「贈り物」としてのノブレス・オブリージュ 解説 その2
ここからが、筆者の言いたいこと。本題に入っていきます。
その1で、具体例の概念化が説明されました。
「贈り物」とは、どういう性質を持ち、どんな価値を持っているものなのか。貰ってうれしい贈り物と、そうでない贈り物の違いは何なのか。そして、贈ったほうが返礼がないと残念に思うのは、どうしてなのか。
この特徴を分析し、全ての贈り物に共通するルールを見つけ出したのが、この評論文の冒頭です。
【数学と似ている評論文】
あらゆる事象を分析し、共通項を見いだそうとする。
ここら辺は、とても数学的な考え方で書かれている部分です。複数の例示やパターンから、違う部分や、疑問を洗い出し、比べて、全てに共通する法則を見つけ出す。
良く、数学で、「次のグラフから一般式を導きなさい」なんて問題をやったことがあるでしょうが、この一般化、一般式を導き出す、というのは、「どんな数字を入れても、一定の法則、ルールにおいて、同じ直線や曲線上の点が得られる」ということです。
これって、概念化ととてもよく似ていますよね。
見た目は文字と数字で表し方が違うかも知れませんが、中身は一緒です。
なので、扱い方を覚えましょう。
評論家が取り上げる概念は、評論文の中で常に一定の共通するものとして扱われます。
-概念は評論文の要旨と直結-
この評論文の内容で言うのならば、「贈り物は、受け取った側が価値を自力で補填しなければ、価値は生まれない」というルールです。
そして、贈り物とは、物。物理的な品物に限らず、貨幣。つまり、お金でも、情報でも、挨拶の様なお祝いの気持ちでも、全て同じもの。意味がある。価値がある、と認識した瞬間に、それは価値を発揮するわけです。
だから、「あ~あ、これっぽっち?」と思った瞬間に、どれだけ多くのものを持っていたとしても、「これっぽっち」になってしまう。
逆に、「ああ、こんなに素敵なものを貰ったんだ」と思えば、それは何よりも価値のあるものと成っていく。大切なものが増え、自分の周囲に価値のあるものが増えていく。
それは、人、物、情報、経済的なものや、知識的なもの。全てを含んでいます。
そして、この贈り物のルールは、人の才能。つまり、人間が持っている能力にも、関わってくると筆者は述べています。
正直、私はこれを読んだ時。とても、ドキッとしました。これを高校三年生。今から、受験生活を過ごす子達に読ませる意図は、多分、気付いてほしいから、なのだろうなと思います。
「何に?」
と思う人は、ぜひ、続きを読んでみてください。とても、大事なことが書かれています。
多分、高校生だけでなく、大人になっても、ドキッとする問い掛けと内容です。
【第7~10段落】
-天賦の才能とは-
「天賦の才能」という言葉がありますね。それは自分に備わっているさまざまな能力や資質を「天からの贈り物」だと感じることです。(本文より)
「天賦の才能」とは、天から与えられたもの。生まれつき備わった資質、のことを指します。
誰だって、なんとなーくなんですが、何気なく最初からすんなりと出来てしまう分野って何かしらあるものです。
もちろん、上達するためには努力は必要ですが、勉強の五教科でも、どれも時間は均等に勉強しているはずなのに、最初から「これ、好きだな~」と思えるものだったり、時間を忘れて熱中したり、夢中になってやったりするものが、ある筈です。
国語の評論はだるいけど、なんとなく小説は解るし、解ける。
評論、小説全く分からないけど、漢文や古文は簡単だよなぁ。とか、国語でも結構得意分野は分かれます。数学だって、計算やグラフ、関数は何とかなるけど、図形は全く駄目な子がいたり、図形は得意だけど、グラフはさっぱり。平面は得意なんだけど、空間はからきし駄目……とか、本当に人それぞれです。
その得意だったり、上手いわけじゃないけど、やっているのが何となく好きだったりするのが、努力で獲得していない、生まれつき備わった性質。天賦の才能です。
別に勉強に限らなくても大丈夫。
男の子だったらスポーツとか、映画とか、漫画が兎に角好きだったり、動画好きだったり、女の子だったら服とか、イラストとか、インテリアとか料理でもOK。
そんな風に、ただ「好き」と思えることだったり、何となく最初から出来てしまうことだったりを、「天賦の才能」と言います。
ドキッとするのは、次の言葉です。
贈り物だから、むろん返礼義務があります。(本文より)
そう。天賦の才能、という言葉が示す通り、文字通りそれは天から。現実的には、両親からのDNAからの遺伝的能力とも言えるのですが、それは贈り物です。
そして、贈り物にはルールがある。
そう。
受け取った側が自力で価値を補填しないと、価値が発生しない、贈り物のルールを覚えているでしょうか。
-英語でgiftは天からの才能の意-
言語と言うのは本当に面白いもので、他国の言語を学んでいると、恐ろしく本質をついた言葉が語源に存在している単語が沢山あります。
そのなかでも、英語のgiftという言葉。
単純な、恐らく小学生でも理解できる、「贈り物」という意味です。
けれど、ふっとい英語の辞書を引っ張ってみると、もう一つの意味合いが含まれています。
それは、それこそ神から与えられた、能力=才能、天才の意味が、giftにはあるのです。
と、言う事は……
返礼義務。つまり、「これは価値のあるものだ」と認識することで、始めて返礼義務。お礼をしなければ!! という気持ちが芽生えるのです。
-自力で価値を補填することの意味-
受け取った側からの返礼がなければ、贈った人。つまり、神様を傷付けることになる。この場合、神様は目に見えないので、目に見える存在。つまり、自分に身体を与えてくれた両親。自分を取り巻く人々を、傷付けることになっていく、と言うことになります。
これつてどう言う事かというと……
「あ~あ、自分ってこれっぽっちの才能しか貰えなかったんだ……」
「もっと、頭良く生まれたかったなぁ……」
「なんで世の中不公平なんだろ……」
「もっと美人(イケメン)に生まれたかったなぁ……」
「もっと運動神経良かったらいいのに……」
「もっと親がお金持ちだったら」
「もっと周囲の環境に恵まれていたら……」etcetc……
書いてて気分悪くなってきた……(笑)何故なら、これ。私自身も何度も思ったことがあるからです。
で、こうやって考えてるとどうなるかと言うと、自分のことが大っ嫌いになっていくんですね。で、周囲を恨んで妬む(笑)そりゃあ、物凄い勢いで、妬む。ひがむ。
で、周囲を妬んでいる人間って、どうなるかと言うと、不幸になっていくんですよね。神様を傷付けられない代わりに、周囲を傷付けまくって攻撃しまくって、そうして返礼義務を怠ったしっぺ返しの様に、ちゃんと不幸になっていく。
ね? ちょっとドキッとするでしょう?
「でも、そんな才能、俺(私)貰ってないもん!!」
と言う人も、居るかもしれませんが、筆者は才能と言うのは、十万人に一人とか、そんな人達が持っているものではないと、断言しています。
-人間的な意味での才能とは-
才能の絶対量は評価に値しません。その才能を賦与されたことにどれほど深い返礼義務を感じているか、それが人間的な意味での才能の評価基準です。(本文より)
与えられたもの。天から賦与されたものに、自力で価値を補填することができるか。
要するに、「ああ、良い物貰ったな」と、自分の存在自体に。大げさに言えば、生きていること自体に、価値を自力で補填できるかどうか。
それに、人間的な意味が掛かってくる、と筆者は言っているのです。
逆に、「これだけしか貰えなかったのか」「こんなもの、別に価値なんてないし」「もっと別のモノが欲しかった」と思った瞬間。
天から貰った才能は、価値を失います。どれだけそれが良いものであったとしても、自力で活かし方を探さなければ、それは価値を発揮することは出来ない。
-筆者からのきつい一言-
天賦の才能を豊かに持ちながら、それを自己利益のためだけに排他的に使用する人間を、私は人間として評価することができません。(本文より)
排他的、という言葉は、他人を排斥する。つまり、味方以外は追い出す、と言う意味です。
つまり、天からの才能を、他人の為では無く、自分の為だけに使うことを意味します。
こうやつて、他人の為に能力を使え、と書いてあると、「ボランティアでもしろって言うの?」と眉を顰める子がいるのですが(笑)そう言う意味だけではありません。
人間は、社会的な動物です。
私たちは、人と関わり合いにならずに生きていくことは、土台不可能です。
誰でも、大なり小なり、人と関わって生きていく。
数年前から話題になっているアドラー心理学の「嫌われる勇気」のなかでは、「人間の幸せは他者貢献によってなされる」と書かれています。
ただの挨拶でも良い。笑顔で挨拶されれば、それだけで気持ちが良くなったり、機嫌が良い人の傍にいたら、なんとなく気分が良くなったり。
天から与えられた才能を価値のあるものだと受け止め、価値を補填し、「良い物を貰った」と思うと、自然と感謝の気持ち。返礼の気持ちが沸いてくる。
そして、その感謝の念を神様に返せない代わりに、周囲の人に返していく。
それが他者貢献であり、人間的な意味での天賦の才能だと筆者は言いたいわけです。
人間が持つ能力は、能力それ自体によってではなく、ましてやその能力が所有者にもたらした利益によってではなく、その天賦の贈り物に対してどのような返礼をなしたかによって査定される。(本文より)
どのような返礼をしたか。とあっさり書かれていますが、返礼をするためには、まず、その与えられたものを「良いものだ」「価値がある」「素敵なものだ」と自力で価値を補填しなければ成りません。
ここを忘れてしまうと、返礼義務すら忘れてしまう。それどころか、返礼をする、ということも意識出来ない。気付けない。
確かに、自分の能力を大事にし、それを伸ばす努力をした人が、才能を花開かせて輝いていますよね。
所謂、天才と呼ばれている人で、自分の才能を呪っている人。価値がないものだと思いこんでいる人は、居ない気がします。
つまり、才能を花開かせる天才と呼ばれる人達は、与えられたものに価値を見いだし、それを素敵なものだと価値を自力で補填し、それを伸ばした人のこと。
自分の持っているものに失望し、この程度しか無いのかと嘆く人は、天から与えられた才能をどぶに捨てている様なものであり、活かすことも出来ない。
けれど、自力で価値を補填できさえすれば、価値はそこに生まれてくる。そうして、感謝し、返礼義務を行うことができる。
それが人間の能力である、と筆者は述べています。
能力それ自体の是非や上下ではなく、利益ですらなく、「良いものを貰ったな。ちゃんとお返ししないとな。ありがとうって言いたいな」という気持ちから発生する、返礼の行動。
挨拶をしてもらったら、挨拶を返す様に。笑顔を貰ったら、笑顔で返す様に。
【才能=贈り物】
この才能は天からの贈り物であり、贈り物は、受け取る側が価値を自力で補填してこそ、意味のある価値をなすものとなる、という論理。
贈与と返礼のルールですが、これは受験生にとってとても辛い言葉であると同時に、希望に溢れたエールでも有ります。
誰だって、自分には才能があると思いたい。
けれど、現実は時に厳しく、希望は叶わないかもしれないと、誰もが思う瞬間は有ります。けれど、そんな時に自分の持っているものを価値の無いものだ。どうせこんなもの、と思った瞬間に、持っているものすら価値を見いだせなくなってしまい、意味の無いものと成り果ててしまう。
けれど、自分にも得意なものは有る。
自分にも出来ることは有ると思い、価値を補填し、それを必死に伸ばして、偏差値が最下位の状態からでも東大合格を達成した人達は、世の中に溢れています。
他の分野でも同じでしょう。
自分に天から与えられたものを、価値のあるものとするか、価値の無いものとして溝に捨て去るか。
その判断は、あなた自身に委ねられています。誰もどうにも出来ません。自力で、自分の力で、価値を補填してください。
あなたが天から貰った才能。何だと思いますか?
少し、考えてみてください。きっとそれが、きつくなった時や辛い時に、助けてくれます。
今日はここまで。
続きはまた明日。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
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