徒然草「花は盛りに」をわかりやすく解説その3~友達のありがたさ~


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徒然草「花は盛りに」解説 その3。

【必ず理解できるものしか出てこない古典】

古文の理解し辛さって、「読めない!」「分からない!!」が第一だと思うのですが、実は現代人に通じないものって、読めと言われません。

と言うか、そんなもの、時代の荒波にもまれて、淘汰されています。通じない、分からないから、誰も読まなくなる。保存されない。どっかに行っちゃった。という流れになる。

と言うことは、時代を経ても残っているものって、それだけ通じるものであり、私たちが理解しやすいものであるということを、念頭に置いてください。

-兼好法師の本音-

この兼好さんの「花は盛りに」も、満開だけをありがたがってみるって、みっともないよね。別にみたからって、貴方の心が豊かになったわけでもないのに、と、超厳しめに言ってるだけ。

むしろ、人の心の豊かさや教養の高さが垣間見える時は、物事の最高の状態を味わっている時ではなく、その前後にある。

裏側にあるのは、「無常観」です。

人も、物も、気持ちも、全てが流れていく。変わっていく。

それを否定しても始まらない。だって、それは自然の摂理だから。だからこそ、変わっていくものを無価値なものとするのではなく、その変化を楽しんでこそ、生きる意味がある。生きているのが楽しくなる。

そんな、兼好さんの前向きな、ポジティブな考え方や物事の受け止め方が現れているこの「花は盛りに」続きを読んでいきましょう。

-第3段落 ざっくりあらすじ-

物事って、その最高潮の最高の瞬間を楽しむことが良いのではなくて、その前後に本当の楽しさって隠れているよね。でも、それを分かってくれる人が傍にいない。一人でも、この気持ちを理解してくれる人がいたらいいんだけどなぁ。友達に会いたいなぁ。

と言っています。

この時、都を離れた場所で暮らしているので、友達と会いたくても物理的に無理なんですね。現代の感覚で言うと、海外に居るぐらいの状態だと思ってください。ネットも電話もない。手紙も、滅多に送れない。そんな中で、「会いたいなぁ。会って、この気持ちを分かってほしいなぁ……」とひとり、月を見上げている兼好さん。そんな雰囲気の段落です。

木の隙間から見え隠れする月の影

【第3段落】

-第1文目-

望月のくまなきを千里のほかまで眺めたるよりも、暁近くなりて待ち出でたるが、いと心深う、青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたるむら雲隠れのほど、またなくあはれなり。

(訳)
月についても、満月の曇ったところが全くなく、すっきりと明るく美しい姿ばかりを、ずっと遠くまで眺めているよりも、明け方が近くなって待っていた月がようやく姿を現し、その姿がとても趣深くて青みを帯びたような姿で光り、深い山奥の杉の梢の隙間からちらっと見え隠れする、木々の間からこぼれおちる月の光や、さっと小雨を降らせた雲に隠れたり、また現れたりする月の姿は、この上なく情緒深いものだ。

 

(文法)
「たり」の練習のような部分です。

眺め/ マ行下二「眺む」の連用形

たる/ 完了の助動詞「たり」の連体形

※助動詞「たり」は、二種類。
連用形接続の、完了・存続の「たり」
体言接続の、断定の「たり」

この見分けの練習です。ポイントは、上につく動詞が連用形かどうか、です。

待ち出で/ ダ行下二「出づ」の連用形

たる/ 完了の助動詞「たり」の連体形

※動詞の活用形の判断が重要。
分からない人は⇒参照 今からでも間に合う 解る古典文法解説 基礎編 その1

青み/ マ行四段「青む」の連用形

たる/ 完了の助動詞「たり」の連体形

 

見え/ マ行下二「見ゆ」の連用形

たる/ 完了の助動詞「たり」の連体形




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※「見え」の基本形は「見ゆ」で、ヤ行。
ヤ行は、「や・い・ゆ・え・よ」の行です。上一の「見る」と間違わない事。

あはれなり/ 形容動詞ナリ活用「あはれなり」の終止形

※「なり」を助動詞の「なり」としない事。

(解説)

満月ばっかり。しかも、満月でも、すっきりと雲に隠れていなくて、きちんと見える姿だけを眺め続けるのも、確かに悪くはないけれど、それ以上に月に対して気持ちが揺れ動くのは、満月を見た時ではないよね、と語っています。

むしろ、月を見たいなぁ。でも、今日は見えないかなぁ……と思って空を見上げていたら、夜明けに偶然空の曇りが晴れて、明け方の白い空に、黄金色ではなく、青みがかった珍しい色で、月が姿を現した。

待っている時間が長いほど、その瞬間の嬉しさを、兼好さんは情緒深いと言っています。

そして、木々の隙間からこぼれおちる、月の光。

古典では、影=光です。

光がなければ、影は生まれない。影ができると言うことは、光があると言うこと。(なんかこれをテーマにしたバスケ漫画がありましたね)

特に月は、その姿。光る美しい姿を、「影」と書かれることが多くあります。

現代の科学知識を持っていると、太陽の光を反射しただけで、月自体は光っていないのですが、それを分かっていたはずもない平安・鎌倉時代の人たちの月に対する形容の仕方が、何だかぴったりはまってしまうのは、ただの偶然なのか。それとも、太陽の光とは違う存在だと思いたかったからなのか。

すっきりと見えるよりも、見えたり隠れたり、そんな状態の方が、却って心が惹かれてしまう。

見えないなぁ……と思っているからこそ、心が惹かれてしまう。見たいなという気持ちも、「見れない」という事実が先に在るからこそ、湧き上がる気持ちです。

だからこそ、完璧な姿を見ているのもいいけれど、それを待ち望んだり、見えない時にその姿を希(こいねが)う気持ちが、月を愛する気持ちは強いよねと兼好さんは述べている。

-第2文目-

椎柴・白樫などの、ぬれたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて、心あらん友もがなと、都恋しうおぼゆれ。

(訳)
椎柴や白い樫の木の、まるで濡れているような葉の上に、月の光が輝いてきらめいているのは、その美しさが身にしみるようでいて、これを理解してくれる情緒を理解している友達が今傍に居てくれたらなぁ、とその友達がいる都が恋しく思われてくる。

(文法)
ぬれ/ ラ行下二「ぬる」の連用形

たる/ 完了の助動詞「たり」の連体形

 

きらめき/ カ行四段「きらめく」の連用形

たる/ 完了の助動詞「たり」の連体形

こそ/ 係助詞 強意 (結びは已然形)

 

心/ 体言

あら/ ラ変「あり」の未然形

ん/ 仮定・婉曲の助動詞「む」の連体形
※仮定・婉曲は「~のような」「~のように」の意。教養があるような友達、の意。

友/ 体言

もがな/ 願望の終助詞

 

都/ 体言

恋しう/ 形容詞シク活用「恋し」の連用形(恋しく⇒恋しう-ウ音便変化)
※「恋し」+「なる」⇒「恋しくなる」(シク活用)

おぼゆれ/ ヤ行下二「覚ゆ」の已然形(「こそ」の結び)

(解説)

物凄く綺麗なものを見て、それがとても美しいと自分の思うのだけれども、兼好さんの今住んでいるのは、山里すらはなれている山奥です。

傍に、今まで書いてきた桜の見かたや、月の楽しみ方をしている人もいない。つまり、自分の話している事を分かってくれる人が傍にいない。

そう思うと、「ああ、都に住んでいた時は、分かり合える友達がいたのになぁ」と昔を思い出してしまう。

桜は美しいし、月も美しい。

美しく、心を動かすものは沢山あるのだけれども、それを一緒に同じ目線。同じ価値観で楽しんでくれる、共感してくれる友達がどうしても欲しくなってしまう。

それって、「ああ、この人は自分のことを分かってくれている」って実感が欲しいからです。

こんなふうに考えるのは、感じるのは、自分だけじゃないんだと思えるから、ほっとするし、穏やかな優しい気持ちがこみ上げてくる。

変な言い方かもしれませんが、この「花は盛りに」の論にそって言うのならば、「友達が今、傍にいないからこそ、友達の大切さが却って身にしみて実感できる」「自分の気持ちを分かってくれる存在が、ただただ、ありがたいと思う」ということが、わかる。

傍にいないからこそ、その存在のありがたさが身にしみる。

それは、逆にいえばそれだけ貴方が友達のことを大事に思っていた、ということです。

自分のことを分かってくれる。自分の存在を受け入れて、「ああ、君の言っていること。分かるよ」とただ、それだけを言ってくれる。

そんな存在がありがたく、傍にいてほしい。会いたいと願ってしまう気持ちは、今の現代でも理解できるものです。

その会いたいと言う気持ちが強いのは、その人がとても自分にとって大事な存在であることの証明、とも言えるのでしょう。

一人で貧しい庵に住んでいた兼好さん。

一人だからこそ、また、簡単には会えない状況だからこそ、会いたいと言う気持ちが募ってしまう。そんな姿が、垣間見えます。

 

 

で、徒然草の多くの段に見られるように、「良い例」「悪い例」というのが、必ず対比で描かれています。

今回は月の鑑賞の仕方は、良い例示です。

と言うことは・・次に続くのは、まぁ、悪い例示がきますよね。

ということで、そんな悪い例示が羅列する部分は、また明日。

ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。

 


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