知の体力 解説 二回目です。
【前回のまとめ】
まずは、前回のおさらいです。
-「学ぶこと」は目的のためにするものなのだろうか、という問題提起-
学ぶこと。学問、勉強は、現代社会ではあまりにも目的と密接にかかわり合っています。
勉強をして、良い成績を取り、いい大学に入り、良い就職先に合格する。
誰かが決めたルールに従い、要求された問題だけに応えられるように、必要なものだけを吸収し、目的達成のために最短距離で効率よく、知識を身につけて行く。
けれども、それに対しての反論として、目的を達してしまうと、途端にやる気を失ってしまったり、目的がないと動けなくなってしまう人が増えてきていると筆者は警鐘を鳴らしています。(警告している、という意味の言葉です)
特に、日本で顕著なのが、大学に入ってしまったら勉強、もっと言うのならば、学ぶ、ということを見失ってしまう学生が、とても多くなってしまうと言うことです。
おかしいですよね。
勉強したいものがあり、勉強するため、学びとるために学校に行きたいと思い、大学を受験することを決めたはずなのに、入った途端、何を勉強して良いのか解らなくなる人が多くなる。
これはどうしてなのか。
目的と対になった勉強は、目的を達成してしまった後、用済みになってしまうからです。「役にたつ」と思ってすることは、役に立たなくなったら、用済みになってしまう。動かないスマホと一緒です。「いらない」となってしまう。
けれど、「本当の学び」「本当の勉強」はそうではない。
その意味、意義を理解してほしいというのが、筆者の主張です。
-一般論の否定の後に、筆者の意見-
合わせて、評論の文章の順番も覚えておきましょう。
一般論の呈示=「勉強は役に立つ、見返りがある、利益があるから、やるものだ、という考え方」
一般論の否定=「利益、見返り、役に立つからやる、という考えは、目的を達成したり役に立たなくなると、用済みになる。⇒学ぶことの意義を持てない、やる気、モチベーションがない大学生が大量に発生している」
本当に、これで良いのだろうか?
という順番で論を展開し、筆者の意見に繋がっています。
では、続きを読んでいきましょう。
【第8~12段落】
-学問と学習の違い-
本来の勉強というものは、あるいは学問というものは、何かのためにすることではないのだろう。具体的に何かを解決するためにという目的のはっきりしたものは学習であり、学問とは学んで問うもの。何かの解決のためのものではないと思いたい。(本文より)
細かい言葉の違いです。
こういう細かいところに、気を配れるかどうかで、理解の度合いが変わってくるので、要注意。
しっかりとまとめましょう。まとめる、とは授業の黒板をそっくりそのままノートに写す事ではありません。
まとめるとは、自分の言葉で説明できるように、書き表すこと。
何か一つでも構いません。そっくりそのままではなく、自分の言葉を使ってみる事。最初は上手くいかなくても良いです。けれども、自分の理解の為にやってみてください。
テストで点を取ることは、二次的なことです。手を動かしてまとめる、言葉を、文章をつむぐ、ということは脳を物凄く使う作業です。その積み重ねが、論理展開を容易にしていきます。
高校国語の第一歩。
是非とも、高校生の勉強をしてください。
では、本文に戻って。
学習=具体的な問題を解決するために、何かしらの目的のために行うもの。
自転車の乗り方や、英語の喋り方、も基本的にはこの「学習」に分類されます。
自転車は、行動を容易にするため(目的)に、自転車の乗り方を学ぶ(手段)
英語は、コミュニケーションを容易にするため(目的)に、英語の話し方を学ぶ(手段)
これらは全て、学習です。目的のために行うものです。
こう考えると、私たちが日常に行っているものは、ほとんどが「学習」なんですよね。
では、学問は何なのか。
学問=学んで問うもの。
「はっ???」と首をかしげている光景が見えそうですが、ちょっと考えてみてください。
学べば学ぶほどに、疑問が湧いてくるものってありませんか?
例えば、古の考え方で、「人の本質は、善か悪か」ということを真剣に考えた人がいました。(参照⇒人は善悪どちらの性質なのか 性善・性悪説 その1~漢文解説「孟子」(公孫丑上)~「不忍人之心」)
どっちだと思いますか? 人は、もともと生まれつき、悪。つまり、悪い心を持って生まれてくるのか。それとも、もともとは善の心を持っているのか。
もし、悪の心を持っているのならば、善良な人はどうして出来あがるのか。
もし、善の心を持っているのならば、犯罪者はどうして生まれてしまうのか。
どうしてこの世は争いが絶えないのか。
それはもともと人が争いを好む性質を持っているからなのか。
いや、けれども、争いを望まない人も確かにいる。なのに、歴史上、争いがこの世から去った試しなどない。
ならば、人の性質はもともとどっちなのか。。。。。。
これってちょっと考えると解ると思うんですが、そう。「明確な解答」「正解と思われる、確実なもの」というのが、実は存在しない分野でもあるんです。
学習には、明確な「答」があります。ええ、とってもきっぱりしている。
だから、テストとかにも出しやすいし、目的があるんだから、それをクリアすれば良い。基準点・目標点もはっきりしていますよね。
けれど、「学問」は、「答」が無いんです。
もちろん、一定の呈示される「解答」らしきものは存在します。根拠を示し、今、自分が考える最良の答は「これ」ですよと示してくれる。けれど、その「答」も見方や違う視点にたてばぐらつきます。
この世の中にはさまざまな考え方が存在して、その時々の考え方として、哲学者たちがさまざまなアプローチや根拠を探して、結論を導き出している。
その軌跡。考え方の道筋を、過去の賢者たちに習ってなぞることが、「学問」です。
そうして、学べば学ぶほど、「これって、どうなんだろう……」という疑問が次々に湧いてきて、終わりがない。
そんなものが、「学問」であると筆者は言っています。
確かに、何かの解決の為にすることではないですよね。何せ、「結論」はありますけど、「解決」はしていないわけですから。
けれど、数多の賢者たちの知の結晶。施行錯誤の結果、導き出された結論を知っている事。学んでいる事は、その人をどのような状態にするでしょうか?
-将来は想定外の事態だらけ-
これから自分が生きていくとき、何が起こるかは、現在の時点でまだ誰にもわからない。(本文より)
私たちの将来。つまり、未来は予測不能な時代になっていっています。
多分、この教科書を使っている年代の高校生は、センター試験自体がすでに未知のものになりますよね。
現時点でどんな試験になるかは、蓋を開けてみないと実際全く解らない。つまり、対策なんか取れない時代の受験生になることは決定です。
なら、想定外の出来事。事態に対処できる人間って、どんな力を持った存在でしょうか?
そう。臨機応変さ。物事の問題点を瞬時に見抜き、対処と対策が打てる人間、というわけです。
さて、この臨機応変さ。
どうやったら、身に付くでしょうね。
学習で、これが身に付くでしょうか? あまりにも目標が漠然としていて、明確なラインも、試験なんかできるわけもない。点数化出来ない部分です。
-学問は想定外の問題を乗り越える力を蓄えられる-
想定外の事態を、なんとか自分だけの力で乗り越えていかなければならない。生きるとはそういうことである。(本文より)
「生きる」とは、思いもよらない事態との直面です。
何度も何度もそれに直面する。
けれど、そうなってしまった時に、「役に立つから」という考え方で勉強をしていた人間は、「どうすれば問題を乗り越えられるか」という、思考方法を知りません。
海外に行きたい。海外で生活したい。と考えると、すぐさま「英語が出来なかったらどうにもならないから」と、英語を勉強する。英語がある一定までのレベルにならないと、海外に行けないと思ってしまう。「役立つ」から、英語を学ぼうとする。
けれど、「どうすれば海外で生活できるようになるのか」ということを考えたら、まず考えるのは収入の確保です。ぶっちゃけ、お金さえ稼げればすぐ海外で生活できます。なら、どうやって稼ぐか、ということを考えた時、向こうの企業で就職することを考えたら、まぁ英語は必要になるかもしれませんが、今のこの現代社会。別段、家に引きこもってお金を稼ぐ方法なんて山ほどあるはずです。
Youtuberでも、インスタグラマーでも、株への投資でもビットコインでも、それ以外にもクラウドファンディングでお金を得る方法だってあることにはある。
なら、別に日本にいる意味、無いですよね。
だったら、必要なのは英語ではなく、財力の確保。自身の稼ぐ力の確保のはずです。
けれど、「海外に行きたい!」という学生は、なぜか皆、一様に語学学校に通うことを選択する。手段の一つとしてそれを否定はしませんし、出来た方が有利だし、可能性も広がりますが、語学はあくまでもコミュニケーション手段の道具であり、それができたからって海外で生活できるわけではありません。
「自分だけの力で乗り越えていかなければならない」=「自分なりの問題対処能力を身につける」ことであり、=「考え方の発展」です。
その思考能力を身につけるために、「どうして?」「何故?」「どうやったら、この問題がクリアになったのか」を、常に自分に問い、人と議論し、またそれに向き合った過去の賢人の施行錯誤の過程を学ぶ。
学問とは、その工程の繰り返しです。
-愚者は己の体験に学び、賢者は歴史に学ぶ-
「でも、そんなこと知ってたって、役に立ったことなんかないもん」
勉強をする時に、これが如何にナンセンスな言葉であるのか。
「役に立つ」ことは、「学習」です。
そして、「学問」は深く問いを重ねて行くことで、考え方の対応能力を上げて行くことです。
これは、明確な数値で測れるものではないので、傍目には何の役にも立っていないように思えるかもしれません。
けれど、「どうすればよかったんだろう」「あの時、どうやったらクリアできたのか」「これ、あの時と似ている。だったら、次は違うやり方を試してみよう」という考え方は、施行錯誤を繰り返し、自力で考える素地がなければ育ちません。
「答」が無い物に対して、どうアプローチしていくのか。
それは、同じ様に「答」のない問題に対してアプローチしていった過去の賢者の人々の思考をたどること。そうして、考え方を学びとり、自分の問題に照らし合わせて、それを応用していく。
もちろん、失敗もあるし、ぴったりとはまらない場合もあると思います。けれど、その考え方を何度も練習し、過去から学び、未来へとつなげて施行錯誤するその姿勢が、「学問」であり、その訓練をこなした上で身に付く体力を、「知の体力」と筆者は名付けているのです。
【まとめ】
-知の体力とは-
現実の世界での問題は、明確な「答」など存在しません。
例えば、いじめ問題。
これを解決するために、明確な正しい「答」など存在するでしょうか?
あるのならば、こんなに深刻化していませんし、問題は恐ろしい速さで変化し続けています。それに対応するためには、どうするのか。
自分が、被害者はもちろんのこと、加害者や傍観者にならないためには、どうすればいいのか。どう、対応し、どんな言葉を言えばいいのか。
そんなもの、「正解」は、その場その場で変わりますし、状況や環境でも、千差万別に対応は変わります。
直面する問題を乗り越えるために、「学んで、問いかける」。
過去、同じ様に問題に足掻き、苦しみ、研究し、対処してきたその人々の過程。考え方を学びとること。
それを知っているかどうかで、想定外の問題と直面した時、その場を乗り切り、対処する考え方の素地が変わってきます。
豊富に例示がある中での、導き出した考え方と、自分一人の体験しかサンプルがない中で導き出した考え方と。
さて、有効なのはどちらでしょうか。
学問とは、知の体力とは、未来の時間に起こる問題に対処するための力を養うためのもの。
そう筆者は定義しています。
今日はここまで。
明日は、全体のまとめです。
ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。
続きはこちら⇒知の体力 解説 その3 まとめ
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