「贈り物」としてのノブレス・オブリージュ 解説 その5 まとめ

「贈り物」としてのノブレス・オブリージュ

「贈り物」としてのノブレス・オブリージュ。

解説その5。今回は、まとめとなります。

この文章、大きく分けて三つの部分に分割されます。

一旦読み終わって、理解したと思った後に、どう評論家が論理を進めていったのか。その過程を見直します。

出来れば、ノートなどにまとめてみるのが一番。

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【現代文の勉強の仕方】

 

分かったものを書き表してこそ、始めて理解の立証となる。

良く、

「現代文はワークがなければ、どうやって勉強していいのか分からない。」
「本を読み続ければ良いの? 」

という質問を受けるのですが、現代文の勉強の仕方を少し、まとめておきます。

-第1段階 新しい文に触れる時、先を予想しながら読む-

まず、第1段階目。

新しい文章。新しい内容に触れる時、「多分、これはこういう内容なんだろうなぁ……」と思ったり、想像しながら読むと言うこと。

これ、ドラマとか映画とか小説とか漫画とかを読む時の感覚と似ています。RPGとかにも代表される、物語性があるゲームなどもそうかな。

「ここからこうなるんじゃないのか」
「えっ? 続き、どうなるのよ、これ」

とか、興味のわくものって、続きが非常に気になるものです。それって、内容に没頭していることで、先がこうなるんじゃないか。こういう風に流れていくのでは? と常に考えながら読む。

そうやって、続きを予想しながら読むと、内容を楽しんで読めるようになっていきます。

これが第1段階。

-第2段階 内容を理解する-

分からない言葉、分からない知識などが書いてあったら、素直に調べる。

ちょっとした言葉でも、分からないと理解の妨げになります。だからこそ、流すのではなく、丁寧に理解に努める。この過程で、接続詞の意味を理解したり、論理構成、言葉の知識など、基礎的な、所謂テスト的な技術も同時に身に付きます。

国語に苦しむ子は、殆どがこの過程を疎かにします。

分からないことに素直になって、色んな人に意見を求める。それだけです。

 

-第3段階 読み終わったものを再度見直して、構成を分析する-

理解が終わった後は、再度冒頭に戻り、筆者がどのような過程で結論を導こうとしたのか。

どうして、結論を単純な言葉で書かなかったのか。

結論の内容を分かった上で、筆者の論の展開を見直すと、驚くことが理解できるようになります。

そう。確かに読んだ筈の冒頭に、きちんと筆者の結論が書かれていたり、結論を知らなければ気がつけなかったけれど、色んな場所にそこに繋がる布石が散りばめられていることに、気がつけるようになります。

-第4段階 ノートにまとめてみる-

まとめ方が解らない、と言う人は、単純に段落ごとに何を書いてあるのかを、一行で書き表してみてください。

出来れば、筆者の言葉をそのまま写すのではなく、自分の言葉で書き表してみる。

最初はぐちゃぐちゃだと思います。上手くなんか、ちっとも書けないし、ちっともピンと来なかったりするんですが、続けていくと何となく繋がりが解る様になっていきます。

そして、一度まとめたものでもそれで終わりではなく、数日置いた後に、もう一度最初からまとめ直してみる。

そんな風に続けていくと、より端的により簡単に内容を理解できるようになります。

不思議と、この「まとめる」という単純な作業を続けていくと、読むスピードも速くなっていきます。

速く読むことを意識しても、中々速くならないのですが、内容を端的に理解できる評論文の書き方、論の展開の仕方のコツを見抜けるようになると、ショートカットができるようになっていくんですね。

そして、理解を徹底的にすると、「ああ、これ、前、どっかで似た様なものを読んだことがある」というふうに、自分のなかでリンクしていくようになる。

この点が線になっていく感覚を掴めたら、しめたものです。

文章を読むのが面白くなってくる。それは、テストで触れる文章であってもそうです。

そんな感覚を掴めるよう、今目の前にあるものを、しっかりと読んでいきましょう。

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【全体のまとめ】

では、本文のまとめです。

是非、現代文の勉強方法を知りたい。点数を上げたいと思っている人が居たら、ここからは、まず自力でノートをまとめてみてから読んでみてください。

めちゃくちゃでも、途中で分からなくて上手く文章にならなくてもいいです。

試して、失敗して、改善していく。

その過程を踏まなければ、成長は有りません。まず、試してみてください。

では、まとめです。

-まとめその1 第1~6段落-

冒頭は、贈り物の分析です。

贈り物とは、一体どう言うものなのか。

私たちはすぐ、物品を頭のなかに思い浮かべてしまいますが、高価なものであったとしても貰って嬉しくない物だったり、逆に、全く金銭的な価値がないものであったとしても、嬉しいと思って大事にする時も有ります。

この違いは何なのか。

それを筆者は、受け取る側にポイントがある、としています。

受け取った側が、「これは良いものだ。贈り物だ」と思った瞬間に、価値が生まれる、という贈り物のルール。

「挨拶」を例示にあげ、それには祝いの気持ちがこもっているのが贈り物であるのならば、それを価値の無いものだと無視されると、贈った側は気持ちが片付かないどころか、心に傷を負ってしまいます。

つまり、贈り物をどう評価するかは、受け取る側がコントロールするものであり、受け取った側が自力で価値を補填するもの。

自分で、「これは良いものだ!」と思うかどうかによって、贈り物の価値は決まってしまう。そして、「良い物を貰ったな」と思うと、人は自然とそれに感謝し、返礼をしようとします。

挨拶をされたら、挨拶を返す。
贈り物を貰ったら、それを返す。
良い事を教えて貰ったら、感謝を。

それぞれ、貰ったものを良いものだと思えば、自然と返礼する気持ちがわきあがり、行動に移せていく。

それが贈り物の概念であり、返礼義務のルールです。

商品、貨幣、情報、言葉、感情で有ったとしても、ルールは同じ。

時にそれは、厳しい言葉でも受け取り側によって、価値は決まってしまいます。

自分に役立つものだとするか、そんなのただの言いがかりだとはねつけるか。

全てにこの贈り物のルールは適用されます。

-まとめその2 第7~13段落-

「天賦の才能」神から与えられたものも、贈り物です。

筆者が言う、才能、とはその絶対量ではない。つまり、その才能そのものに価値があるのかどうか、と言うことではありません。

才能そのものに価値がある、としてしまうと、物品と同じ様に高い物が価値があるとか、安いものには価値がないとか、そう言った論争になってしまいます。

そうなると、スポーツの才能が良い、勉学の才能が悪い、数学の才能が最高だ、社会の才能は地味で駄目だ、とか、そんな比較になってしまう。そんなことは言いたいことではないし、議論にすること自体ナンセンスです。

そうではなく、才能を神から与えられた贈り物。自分で掴み取ったものではないのだから、それに対して「これは良い物を貰ったな」と思えば思うほどに、感謝を感じ、返礼義務を感じているかどうかが、人間的な意味での才能の評価です。

だからこそ、「こんなもの」「これっぽっちが才能?」と、受け取った側がそれを否定した瞬間に、贈り物=才能の価値は決まってしまいます。

つまり、才能など発揮することは出来ない。

与えらたれモノをどう伸ばすのか、ということにも繋がっていきます。

だからこそ、自己利益の為だけに使う人は才能など活かしていない。少なくとも私は評価しない、と筆者は強く主張しています。

この自己利益。

「能力使って仕事しちゃ駄目なの?」

と質問に来た子が居ましたが、筆者が言いたいことはそうではありません。言いたいことは、お金や称賛の為だけにする仕事って、酷く辛いものになるし、それは返礼義務では無いということです。

だって、お金や称賛が得られなくなったら、自分の持っている能力は価値の無いものになってしまいます。

それって、贈り物の価値を周囲の評価に依存している状態です。自分で「良い物だな」と思うのではなく、評価や金品の多寡によって他者に判断を委ねてしまっている。これでは、他人に振り回されることになります。

そうではなく、「自分の能力を自分で価値があるものだ」と自力で評価し、価値を補填することによって、自分が生きて、その能力を使えることに感謝と幸せを感じられる。能力を使うこと=返礼義務、です。

それが、他者への貢献。自分だけに与えられた能力を使って、他者を羨むのではなく、他人に振り回されるのでもなく、それが足りない人達に貢献していく。逆に、それは自分にも足りない部分があることを、納得することにもなります。だから、自分の足りない部分も、周囲からの能力で助けて貰い、受け取ることができる。

この考え方が、「万人=才能の持ち主であり、人に与える義務を負っている」という筆者の主張に繋がっていきます。

人は完璧では有り得ない。欠けている部分があるし、逆に言うのならば長けている部分も確かにあるのです。

その長けている部分に自分で価値を補填し、お互いに助け合える義務を背負う。その為には、まず天から貰った才能を、「良いものだ」と思い、価値を見いだすところから始まる、と筆者は言いたいわけです。

けれど、現代社会では、才能に溢れた人ほどそのように才能を扱わない。

自己利益の為だけに使い、敬意や称賛を得る為だけに能力を使うことは、どこか歪んでいます。

だからこそ、「正しい才能のの使い方」を選択するべきだと、筆者は訴えているのです。

-まとめその3 第13~14段落-

「ノブレス・オブリージュ」とは、「持てる者の義務」と言う言葉。

この「持てる者」という意味は、過去は言葉どおり、「貴族」を示し、現在は富裕層や才能に溢れた一部の人々のみを指していますが、筆者はこれを万人がノブレス、貴族、持てる者、としています。

誰もが天から才能を与えられている。ぶっちゃけ、そこに存在しているだけで、天から与えられたものです。

そのことに深い感謝を抱くなら、きっとその人は幸福と感謝に溢れているし、自然とそんな人の周りには人が溢れる筈です。

特別な能力などなにも無くとも、何気なく逢いたくなる人っていますよね。この人にだったら、話を聞いてほしいなって、何気なく思ってしまう人たち。

それだけでも、天からの才能に価値を自力で与え、深い返礼義務を感じている人、と言うことになるのでしょう。

それが、ノブレス=才能=特異性、多様性、個別性だと、筆者は理解しています。

私たちの誰もがノブレスであり、持てる人であり、才能に溢れている。

才能など無い、と思っている人は、自分で自力の価値補填を怠っている人でも有ります。

だからこそ、自分の固有の能力。「他人にはできないことが自分にはできる、他人にはわからないことが自分にはわかる」それがあると言う事に、目を向けて欲しい。気付いてほしいと言う筆者の願いも読み取れてきます。

だれもが才能に溢れ、その才能を返礼義務。隣人たちの為に捧げる行動を続けたならば……

幸せに生きるための、一つの理想図になるのではないか。

そう筆者は語っている訳です。

【総まとめ】

・その1 贈り物とは、受け取る側が価値を決めるものであり、価値を認めたら経返礼をしたくなるものである。

・その2 才能もまた、天からの贈り物であり、その価値を認めると返礼義務が生じる。他者にない自分だけに与えられた能力を、それがない人々に感謝とともに返していくことが、贈与と返礼のルール。自己利益の為に使う才能は間違いであり、正しい使い方をすることが、人間的な才能の使い方である。

・その3 我々は全ての万人がノブレス=才能を持っている、持てる者、富めるものである。それぞれ個人が持っている才能。その特異性、多様性、個別性を隣人に捧げること。
特別な一部の人だけが与え得る義務を負うのではなく、我々すべてが才能を持ち、他者に与える責務を背負っているのだ、というのが、筆者の主張するノブレス・オブリージュ。

縮めると、こんな感じになります。

これを自力で何も読まずに(確認のために読み直すのはOK。でも、写すのはNG)かければ、テストでの問題に答えることは難しいことではありません。

ぜひ、試してみてください。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

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