ことば」が作られた-
私たちは常識的に考えて、「もの」が先に存在して、「ことば」が名付けられたと思い込んでいます。
それは確かにその通りで、「もの」がなければ「ことば」を名付ける必要はありません。
けれども、この時、言語が変わっても、同じ「もの」を指す「ことば」。特に、名詞は在るだろうなと、無条件に思い込んで私たちは異国の言葉を学びます。
「いぬ」は「dog」であり、「Hund」である……と対応する「ことば」が必ずあると錯覚しています。
けれど、これは本当に同じ意味を表している言葉なのか。
それぞれの「いぬ」に値することばを調べると、日本語とは違った意味が出てきます。
同じ「もの」を表しているはずなのに、意味が微妙に違う。違う印象をその「もの」に与えている言語がある。
それは、どうして起こる現象なのか。
-唯名論的な考え 「ことば」が先 「もの」が後-
唯名論=「ことば」によって世界は認識される、という意味の言葉です。
つまり、「ことば」が「もの」の認識を変えてしまう、という驚愕の事実。
何故、そんなことが起こるかと言うと、「ことば」は私たち人間の意識を変える、強烈な力を持っています。
人は「ことば」を聞いてしまうと、無意識にイメージを抱く。
いい「ことば」には、良いイメージを。
わるい「ことば」には、悪いイメージを。
なので、「もの」にわるいイメージの「ことば」が名前として付いていると、単なる言葉だけのイメージだけでなく、その「ことば」が指す「もの」そのものの価値も悪いものとして感じ取ってしまう。
逆の場合ももちろんあります。
「もの」の価値は、その「もの」についている「ことば」のイメージが左右し、価値を決定づけてしまう。
そんな力が、「ことば」にはある。
-ネーミングの強力な力-
これは、コピーライティングの世界ではとても有名なのですが、商品は全く変化せず、売り言葉を変えただけで、全く売上が変わった、という事例が沢山上がっています。
つまり、商品の名前=「ことばのイメージ」が、それがさし示す「もの」=商品の価値を上げてしまった。
ある心理学の実験で、ことばのイメージがどれだけ人に影響を与えるのかを調査した面白いものがあります。
見るからに不味そうな緑色の野菜ジュースを用意し、それを「ピーマンの野菜ジュース」とか、「ホウレンソウの野菜ジュース」とか、一般的に子どもが嫌いな野菜をイメージさせるような名前を付けた場合。
もう一つは、「ウルトラスーパーエナジードリンク」とか、「トロピカルグリーンスムージー」とか、横文字のかっこ良さげなネーミングを付ける。
もちろん、中身は一切変わっていません。
けれども、そうやって飲ませたドリンクの味を子どもたちにアンケートしたら、横文字のかっこよさげなネーミングを付けた方を、美味しいと言ったのです。
中身は変わらないのに(笑)
野菜ジュースと付けられた方は、圧倒的にまずいという調査結果が出、同じもののはずなのに、かっこいい名前を付けたら(あくまで子ども目線でかっこいいとおもう名前)、美味しいという意見が多くなったのです。
-「ことば」のイメージに私たちは支配されている-
このように、「ことば」のもつイメージに私たちは大きな影響を受けています。
名称を変える、ということは、恐らくマイナスなイメージをプラスに変えたいために、行うことであることは明白です。
それだけ私たちの意識は、「ことば」の持つイメージに支配されている。
その理由は、「ことば」でしか、私たちは外の世界を認識することが出来ない存在だからです。
だから、その「窓口」が違えば=違う言語であるのならば、見える世界=認識も変わってくる。
おなじ「いぬ」という存在でも、違うイメージをもつ意味合いが沢山出てくるのは、その為です。
【例示 机】
-「もの」に付けられる「ことば」は人間の見地から作られている-
本文では、「机」という物体の定義を通して、人間中心の考え方の中で定義付けされていると示しています。
あくまでも、「ことば」は人間中心で全て作られていて、他の存在から見た認識では語られていません。
私たち人間が「机」がある、と思えるのは、『人間が作業するための、床から離れた平面』という定義を満たしているからです。必ず、定義には「人間」の姿がある。
ということは、「ことば」はすべて人間の為に創り出されたものであると言うことの、証拠になります。
-「ことば」は人間が中心に存在する道具-
だからこそ、様々な「もの」に付けられた「ことば」という名前は、あくまでも人間側の一方的なイメージによるものです。
人間が「もの」を分類するために、整理するために、「ことば」を使っている。
逆に言うと、その「ことば」を変えれば、「もの」の価値も変わってきてしまう。良いようにも悪いようにも、「ことば」のイメージで変化してしまう。
ものは言いよう、というのは、本当なんですね。
けれど、その分類も、整理も、結局は人間のためであり、そのイメージもことばひとつで変わってしまう、不安定なものです。
【結論】
-「ことば」は虚構で世界をくくるもの-
「ことば」は人間の為につくられたものであり、そのイメージを利用して、世界の「もの」を分類しています。
もちろん、その分類や整理は、人間にとって有意義であるかどうかです。
ということは、人間に便利なように「ことば」で整理された世界は、人間が創り出したただのイメージの、作りものの世界なのではないか。
言語は、このように人に作用する強力なイメージ力を持っていて、その「ことば」を通してしか人間は世界を整理し、見ることが出来ないのならば、人間が創り出す「ことば」は、人間の意識に影響を及ぼす虚構性。イメージという実体のない創りものの性質を持っているのだと、私たちは認識するべきなのです。
「ことば」は虚構性がある。
人間が創り出すものには、どこかしら虚構性。人を騙す作用がある。
(映画とか創作物で考えると解りやすいかと。でも、「ことば」自体にもそういう作用を含んでいるのです。)
なぜならば、「ことば」にはイメージがあるから。その「ことば」の力が、虚構性を生みだす。つまり、人間に「これはいいものですよ~」と思いこませる力がある、ということです。
だからこそ、存在していても「ことば」が思いつかない。つまり、イメージが湧きあがらない「もの」は存在していないのと、同じである。
最初の例示に繋がるわけです。
人は様々なものに影響を受けて過ごしています。
その中で、最も強力なのが、この毎日使っている「ことば」なのかもしれません。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
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