手の変幻 論理国語 解説その2

ミロのヴィーナス

手の変幻  解説その2

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【第2段落の最後の解説】

昨日のエントリーで、素で書き忘れていた部分を補足します。(すみません……)

部分的な具象の放棄=ミロのヴィーナスが、両腕という具体的な一部を失ってしまったこと、です。

それを経る事によって、

「ある全体性への偶然の肉薄」を果たした、と書いてあります。

ある全体性ってなに???

と頭にはてなが飛びそうですが、ここで冷静に本文を振り返ると、対比表現が使われている事に気が付けると思います。

この文の、前の部分が、同じ様な例示が提示されています。なので、共通する前半部分と後半部分を=で結んでみる。

すると……

特殊=部分的な具象=両腕を持っていたはずのミロのヴィーナス

普遍への跳躍=具象の放棄=ある全体性へ迫る

となります。

ここでのポイントは、ある全体性=普遍性が繋がっていることです。

普遍は、前回でも解説した通り、時代や文化の違いを超え、長く語り継がれるものです。

古いもののはずなのに、古いと感じない。

当たり前のように、身になじんでいるもの。それが、普遍です。そして、ある全体性、つまり、一部ではなく、全体に通じる何かに、ミロのヴィーナスは迫ってきた、ということです。

一部の熱狂的なファンだけでなく、広く時代を超えて、人々に愛されるような、何かを、皮肉にも両腕を失うことによって獲得した、と言っているのです。

逆に言うのならば、これほど長く、広い世代に愛される為には、「何かを失っていなければ」そんなことは可能には、ならなかったと筆者は言っているわけです。

これって、なんとなーくなんですけれど、好感度高い芸能人などを思い浮かべてみると、ちょっと理解できるかもしれません。

どんな世代の人にも広く受け入れられる人って、共通して持っているものがあります。

こうやって生徒に聞くと、大概「才能」とか、「長所」とか「容姿の凄さ」とか色んな答えが返ってくるんですが、実は答えは違います。

それは、「欠点」です。

魅力的な人は、何かしらの欠点を持っている。

子どもっぽかったり、大人げなかったり、結構性格悪かったり、超まじめなところがあると思えば、不真面目だったり、甘えん坊だったり、毒舌だったり……

けど、そんな欠点が、なぜか妙に魅力的に見えたりするんですよね。

貴方の好きな芸能人やスポーツ選手。そんなところがありませんか?

そう。

人も、ミロのヴィーナスにも代表されるように、物。物体であったとしても、完璧な姿よりも、欠点や欠損があった方が魅力的に見えてしまう。

その欠点=両腕を失うこと、によって、ミロのヴィーナスは、普遍的な美しさを獲得するにいたった。

では、続きを読んでいきましょう。

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【第3段落】

-逆説とは-

僕はここで、逆説を弄しようとしているのではない。(本文より)

はい、来ました。逆説。

もうパターンですよね。沢山評論文を読んでいると、何度も何度も同じ言葉が出てくるのに気付いてきます。

それを丁寧に拾っていくことが大事。

逆説と本文に来た時は、正説も一緒に考えます。

この場合、

正説=完成されたヴィーナス像から、両腕が失われた⇒美術作品としての価値が失われたこと

のはずです。

別に読んでいても、

「それ、普通だよね。」

と当然のように思える論理です。

誰もが商品を買う時に、欠損しているものを好んで選ぶはずはありません。少しでも綺麗なもの。美しい、欠けたところのないものを選ぼうとするはずです。

けれど、ここでの逆説は、

逆説=両腕が失われたヴィーナス像の方が、却って普遍的な美しさを獲得することができた。⇒両腕を失った方が、【美しさの獲得】という面においては、とても良い。

ということです。

「えっ??」と思いますよね。

だから作者は、

別に逆説を言って真理を言いたいわけじゃないんだよ

と、前置きをしているのです。大概逆説って、人と違うことを言いだす事なので、「目立ちたいだけなのか?」と思われてしまう事もあるんですよね。

だから、前置きとして、「奇抜なこと言っているわけじゃないです。珍しいことも言おうとしてません」って、前置きと、注意書きを書いているんですね。

案外、控えめな主張の筆者の姿がちょっと垣間見えます(笑)

石像を「彼女」と言ったりする、変態なのに(笑)(褒めてます。と言うか、芸術論書く人って、どこかしら変な人が多いし……)

 

-人を惹きつけて離さない、均整の魔-

ここで、美術品としての価値をとうとうと語っています。

「美と言うものの一つの典型」とまで言わしめた、ミロのヴィーナス。

その具体的な美しさの正体を、筆者は「均整の魔」と表現しています。

「均整の美」ではなく、「魔」

これは、「魔力」つまり、自分の意志ではどうしようも出来ないほどに惹かれてしまう、なにかしら魔力的な魅力が、この像の均整の取れた姿には存在する、と言っているのです。

石像……なんですけどね……

この人大丈夫だろうか。なんか、イメージとして石像にすがりついて頬をすりよせている姿が想像してしまうんですが(すみませんっっ)けど、それぐらい、粘着質な表現だよなぁ……と思うのは、私が別段ミロのヴィーナスにそこまで執着をしていないからなのでしょうかね。(笑)

-生命の多様な可能性の夢-

失われた両腕はある捉えがたい神秘的な雰囲気、いわば生命の多様な可能性の夢を深々とたたえている。(本文より)

「いわば」という書き換え、置き換えの接続詞が使われているので、そこを直接的に繋げます。

ある捉えがたい神秘的な雰囲気=生命の多様な可能性の夢

神秘的とは、不可思議で、実体が掴めないもの、の意味。

多様とは、数が多いことです。

なんとなく、捉えるのは難しいんだけど、はっきりしないが故に神秘性が漂っているよね。その、失われた両腕って。

それって、色んな可能性の塊だと言っています。そして、夢は、人間が見るものです。石像が持っているものではない。

つまり、この石像を見るたびに、どうにも欠けた両腕の部分に、それを見た人々は実体が掴めないからこその神秘的な雰囲気を感じ取り、それはこの石像を見たそれぞれの人々が思い描く、様々な腕が人の脳裏に想像されていく=可能性の夢、としているのです。

-勝手に欠けた腕の形を想像する人間-

つまり、そこでは、大理石でできた二本の美しい腕が失われたかわりに、存在すべき無数の美しい腕への暗示という、不思議に心象的な表現が思いがけなく齎されたのである。(本文より)

無数の美しい腕への暗示。

暗示とは、その漢字のまま。暗に示す、の意味です。

つまり、ミロのヴィーナスを見てしまうと、私たちは無意識に、彼女の失われた腕を想像せずにはいられなくなる。=2段落に出てきた【ある全体性】

無数、と書いているのは、彼女を見る人が多ければ多いほど、その想像上の腕の形も、無数に生まれ出てくるからです。

そして、それは具体性のある、物質的な状態ではなく、心象的。心の中で象を結ぶものだとしています。

確かに、この像を見てしまうと、その全体像よりも欠けた両腕の部分に、どうしても視線がいってしまいますよね。

そして、その左腕が根元からそぎ落とされているので、どんな方向を向いていたかは、完全に私たちの脳内の中です。

そんなことを、ミロのヴィーナスは無意識に私たちに想像させてしまう力がある=美の魔力が存在するのです。

完璧な美しさではなく、その偶然欠けた両腕によって。

これが、特殊から普遍への跳躍の意味です。

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-鑑賞者が恐れる事-

その雰囲気に一度でもひきずり込まれたことがある人間は、そこに具体的な二本の腕が復活することをひそかに恐れるに違いない。(本文より)

さて、何故ミロのヴィーナスに腕が補完されること。

つまり、欠けた腕を再生し、付けて、完璧な彼女に。腕のある彼女に戻してあげる事を、この筆者は恐れているし、きっとこの像を見て、「美しい」と思ったことのある人は、そんなことは恐れ意外の何物でもない、と断言しているのです。

欠けた腕を戻す事が、どうして恐怖に。恐れる事になるのか。

【第3段落まとめ】

-欠けた腕という欠点があることによって獲得した美の魔力-

私たち人間は、元々完璧な存在ではありません。そもそも、人間が完璧であるのならば、失敗もしないし、死にもしない、ということになります。(老化は細胞の分裂時に劣化が起こるため。細胞の増殖の失敗がもたらすもの)

けれど、何故か人間は創作物において、「完璧」を求めてしまう心があります。

ですが、「完璧」「完成」された姿の美術品よりも、欠点、欠陥がある方が、人は心を惹かれやすい。

-欠けたものを補う力=その人の美的感覚-

なぜ、欠けたものに人は惹かれるのか。

それは、その欠けた部分を、「きっとこうだったに違いない」と、「自分の想像力」で埋める楽しさがあるからです。

その完成された想像の姿は、それぞれの人の頭の中で違う姿でしょう。でも、それでいいんです。それが、魅力となるのです。なぜならば、人は能動的に考え、結果を出すことに達成感や満足感を得られる存在なので、美の中にもそれを見出している。

0から1を生み出すのは大変です。けれど、ある程度出来上がっている存在の、一部欠けたものを想像することはたやすいし、誰にでもできます。

「あの欠けた部分には、一体どんな腕や顔がついていたのだろう……」

と、想像することが、魅力となり、人々に愛され、普遍的な魅力を獲得し、現代までミロのヴィーナスは生き残ったのです。

この続きは、また明日。

ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。

コメント

  1. 大山康介 より:

    肉迫ではなく、本文には肉薄と書かれています。単に変換ミスならそれで良いのですが、先生が勘違いされておられるのであれば、ある全体性へ迫るという解釈は間違いではないでしょうか。

    • 文LABO 文LABO より:

      指摘、ありがとうございます。
      大修館版の教科書には、「肉迫」表記でしたので、そのまま表記しました。
      教科書によっては、「肉薄」と表記されているものもあります。

      肉薄と肉迫ですが、本来の書き方は「肉薄」で、相手に迫る、という意味を持つことから、「肉迫」とも書かれるようになりました。
      すぐ近くのところまで、迫る。近付いた、という意味で、解釈しています。

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